君食らわば毒まで

きょむ太郎

有村蛍の恋と顛末①

 皆原先生は死体のような生き物だった。


 死んでいるのに生きている、なんて、これ程までに馬鹿げた撞着があるだろうかと自分自身でもそう思う。これでも四年間は長大な論文やら実験やらに苛まれ、とどめとばかりにレポート課題に身を細切れにされながらもみっちり生物学を修め、今や人にそれを教える身だ。確かにヒトは死んだ細胞、つまりは老廃物を抱えながら生命活動を維持しているわけだけれど、だからって「死体のような生き物」という表現が、科学的にも、僕の学徒としての信条的にも、さらには道徳的にも正しくはないことは自明だ。しかし、それ以外に皆原先生にふさわしい形容詞が僕の言語野の中では見当たらないのも事実であった。


 皆原由哉先生は、僕と同い年の数学教師である。


 皆原先生も僕と同じように新任教師としてこの学校に配属されて、同じ理数科だったからデスクも近かったし、加えて年配の先生が多いこの学校において僕と同年代なのは皆原先生だけだったから、自然と関わる機会も多い。それなのに僕は未だに皆原由哉という人間が理解できずにいた。


 皆原先生は表情のレパートリーが仏頂面か薄い愛想笑いくらいしかない上に、めったに能動的なコミュニケーションを試みない人間ではあるが、人付き合いが悪いというわけではなかった。挨拶は自発的に生徒にも同僚にもするし、日常会話をろくにしない代わりに報連相や情報共有にはむしろ積極的だった。しかも僕がしつこくプライベートに関する質問攻めをしても丁寧に受け答えしてくれたし、皆原先生から質問をして会話を持続させてくれることもしばしばある。


 少々残念にも思えることだが、皆原先生のこうした受け身だが消極的ではない態度は、僕以外の人間に対しても平等に与えられている。授業時間でなければ生徒のたわいない会話にも応じるし、禁酒禁煙がモットーらしいのに飲み会にはほぼ毎回参加してちびちびジュースを舐めている。


 こんな感じだから、僕が皆原先生の対人トラブルのフォローをしていた時期は存外に短かった。始めは不愛想で偏屈な教師だと思われていた皆原先生も、今やすっかり「ちょっと表情筋が固いけど有能で良い人」という評価に落ち着きつつある。


 だけれども、僕の中での皆原先生に対する感想は一貫して「死体、なおかつ生体」である。


 皆原先生はとても有能で、心が綺麗な人で、表情が固くて対人面で不器用なところもまた愛嬌で、という周囲の人々の評は間違ってはいないだろう。しかし、僕が思うに、それらの要素は表面的な、社会的体裁のためのペルソナに過ぎないのではないかと、皆原先生の、麗らかな春の平和な日の午後ではないかぎり、嘲笑にしか見えないあの薄い愛想笑いこそが皆原由哉の本質ではないかと、そう僕は感じるのだ。


 少しファンシーな言い方になるけれど、僕にとっての皆原先生はネクロマンサーに操られている死体のような人なのだ。本体がどこか、僕がどう頑張っても触れられないような程遠くにある。皆原先生と接するとき、そんな肩透かしを食らうようなもどかしい感情が腹の底で渦巻くのである。


 きっと、僕は皆原先生を知りたいのだ。それは初め好奇心でしかなかった。隠匿されたものや難解なものを見つけると、それを理解したいという欲求で頭がいっぱいになることが僕の幼少期からの悪癖だった。最初の二年はただの探求心をコミュニケーションだとか絆だとかいった小綺麗な概念で包んで、それを皆原先生にぶつけ続けるという、未熟な子どもを導く教師としてあるまじき独りよがりな行為でしかなかった。


 確かに、過去において確かに僕は皆原先生に暴力的なまでの好奇心をぶつけていた。だというのに、今の僕は、あの人に注がれる俗物じみた目線の全てを退けて、ただただ暖かい風が柔らかく吹くところに連れて行きたいと思っている。きっかけは何なのだろうか、思わず零れた微笑なのか、雨が好きだと言ったときの低い声か、残業の時にぼんやりと中空を眺めるときの瞼の質量か。ともかく、僕はいつの間にか命題としてではなく、人間として皆原先生を愛するようになっていた。


 いや、ただ愛するという言葉だけではままならない。僕は、こういう風に人間を好きになったのは初めてのような気さえする。いつもであれば僕は、この恋を一種のエンターテイメント的に消費しただろう。僕は常に第三者であった。人間のことは好きだし、律するまでもなく良心的に振舞ってはいるが、それすらもどこか他人事なのだ。道徳的な態度はおおむね近くで人間を観察して面白がることを容易にするための手段であり、またそのことに対しての罪悪感から生じるものだった。もちろん彼らを本気で愛したり嫌ったりしたが、それさえも俯瞰する自我が消え去ることはなかった。僕は時として自分の感情の機微さえも物語的に消費した。「僕」は人間らしく主観的に泣いたり笑ったりするのだけれども、その「僕」の頭一つ上にはカメラがついていて、実際の僕はモニターを通して「僕」を操作しているのではないかという感覚、こうした観劇的態度が皆原先生相手には適応されなかった。皆原先生と話すとき、僕は間違いなくカメラを通さない僕の目で皆原先生の頬の影をとらえ、異空間を漂っていた魂ごと引きずり降ろされて皆原先生の一挙手一投足に歓喜した。こんなにも不自由で、こんなにも幸福な感情は初めてだった。きっと、二度目はないのだろうなとも思った。


 この異例の恋はそれなりに苦しみもあったが、とても暖かく僕を包んだり日常に彩りを加えてくれるものでもあった。生身でいることを余儀なくされる特別な人の側はもどかしい程に心地よかった。そう、概ね上手く回っていたのである。


 職場には若い先生がいなかったから、無為な嫉妬に駆られることもなかったし、皆原先生は徹底して性を周りに嗅ぎ取られないよう振舞っている人だったから、期待を膨らませたり押しつぶされたりということもなかった。たった今の状況からすれば欠伸が出るほど平穏な愛おしい日々であったと言えるだろう。酒気をおびた皆原先生がぐったりと僕の右肩にもたれかかっているこの十時過ぎにくらべれば、プリントをやりとりする時に指が触れ合いやしないかとドギマギしていた昨日の午後三時がひどく色あせた写真の中の物事のように思えた。


 そう、まさしくたった今、その愛おしい人が僕の肩の上でうなだれている。

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