有村蛍の恋と顛末④

 少し目が眩みそうになったところで立ち止まり、ゆっくりと息を吸って吐く。とりあえず一通り記憶を鑑みて、ようやく自分の違和感に合点がいった。そうだ、あの時から今まで、何よりも僕の息を浅くさせているのは、皆原先生だけではなく、あの嘲笑だった。あの悪意無き真の侮蔑心だった。


 僕はあの人たちが宛がった怪物の役を自分がやる羽目になることを恐れていたのだ。自分のコントロール外で「皆原先生と上手くやれていた自分」が破壊されていくことが怖くて堪らなかったのだ。


「いや、馬鹿だろ……」


 寝室の扉に移る影に投げかける。僕がすべきは自分を人間扱いしてくれやしない相手の話を真に受けることではない。それなのに僕はずっと皆原先生が僕を怪物だと嘲笑う様を妄想している。


 僕は人間に対しての良識があるという自負がある。たとえ嫌いな人であっても、相手が身体的なハンデを負っている状況を良しとするだなんて、ましてやそれを利用して相手を自分の良いようにするだなんてことはしない、好奇心に負けない限りは。皆原先生に対しては良識に加えて愛情がある。欲から愛は始まるのだと言うけれど、僕はそうは思わない。少なくとも僕はそうではないと思う。その人が好きで、どうしようもなく愛してしまったからこそ、普通ならば許されないところを触りたいと思う。触るのを許してもらいたいと思うのだ。僕にとって、欲は愛の向こうにある。


 だから、常であればいくら皆原先生が魅力的に映っても、看病に専念するという自信が持てたであろう。しかし、今晩はあの、同僚たちの無邪気な甲高い笑い声が、本当はお前は理性のない獣なのだと謗ってくる気がしてならなかった。


 だから、この人から離れたかった。


 けれども、この人を離したくなかった。あんなにも簡単に裸が触れ合って、体温が溶け合うのに、この人のずっと奥にあるものがまったく見えてこないことが、はち切れるくらいにもどかしかった。


 僕は今、何より皆原先生の世話をするべきだ。そしていつかは、愛し合いたいと思っている。それが途轍もなく罪深いことに思えてくるのだ。このまま仲の良い同僚に留まることこそが、正しいのだという考えから離れられずにいた。


 僕はあの人を愛している、暖かな場所で安らかな日々を過ごしてほしい、そう思うことをどうして間違いだったなんて思わなければならないのだろうか。想うだけなら良いじゃないか。皆原先生が冷たく笑いかけてくれる限り僕は皆原先生が好きなままだって良いじゃないか。


 僕は静かに扉を開いた。


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