有村蛍の恋と顛末②
まさしくたった今、皆原先生が僕の肩の上でうなだれている。
いや、もちろんこれは関係性が進展したとか、ましてや恋が実りましただなんて都合の良い状況ではない。心の清い皆原先生が教頭にソフトドリンクだと騙されてアルコールを摂取してしまい体調を崩してしまったから、しかたなく僕にべったりと張り付いているだけで、ろくに真っすぐ歩けない状態だから、徒歩十分近くある駅を経由して自宅に帰るのではなく居酒屋から徒歩二分ほどしかない僕の家に泊まるしか選択肢がないというだけで、別に皆原先生は望んで僕に身体を預けてくれているわけではないし、僕だって苦しそうにうんうん唸っている人の言動から好意を感じ取るような名状しがたい人間性を有していない。
アルコールの残滓と右半身から伝わる皆原先生の息遣いに耐えながら、僕はどうにかゆっくりと皆原先生に階段を昇らせて、我が貉の扉までたどり着いていた。痩身とはいえ体長のそう変わらない皆原先生を支えてこの扉の前に立てたのは、ひとえに中学から大学まで剣道部員として浪費してきたあの苦い汗の賜物だろう。
左手で鞄のポケットを探り、鍵穴に差し込む動作の間にも、アルコールで参ってしまっている皆原先生の汗で少し湿った毛が火照ったうめき声と一緒に首に絡みついてくる。
「うぅ……はあ、あたまが、重い……」
「えっあ、そうですよね! すぐに、今すぐに横にさせてあげますから」
おねがいします、と鼓膜に直に垂らす様に囁かれた低く掠れた声に心なしか皆原先生の脇に挟ませた右腕が力んでしまう。いけない。ああ、こんなことは絶対にいけない。早く皆原先生をベットに安置させて、水分供給をさせてあげなければ、早くこの心地よい熱源から体を離さなければならない。
人に寄りかかられることが、いや、愛おしい人に体の全部をゆだねられるということはこんなにも甘く身を焼くものなのか。そして、自分に頼らざるを得ない無力な人に、自身の欲を重ねてしまうことはこんなにも背徳と罪悪感で血塗られているのか。
ビビットで邪な感情がせめぎ合い、乱闘を続ける中でも、なんとか間違わずに皆原先生を引きずりそっと寝台に横たえる。右肩が寒くなった。はみ出した右脚を寝台の上にのせるついでに土足のままの皆原先生のくるぶしにそっと手を添える。これは決してやましい気持ちからではない。古いが手入れのされている革靴を取り上げて、皆原先生の安眠を促進し、我が家のこれ以上の汚染を防ぐためである。これは、決してやましい気持ちからではない。
靴を二足抱えて玄関へと向かい、それを自分のものの隣に並べる。自分の靴と皆原先生の靴が並んでいるというだけなのに、下心のある感動がとめどなく僕を襲った。後で写真撮ろう。
こうした興奮は長くは続かなかった。すぐに皆原先生に水分補給をさせなければならないからというのもあるが、二人で酒屋を出たあたりから心が高鳴るたびに、何故か何らかの違和感──というよりは嫌悪に近いような感情がのど元に突き付けられるのだ。こうしたことは今までになかった。確かに、皆原先生からの明確なアプローチがないにも関わらず、彼の許容に甘えて必要以上の関りを持とうとする自分に自己嫌悪がなかったわけではない。しかし、それでも、皆原先生と関わり合えることが何よりも嬉しくて、恋慕を隠して皆原先生と「上手くやれている」自分を誇りさえしたというのに。
立ち止まっていても一向に心臓は縮こまったままである。ごみ袋と、段ボールから取り出した箱買いしている麦茶のペットボトルとを寝室に持ち込むといった単純な任務をこなす幾何の間に、この心の痛痒を沈めなければならないだろう。そうしなければ僕は、一歩も皆原先生のいるあの部屋の扉を開けない予感さえあるのだから。
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