有村蛍の恋と顛末③

 まず、今日は金曜日で、しかも一学期の成績付けも峠を越えたという、いかにも日比谷教頭や国語科の佐々木先生が飲みを開催したがりそうな日だった。


 職場に年配の方が多いからか、それとも単に教育現場だから同僚間のコミュニケーションが他の業界よりも重視されているだけなのか。ともかく、この学校では飲み会が頻繁に開催され、実質的に全教員にはこれに参加する義務が課されているという、ある種の前時代的とも言える空気感が色濃く残っていた。率直に言って、僕は酒場で酔っている人間や、酔ったふりをしている人間を観察するのは好きだし、喧噪の中で皆原先生とぽそぽそと話し合う時間には甘く心地よい歯がゆさがあったから、この因習に抗議しようとは思わなかった。


 ただし、一部の先生方の眉を顰めざるを得ない怒号や悪ふざけやらには辟易としていた。


 恐らくだが、本来ウコンのパワーを頼みにするかシジミの味噌汁に縋るかをじっくりと考えねばならない現状でなお、僕が脳の容量を過去に回さなければならないのは、今回の「悪ふざけ」が僕の恐怖心を的確に刺したことが原因だろう。


 日比谷教頭は騙してアルコールを摂取させるという一歩間違えれば命を脅かしかねない、とても「悪ふざけ」ですまされないことをした。アルコールは毒だ。もし、皆原先生がアルコールアレルギー等のアルコールの分解能が極度に低い人だったのなら、その毒性はより顕著になって皆原先生の身体を害しただろう。それにもかかわらず、日比谷教頭はからからと笑っていたのだ。そして周囲もそれを看過していた。


 パフォーマンスの意図のない純粋な怒りを感じたのは幼少期以来かもしれなかった。僕は周囲と自身の視点の差に対する怯えから沸き立つ短絡的な攻撃性を抑えつけ、できるだけ冷笑的でないように、激情的でないように、本人の了承なしにアルコールを摂取させることの危うさを説明した。ウィットに富んだ冗談でも交えながらやんわりと促した方が皆様方にはさぞや受け止めやすかったのかもしれないが、失礼ながら冗談で酒を無理やり飲ます人間に通じる冗談が思い浮かぶほど酔っていなかったのだ。そしてなにより、僕はこのことを「悪ふざけ」で済ましたくはなかった。もしくは、悪ふざけで人が壊れることを日比谷教頭や、皆原先生がたった一杯お酒を飲んだだけで臥せっているのを面白おかしそうに観賞している先生達にも共有して欲しいという欲求が突如として頭に浮かび上がったのだ。せめて、解らなくてもいいから、その面白がる目を伏せて欲しい、そういう類の祈りがあった。


 一泊、どう自分が追及されるのを避けようかと逡巡する空気が漂う。しかし、「といってもねぇ、アンタねぇ、ここじゃあ許されてますけどねぇ、社会人で飲めんは無いでしょう。だぁから鍛えてやったちゅうのに、まったく」と日比谷教頭が断じて、佐々木先生が「ふふ、まあ別にいいんじゃない有村先生? 女の人に無理やり飲ませたってわけじゃないんだし、ねぇ」と軽やかに歌い上げたことで、皆は再び緩まった顔で皿をつつく、皆原先生を置き去りにして。


 ああ、僕は間違えたのだ、上手くやれなかったのだということに寒気を覚えるほど動揺していた。


 あのとき即座に何か言うべきだったことはわかるのに、今考えてもどう言えば良かったのかがわからない。それでも、きっと、黙ったままでいるべきではなかったのだ。


「まったくその通りですよ。男にちょっと飲ませたくらいでねぇ、アンタねぇ、アレルギーだの毒だの脅されちゃあ堪ったもんじゃねぇよ。有村先生、アンタもしかしてソッチの気の人じゃぁないでしょうねぇ」


「あっはぁ!やだ、ソッチの気って……そんな、ねぇ、ふふっ」


 佐々木先生の耐えきれないという表情があっと言う間に連鎖していって、気づけば大部屋は大笑で満ちていた。悪寒が背筋尾てい骨からうなじを舐め上げて、心臓は痛いくらいにのたうち回った。昔から慣れているはずなのに、このときはなぜだか皆原先生の薄っぺらい笑顔がフラッシュバックして、一気に自分がどこにいるのかまるでわからなくなる。映画を見ているような気分なのに、不快感を超えた冷たく身を焼き付ける焦燥だけがあまりにもリアルだ。嵐のような笑い声が耳鳴りのように遠のいていく中、皆原先生が不愉快そうに呻く声だけが近かった。黙って立ち尽くす自分が惨めだった。


「だあ~っから、おホモさんですかいって聞いてんのよ」


「もおっ、ヤダわ教頭先生、そんな有村先生ってクネクネっていうかぁ、ナヨナヨした感じじゃないじゃない? そりゃあ確かにねぇ、そろそろお嫁さんもらわなきゃなんない歳なのに、彼女さんもいらっしゃらないなんて、ふふっ、ちょっと心配ではあるけどねぇ、だからってソッチとかって、ふっ、有村先生に失礼ですよ、ふふ」


 酒屋は僕の査定会で盛況していた。


 何故、自分がこの場に立っているのか、そんなことすら途方もない不条理に思えた。屈辱よりも不快への拒否が勝り、無難な一言を絞り出して皆原先生を背負って騒がしい世界からしけった夜の道路へと抜け出した。

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