第180話 最終決戦⑨

 ぱちぱち、と真夏の空を連想させる鮮やかな紺碧の瞳が何度も瞬かれる。

 どうやら、こちらの返答の意図がわからないらしい美青年は、戸惑ったような沈黙を挟んだ後、眉を顰めて口を開く。

「えっと……その……理由を、伺っても……?」

「簡単なことです。――嫌だから。それだけですわ」

 笑顔のまま、無情に告げられた宣告に、クルサールの頬が引き攣る。

「えぇと……」

「どうして、好きでもない殿方と――一度は裏切られ、命まで狙われたような殿方と、縁を結んで生涯添い遂げねばならぬのですか?馬鹿馬鹿しい……」

 ふるふる、と嘆くように頭を振る少女に、クルサールは戸惑いながら言葉を重ねる。

「いえ……その、それは本当におっしゃる通りだとは思いますが――ですが、貴女を生かし、民を納得させるにはそれが一番なのです」

「どうして?」

「いやその……えぇと……」

 先ほどまで、女帝のような風格で堂々と交渉をしていた少女が、急に聞き分けのない子供のような主張を始めたことに面喰いながら、もごもご、と口の中で反論を呟く。

「だ、第一……好きでもない男と、と貴女は言いますが――そもそも、帝国貴族の結婚に愛だの恋だのは関係ない、双方の家にとっての利だけを追求する契約のようなものなのだ、とおっしゃっていたのは貴女ではありませんか」

「確かに、『皇女』の私はそのように考えておりましたが――今の私は、皇女ではありません。既に帝国の貴族社会は崩壊し、家族と呼べる家族もいないに等しい。何の肩書もない、ただの”ミレニア”です。それならば、市井の民のように、己が望む愛しい殿方と添い遂げたいと考えることが、そんなにおかしいですか?」

「……えっと……」

 よほど予想外の切り返しだったのだろう。クルサールは困ったような顔で、途方にくれた声を出す。

(……そう言えば、それが”未練”なのだと、仰っていたな……あれは意外と本気だったのか)

 ふと、ロロは星空の下で少女がこっそりと打ち明けてくれた秘密を思い出す。

 血の繋がった兄から悪意を向けられ、避けられぬ死の運命を突き付けられたとき――皇女としての未練はなかったが、少女ミレニアとしての未練は、恋愛の一つも成就させることがなかったことだと言っていた。

(生きていても、皇女である以上その望みは叶えられないから、”未練”はないも同然なのだ――とおっしゃっていたが。今は皇女ではなくなったのだから、その願いを叶えられると、そういうことか)

 いつも、ついうっかり忘れそうになってしまうが、意外と自分の主は、恋に恋するような少女らしい憧れを持っている、何の変哲もない十五歳の少女の一面があるのだと再認識する。

 自分は何も可笑しいことを言っていない、という態度で堂々と胸を張る少女に、クルサールは仕切り直すようにコホン、と一つ咳ばらいをした。

「まず――昨夜のことは、謝罪をいたします。私は、日々、地獄のような苦しみを味わっていた民のために、貴女のご家族の首を刎ねたこと自体は全く後悔しておりませんが――私を信用し、君主としての心構えまで教えていただいた貴女に対して、あの夜の行いは、誠実ではありませんでした」

「貴殿のせいで、無実の奴隷たちが命を落としました。……よく反省してください」

「……はい。確かに、紅玉宮にいる奴隷たちは、本来我らの教義に沿うなら、神に悖る行いをした人間ではなく、我らが救うべきだった民の一人。それを、己の野望のために――そんな下らぬエゴのために、命を散らせてしまったこと。謝罪いたします」

「いいでしょう。……生き残った者は、治癒してくださったようですから、この件は、今の謝罪を受け入れ、水に流します」

「ありがとうございます」

 神に懺悔するように罪を認めた青年に許しを与えると、クルサールはほっと柔らかな笑みを浮かべる。

「では、次に、私と結婚することのメリットを説かせてください」

「……ふふ。いいでしょう」

 まるで先ほどのミレニアを真似るように指を上げたクルサールに、少女は笑いながら許可する。

「まず一つ。私の妻になれば、貴女が愛した国の民の幸せを、貴女の知識と能力を生かしながら、しっかりと守っていくことが出来ます」

「ふふ。……えぇ。それから?」

「次に、生活の保障。皇女として育った貴女が、市井の民と同じ暮らしが出来ますか?第一、どうやって日銭を稼ぐのでしょう。……勿論、清貧を愛すという教義上、私と結婚しても贅沢三昧――という訳にはいきませんが、働き口をゼロから探す必要はありません。……元皇女様の働き口など、市井ではとても見つからないでしょう。身売りをするくらいしか、金を稼ぐ方法はないかもしれませんよ」

「なるほど?それで?」

「それで……えぇと、そうですね……あぁ、私たちの祖国では、一夫一妻制が当たり前です。結婚した暁には、貴女以外の女性を愛すことはありません」

「”愛す”……?……ふふ、愛してくださるの?こんな、打算に塗れた結婚なのに?」

 クスクス、と笑いながら問い返すミレニアに、クルサールは苦笑しながら告げる。

「はい。こんな始まりではありますが――言いませんでしたか?私の初恋は、フェリシア様でした。瓜二つの貴女は、様々な事情を全て考慮に入れず一人の女性として見たときには、単純にとても魅力的――俗な言い方をすれば、タイプです」

「まぁ……ふふふっ……」

 小鳥が囀るように可愛らしい笑いを漏らした少女に向かって、クルサールは世の中の女性が皆頬を染めて惹きつけられるであろう笑みを面に浮かべる。

「これでも、自分の外見が女性に好かれやすいということはそれなりに自覚しています。――甘いひと時を演出し、貴女が憧れる”恋愛”を、提供して差し上げることは出来ると思いますよ」

 ゆっくりと歩み寄り、お互いのことを知って行けば――

 そんな想いを込めて告げると、ミレニアはくすくすと笑いながら軽く手を上げた。

「――ごめんなさい。やっぱり、交渉は決裂だわ」

 すげなく没交渉を告げられ、クルサールは嘆息する。

「これはこれは。イラグエナム最後のお姫様は、手厳しいですね」

「まだまだ、論の展開が甘いですわ、クルサール殿。一国の主として立つ気概をお持ちなら、もっと弁舌は磨いていただかなければ――ゴーティスお兄様に、あっという間にやり込められてしまいますわよ?」

 苦笑して、ミレニアは苦虫を嚙み潰したような顔をしているクルサールを見る。

「確かに、おさまりが良いのは私が貴殿の妻となることでしょうが――それでは、”神”を信じ切れていない者たちを御することは難しいでしょう」

「ほう……?なぜでしょうか?」

「きっと、貴殿は民に『神の声を聴いた』とでも言って、私が神の名のもとに許しを得て改心したのだ、と告げるおつもりでしょう?」

「えぇ。そうすれば、貴女の首を刎ねないことの理由として十分――」

「”神”の教えに傾倒したと思われる皇女の話を、”神”を信じぬ民が聞いてくれるでしょうか?」

 苦い顔で論破すると、クルサールはぴたり、と口を閉ざした。

 確かに、ミレニアの言う通り、奴隷をはじめとする神を信じ切れていない人間の心を掴むには、神を信じていない人間の代表としてミレニアを擁立する必要がある。

「ですが、それでは強烈な二律背反に――」

「えぇ。神の教えを信じていない女を妻に娶るだなんて、今度は信者からの反発が容易に想像できます。……故に、私は貴殿の申し出を受けることを望みません」

 きっぱりと告げた後――それに、とミレニアは付け足すように口を開いた。

「民のことを想う気持ちは本当ですが――言ったはずです。玉座に興味はありません。私が直接執政に携わらなくても、民が幸せであるなら、私としては何の問題もない。貴殿がお一人で、神の名のもとにこの国をまとめ上げてくださるなら、それはそれで、私としては否を唱えるつもりはないのですよ」

「ですが――」

「だって私――今の、何の肩書もない、”ただのミレニア”というものが、存外気に入ってしまっているんですもの」

 言いながら、ミレニアはそっと傍らに控えるロロを見る。

 いつも通りのピクリとも動かない褐色の頬を引き締めて、ただ一心に敵であるクルサールを睨み据える青年を見て、ふわりと自然に頬が緩んだ。

「昨夜、城から逃げる途中で――私は、全てを投げ出したいと思っていました」

「…………」

「昔から、兄たちを筆頭に、この命を幾度となく狙われてきました。勿論、それに対抗しようと、必死に学んで、彼らに認めてほしいと努力をし続けてきましたが――<贄>に選ばれたときには、あぁそれも無意味なものだったのだ、と初めて受け入れられたのです。だから、私は、『名誉ある死』にこれ幸いと飛びついた」

 そっと細い指が胸元を辿る。服の下にある、真紅の首飾り。

 誰も自分を正しく理解せず、誰一人頼る人間がいない世界で、ずっとミレニアに寄り添い、心を支えてくれた唯一のお守り。

「それでも、紅玉宮に新しく迎え入れた奴隷たちの境遇を想い、まだ見ぬエラムイドの事情を知って、まだ私にも出来ることがあると思い、心を奮い立たせて――昨夜はそれが、儚く砕け散り、再び私は”生きる意味”が分からなくなりました」

 ゆっくりと瞳を閉じる。

 瞼の裏に浮かぶのは、十二人もいる兄たちの顔。

 憎まれて、蔑まれて――それでも彼らに、いつか、認めてほしかった。

 自分も彼らと同じ血を引く娘なのだと――彼らと孤独を分かち合う、唯一無二の家族の一員なのだ、と。

 君主は孤独と戦う生き物。誰の手も握り返してはならない。

 ただ――家族の手を除いて。

 その、家族に――自分も、仲間に入れて、欲しかった。

「昨夜、私の命を狙うお兄様たちは皆この世を去り――代わりに、貴殿が私の命を狙うようになりました。きっと民もこの首を望んでいるに違いない――幼いころから、ずっと”死”を望まれていた自分の境遇を想えば、『そんなに皆が望むなら、首くらいいくらでもくれてやる』……そんな風に思い、再び『名誉ある死』の誘惑が私を襲ったのです」

 言った後、ゆっくりと瞳を開ける。

 視界に映るのは、酷く口下手で寡黙な、お世辞の一つも上手く言えない、不器用な男。

 ――世界で一番、大切な人。

「しかし、どうやったらこの哀しみを、弱さを、外に悟らせることなく、毅然とした態度で”死”という逃げ道に駆け込むことが出来るのか――そんなことをぐるぐると考えていた私の弱さを、ロロは、見抜いていました。見抜いたうえで――弱くてもいい、と言ってくれたのです」

 少女の言葉に、反論するのではなく。

 少女の内に潜む心に、ただ静かに、寄り添ってくれた。

「そしてロロは、その上で『生きていてほしい』と言ってくれました。……世界中の全員が私の死を願っていたとしても、ロロだけは、心から私に生きていてほしいと思っている、と。姫という肩書が無くなった私でも、私は私で、自分にとっては変わらないと言ってくれたのです」

 それが、どれだけミレニアの心を救ったことだろう。

 きっと、この人の心の機微に疎い青年は、気づいていないのだろうけれど。

「だから、今の私が生きているのは、ロロのため。――私が死ぬと、ロロが悲しむから。ロロが、どんなことがあっても私に生きていてほしいと言ってくれたから。だから……正直、今でもこんな無価値な命など惜しくはないと思っていますが、この取るに足らない――皇女としての肩書も、従者を雇う富も、何もかも全てを失った”ただのミレニア”の命を、何より価値があるものだと言ってくれた彼のために、どれほど苦しくても必ず生き延びようと、心に決めたのです」

 くるり、と身体ごとクルサールへと向き直る。

 晴れやかな顔で、ミレニアは自分に二度の求婚をした青年を見つめた。

「だから、ごめんなさい。貴殿の申し出を受けることは出来ません。――貴殿と結婚するとなれば、きっと、ロロがとても苦しむから」

「――姫――……」

 初めて、紅玉の瞳がミレニアの方を向く。

 女神のような笑顔で、ミレニアは言葉を続ける。

「ロロは、貴殿のことをとても憎んでいる。それは、色々な事情があるからで――その全てを伝えることは出来ませんが、きっと、どれほど心を砕いてもその恨みや憎しみを解き解すことは出来ません。それほど深く、複雑に絡み合った、一筋縄ではいかぬ感情だから……だけど、私が、生きるために貴殿と結婚するのだと言えば、ロロは私のためならばと言って受け入れてくれるでしょう。今にも発狂しそうなほど――すぐにでも息の根を止めたいと望むほどの憎しみを抱えたまま、断腸の想いでそれを押し殺し、私の傍にずっと控えてくれるはずです」

「…………」

「世界中が敵になったとしても、ただ一人最後まで私の手を握って離さないと誓ってくれた彼が、心を病んでしまいそうなそんな状態に陥ることは、決して許容できません。……あるいは心を病む前に、耐えきれなくて、いつか彼は私の元を去るという判断をするかもしれませんが――」

「姫……!」

「――そんなことになれば、今度は私が心を病み、再び”生きる意味”を見失ってしまいますから」

 ふ、と笑んだ顔は、少しだけ苦味を伴った、優しい笑顔だった。

 何度も、ロロの手を手放そうとしてきた。主の矜持を心に抱き、彼の幸せのために、いつか彼が自分の元を離れたいと、己の意志で告げてきたときには喜んで背中を押してやるのが自分の責務なのだと、言い聞かせてきた。

 それでも――きっと、そうして彼を送り出した後の人生は、酷く味気なく、つまらないものになるだろう。

 ロロは、ミレニアが生まれて初めて、綺麗事の無意味さを知った存在だったからだ。

 己の夢も、野心も、矜持も、立場でさえも、何もかもを投げ捨てて――それでも強烈に”欲しい”と思った。

 そのためなら、何でも出来た。彼を手に入れるために、彼に傍にいてもらうために、自分の全てを賭けて、周囲にどれだけ迷惑をかけたとしてもかまわなかった。

「ロロは、私の物です。決して誰にも渡しません。彼を不幸にするものには、それが何であれ、私の全霊を持って立ち向かいます。そう。それがたとえ――神でも、魔物でも」

 ぐっと胸を張り、宣言する。

 これだけが、何十年も地獄のような時間を繰り返してきたロロにミレニアが贈れる、唯一の言葉。

「姫――……」

「ですが、それでは一体、どうやって民を納得させる、と?第七皇子のように、貴女の影武者でも用意して、城門に首を掲げてこっそりと生きながらえますか?」

 クルサールは、無情な現実を突きつける。

 『例外』への反発は、エラムイドの哀しい歴史が全て物語っている。

 彼は、決して情に流された上での甘い判断を許すつもりはなかった。

「いいえ。私のような特殊な外見を持つ影など、用意する方が難しいでしょう」

「では――」

「そこで、貴殿に提案です」

 ミレニアは、堂々とした女帝の笑みを湛える。


「――二年前に私が唱えた”奴隷解放施策”を、ご存知でしょうか?」

 

 最高のタイミングで、最高のカードを、悠然と場に出したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る