第179話 最終決戦⑧

 ドンッ

 力強く踏み抜かれた床が、大きな音を立てて軋んだ。

(身体能力強化の魔法――!)

 昨夜の悪夢が一瞬蘇り、背筋が寒くなる。

「ロロ!」

「はい」

 叫んでミレニアは魔力を解き放つ。

 脳裏に浮かぶのは、人体の筋肉について詳細に書かれた教本のページ。

 パァッ――と淡い光がロロの身体を包み、再び鋼が耳障りな音を立てて交わった

「ぐっ――な、に――!?」

 これは、ミレニアが持っている、三枚目のカード。

「私を生かしておいた方がいい理由の二つ目です。――私は、貴殿よりも、魔法の扱いに長けています。そして、幼いころからこの大陸の最高水準の教育を施されてきて、圧倒的に知識が多い。これでも、頭脳の回転には自信がありますの。――貴殿の先祖が何百年研究しても辿り着かなかった、未知の魔法属性の存在に思い至るくらいには」

 クス、と笑ってミレニアは告げる。

「光魔法で何が出来るのか――私には、薬師の知識が豊富にあります。きっと、私に研究させた方が、光魔法の研究は貴殿が一人で行うよりも圧倒的に素早く進むでしょう。……現に、もう、貴殿が使えるような魔法は一通り使えますから」

 後半はハッタリに近かったが、自信を持って言い切る。

 ラウラは、本人の変態性癖にはかなり問題があるが、情報屋としての腕は確かだ。だとすれば、エルム少年が起こして見せたという奇跡の具体的な事象について、ラウラが得た情報以上の物を、クルサールが仕入れているとは思えない。

 ミレニアは、一度見た書物は丸暗記できる頭脳がある。――エルム少年が起こした奇跡を光魔法で再現するならばどういうイメージを描けばよいか、クルサールと同等以上に理解していることだろう。

「驚くことはないでしょう?――貴殿が、その手で、私を光魔法使いだと断じたのではないですか」

 ふっと揶揄するように嘯くと、クルサールは必死に刃を抑えながら苦悶の声を漏らす。

「ば、かな――!民を前に、私以外にも『神の奇跡』が使える人間がいる、と認めろ、とでも――!?」

「そうですわね。その件に関しては、交渉の余地があります。貴殿と私の譲れない点を叶えながら、双方が納得できる着地点を見極められるなら、公表の仕方や、そもそも公表するかどうかも含めて、検討いたしましょう」

「ふざけるな――!ネロの秘密まで知っている貴女を、生かしておけるはずがない――!」

「……貴殿は、魔物との契約を甘く見ていらっしゃる。あれが、人間に何の見返りもなく力を貸すはずがない。もしも私を生かしてくれるなら、ネロという少年を助ける方法も一緒に探すとお約束しましょう」

「――っ……!」

 ぐっと一瞬拮抗が崩れ、強く押し込まれるのを立て直す。

 力で負けたのか――グラついた心の隙を付かれたのか。

 身体能力を強化すれば、クルサールが力でロロに後れを取ることなどありえないはずだったが、今は両者が同時に魔法によるブーストがかかっている状態である。

 再び力は拮抗――いや。微かに、クルサールの方が押されていた。

「くッ……!」

「それでは、別の角度からの説得を試みましょう」

 歯を食いしばって堪えるクルサールに向かって、ミレニアは、すっと手を掲げて三本の指を立てる。

「三つ目は――私を殺さない方が良い理由です。これは、本当に単純。自惚れと思われるかもしれませんが――私を殺せば、ロロが黙っていない。貴殿がせっかく手中に収めた帝都を全て炎の海に沈めてでも、貴殿への復讐を果たすことでしょう」

「っ……」

「私を失ったロロを止められる者はいない。貴殿を殺すためなら何でもする修羅と化すでしょう。ただでさえ、ロロは帝国最強の名を恣にする男。それが、どんな犠牲を厭うことなく形振りかまわず襲ってくるのですよ」

「そんなものっ――!」

「実践してやろうか」

 条件反射で反論しようとしたクルサールを遮り、ゾクリとするほど低い声で、ロロが呟く。

「出来るわけがないというなら、いくらでも。――俺は、今すぐにでも、お前のその首を落としたい」

 紅い瞳がゆらりと昏い影を纏って揺れると同時、ぐいっとさらに強く押し込まれる。

「そのムカつく頭部を身体から切り離して、ここの城門に掲げ晒してやる――!帝都中の人間に、掲げられた生首を前に膝をつくあの絶望を味わわせ、俺の姫に手を出し恐怖と苦痛を与えたことを、世界中の人間に後悔させてやる――!」

 ボッ……!

「なっ!?っ、ぅ、ぐ――!」

「ロロ!駄目よ、まだ殺さないで!」

 感情が高ぶり、部屋中の燭台の灯りがはじけ飛ぶと同時に、力任せに剣を押し込んだロロをミレニアが初めて制す。

 少女の声が鼓膜に届くと同時、チッと盛大に口の中で舌打ちをしてから、ガッと力任せにクルサールを大きく突き放す。

 ひりつく鍔迫り合いから解放されたクルサールは、全身に汗をびっしょりとかきながら荒い息を必死で整えた。

 従者が、怒りに我を忘れそうになっていてもまだ自分の言葉に従ってくれることにホッと息を吐き、ミレニアは袖口で汗を拭っているクルサールへと向き直った。

「今の貴殿に、ロロと戦って勝ち目はありません。昨夜でさえ、貴殿はロロ相手に怪我らしい怪我を負わせることが出来なかった。今のロロは、昨夜と違って、私の光魔法によるアシストがあります。身体能力で打ち勝つことは不可能でしょう」

「くっ……」

「今のロロならば、あの『軍神』と渾名されたゴーティスお兄様が指揮する精鋭軍に追われたとて、この光魔法を駆使して私の頭脳をうまく使えば、私を守り切ってくれるでしょう。貴殿個人はもちろん、民兵が殆どの革命軍に、ロロを制することなど出来ません」

 悔しそうに歯噛みするクルサールに、ミレニアは苦笑する。

 虎の威を借る狐としか言いようのない論を展開するのは心苦しいが、背に腹は代えられない。

「ですが、私を生かすと約束し、協力して民を導くと約束してくださるならば、ロロを敵に回すことはありません。……ロロとしては、とても不服だとは思いますが、今も、こうして最後には私の命令を聞いてくれました。私が貴殿と協力関係を築くと言えば、問答無用で貴殿の首を落とそうと斬りかかることはないはずです」

 殺気を振りまくことまで責任は持てないが、と心の中で付け足しながら告げる。

 ごくり、とクルサールは生唾を飲んでミレニアを見る。じっと何かを考えているようだった。

(ここまでは、ひとまず悪くない交渉よ……カードを切るタイミングも、間違えなかった)

 こちらから提示したものも、バリエーションを揃えてやった。

 一つは、国を治めるという上で現時点で既にぶち当たっているであろう壁について指摘し、それを乗り越える力を貸してやれるという、酷く魅力的で彼がすぐにでも欲しているはずの解決策。

 二つ目は、彼自身が自覚していなかったが、言われてみれば困っていること――光魔法の実態を明らかにする、という彼自身に知見がないが誰にも相談が出来ないことに関する解決策。

 三つめは、わかりやすいリスクだ。それも、特大の――彼自身の命だけではなく、人生を賭して成し遂げたかった理想も根底から覆し、無に帰すリスクを提示した。恐怖を与え、感情論だけで判断する逃げ道を防いだ。

(きっと、クルサールは意外と人間らしい心を持っている……公には出来ない事情で私を処断すること――いわば彼のエゴの結果、自分だけではなく周囲の人間まで危険や絶望に晒すような真似は出来ない、と考えるはずよ)

 そこは、ある種の賭けでもあったが――約一年間、クルサールと共に語り合った決して短くはない時間が、ミレニアに確信に近いものを与えていた。

「さぁ、クルサール殿。互いの落としどころを話し合いませんか」

 ここまで来てやっと、彼と対等な立場で、冷静な話し合いが出来る。

 クルサールの視線に、その気配を感じて、ミレニアは口火を切った。

「私は、玉座になど興味はありません。表立って執政に携わりたいとも思っていません。私が望んでいるのは、貴殿の教えでは救うことのできぬ民を救うことと――私自身が、生き残ること」

「……ハハッ……」

 ミレニアの言葉を聞いて、クルサールが笑う。

「結局――貴女も、人の子ですね」

「?」

「さすがに、家族の首が並べられれば、命が惜しくなりましたか?」

 ふっ……と笑うその顔は、嘲笑かと思ったが――

(……安心、している……?)

 どこか人間らしく、ほっとしたような顔をしている青年に、ミレニアは疑問符を上げながらも正直な考えを告げる。

「そうですね。命は惜しいです」

「ハハ……いいでしょう。では、救いを与えます。神の名のもとに――」

「いえ。そういうのはいらないです」

 何やら戯言を口にしたクルサールをバッサリと切り捨てる。

 そのまま、チラリ、とミレニアは傍らに控えて今すぐに斬りかかりたい衝動を抑えているらしい厳しい顔をした護衛兵を見た。

「私が、生き残りたいと思っているのは――ロロのためです」

「何ですって……?」

「私が死んだら――ロロが、不幸になるので」

「――――……」

 ぱちぱち、と紺碧の瞳が驚いたように何度か瞬かれる。

 まさか、そんなことを言い出すとは思わなかったのだろう。

「私の基本姿勢は、貴殿とお茶を飲みながら語り合ったあの日々と変わっていませんよ、クルサール殿。……自分の名誉などどうでもいい。民が幸せであれば、それでいい。そのために私の首が必要なら、それを貴殿に差し出すこともやぶさかではないですし、魔物に食われて<贄>となれと言われても、受け入れましょう」

 少し得意げに、茶化すようにしてミレニアは告げる。

 だが――それは、どこまでも心からの、本心だった。

「ですが、それでは確実に、ここにいる従者が一人、不幸になります。……ロロは私に、生きていてほしい、と言ってくれました」

 そっと胸元に手を置くと、服の下から固い感触が返ってくる。

 隣に佇む大好きな青年の瞳と同じ色をした、美しい紅玉の首飾り。

「実は、私の首が欲しいと言われたことなど、初めてではありません。ギークお兄様を筆頭に、私は兄たちに嫌われていましたから。……あぁ、貴殿も体験したでしょう。<贄>として東の森に送りたい――なんて、”神”を信じているはずもない彼らが言い出した理由は、決して国防のためではありません。単純に、現行法の穴を付いて私を公に始末したい――それも、出来る限り惨たらしい方法で――という、彼らの悪意の成れの果てです」

 実際は、たまたまミレニアが光魔法の素質を持っていたわけだが、仮にミレニアが本当の無属性だったとしても、クルサールが光魔法を水鏡に放つ如何様をして、ミレニアは<贄>に仕立て上げられる算段だったはずだ。それは、誰より計画を強要されたクルサール自身が知っている。

 ほんの少しだけ眉を痛ましそうに顰めたクルサールに、クス、とミレニアは笑って見せる。

 ――やはり、どうやら彼の本性は、とても人間らしいところがあるらしい。

「そうした生い立ちのせいでしょうか。他者から死を望まれることに、そこまでの恐怖や絶望を感じないのです。ある種、達観しているのかもしれません。……どうせ死ぬなら、無為に死ぬよりは、誰かのためになった方がいい。それが、民のためであるなら、なおのこと――そう思うことが、貴殿はそんなに不思議ですか?」

「……不思議です。人は、弱い。死を前にすれば、誰もが化けの皮を剥がされる。貴女は、本当の恐怖を知らないだけだ」

「そうかもしれませんね。そればっかりはわかりません。私も、偉そうなことを言っておいて、魔物が目の前に迫ったら泣き叫んでしまうかもしれませんし。――ただ」

 ふ、と笑って言う。

 ――四枚目の、カードを切った。

「ザナドお兄様は、そうではなかったでしょう?」

「……ザ……ナド……?」

「えぇ。……今、城門に『第六皇子ゴーティス』として晒されている、あのお方です」

「――!?」

「これは、皇族の直系、それもかなり限られた人間とその周囲の本当にごく一部にだけ知らされている事実――幼くして亡くなった、ゴーティスの双子の弟である第七皇子ザナドは実は生きていて、彼の影武者として人生を全うしました」

「な――!?」

「貴殿も、革命を起こす際に調べたのでは?きっと、第六皇子ゴーティスは、二重人格のように戦場と政務の場で性格が変わる、と」

 ハッとクルサールは小さく息を飲む。心当たりがあったのだろう。

「ザナド、と我々が呼んでいたお方は、政務のときに出て来るお方です。生涯、身内のごく親しいもの以外には名前を呼ばれることすらないお方でした。……昔、何者かに毒を盛られる事件が起きて以来、近年は戦場に出ることはなくなりましたが、もともとゴーティスお兄様と同じくらいの剣豪であり、優秀な指揮官です。……頭脳でも、武術でも、勿論魔法でも――ゴーティスお兄様の、”影”だったザナドお兄様は、本当に何一つ遜色ありませんでした。見破れずとも無理はありません」

「そ……んな……では、本物のゴーティスは――!」

「今頃、彼を慕う部下たちを連れて、亡命しているのではないでしょうか?……双子の片割れであったザナドお兄様への想いは、誰よりゴーティスお兄様が強かった。きっと、ロロと変わらないくらいの修羅と化して、新しい国を興して貴国とは徹底抗戦の構えを取るでしょうね。ザナドお兄様と違って、随分と直情型なお方だから」

 ふ、と苦笑しながらミレニアは懐かしい顔を思い浮かべ、寂寥に浸る。

 しかしすぐに被りを振って、脳裏の面影を振り払った。――今は、感傷に浸っている場合ではない。

「これが、私を生かした方がいい理由の四つ目です。きっと、近い将来、必ず貴国とゴーティスお兄様が興す国とが衝突する。これは、避けられません。その時に――私が生きていれば、お兄様との交渉を担えます。……半分とはいえ、私は旧帝国の皇族の血が入った身。ゴーティスお兄様は、ナショナリズムの塊のような人ですから、貴重なその血を無為に失うことを良しとはしないでしょう。酷く威圧的な態度を取られるでしょうが、一応交渉の席にはついてくださると思います。――貴国の者が申し込んだとて、その場で斬り捨てられて終わりでしょうが」

 その場合、ロロも良い抑止力となるだろう。

 ゴーティスは、誰よりロロの有用性を理解している。直々に何度も軍属になるよう説得をし続けるほどに、イラグエナム皇族の血統と伝統を重んじる身でありながら奴隷出身であるロロの能力を高く買い、なんだかんだと彼を重用していた。何度も繰り返した魂の記憶が、ロロによって魔物討伐で臣下の被害を最小限にとどめながら快進撃を続けたことを覚えていて、好意的になっているのかもしれない。

 そのロロが、ミレニアの傍にいるなら、ゴーティスは再びロロを引き抜こうとするだろう。ロロを軍に加えさえすれば、クルサールの国など取るに足らないと思っているはずだ。

 だが、ミレニアがクルサールの味方をすると言えば別だ。ロロを敵に回したときの脅威は誰より理解している。まして、ミレニアという優秀な将が差配する上に、ロロはミレニアに指揮されればゴーティスの下に就く何十倍も士気高く従軍する。

 そんな化け物を敵に回したくない、と何とか交渉でミレニアからロロを引き剥がすか、ミレニアとロロの干渉を受けないクルサールとの対決を望むだろう。

「私は、ザナドお兄様と違って、ゴーティスお兄様にはとても嫌われていましたから、きっとどれほど心を砕いて交渉したとて、貴国との武力衝突そのものを避けることは出来ないでしょう。ですが、例えば、貴国が革命後にしっかりと国を立て直して軍備を再建し、国力を付けるまでのらりくらりと決戦を引き延ばす、くらいは出来るかもしれません」

 出来もしないことを繊細な交渉の場に持ち込むべきではない。ミレニアは、瞼を伏せて静かに己の尽力できる範囲を認める。

 この部屋に入ったばかりの状態ならいざ知らず――今のクルサールは、冷静に、対等に話が出来る交渉相手だ。虚勢よりも、誠実な姿勢がものを言うだろう。

 クルサールは、何事かを無言で考えている。

 深い海の底に沈んだ貝のように口を閉ざしていた青年は、しばらくしてやっと、その重たい口をゆっくりと開いた。

「貴女を生かしておいた方がいい理由は、理解しました。――貴女を殺してしまったときのデメリットも、十分に」

「それは光栄ですわ」

 苦笑に近い笑みを漏らしたミレニアに、クルサールは静かに瞳を閉じる。

「いえ……これは、私への”神”による試練と捉えます。正直、貴女を生かしておくことのリスクも、計り知れない。人間は弱く、その分愛おしく、御しやすいものですが――貴女は、人間の範囲を逸脱された方です。私のような矮小な人間に御せるとは思えません」

「まぁ……私も所詮、人間ですよ。弱く、情けなく、無力で――時に道を誤ることもあります」

 ミレニアの言葉に、クルサールは笑いながら緩く頭を振る。

「私なぞに比べれば、貴女はよほど神に近しいお方です。……私は、恐ろしかった。神に悖る行いをしている自覚があったからこそ――貴女のような、”神”の行いを体現する者の傍にいては、いつかこの身に、神罰が下るのだと」

「私にはあまり理解のできぬ考えですが――もし本当にそんなことが起きるなら、甘んじて神罰を受け入れてこそ、貴殿も”神”の行いを体現する人間とやらに近づけるのではありませんか?」

「ハハッ……これは手厳しい。耳が痛いですね。……いついかなる時も大正論を掲げる貴女に、先ほどのような苦言を受けるとは思いませんでしたよ」

 皮肉を言われて、む……と口を閉ざす。

「ですが、いいでしょう。今更、止まることは出来ません。貴女を生かしておくことで、我が野望が潰えてしまったとしても――それこそが、”神”のご意向だったと受け止める。その覚悟を決めることにいたします」

「……それは、どうも」

 何かの憑き物が落ちたようなクルサールの微笑に、ミレニアは複雑な顔で返す。

 紺碧の瞳がふ、と緩めば、そこにいるのはただ理想を掲げて頑なになる孤高の”救世主”ではなく、いつか紅玉宮で談笑したときの青年が戻ってきたように感じられた。

「民を納得させる言い訳を考えねばなりませんね。……手配書を取り消し、貴女という『例外』を作る論を組み立てねばなりません。……人は、『例外』に酷く厳しい。私はそれを、祖国で嫌というほど体験しています。これを乗り越えるのは、相当難しい」

 口元に浮かんだ自嘲に近い笑みを前に、ミレニアは戸惑った様に口を閉ざす。

 それには構わず、クルサールは優し気な笑みをたたえた。

 それは、いつぞや、花の咲き乱れる紅玉宮の庭園で、膝をついて薔薇の花束を捧げたときと同じ表情。

 慈愛に満ちた穏やかな声音で、クルサールはゆっくりと口を開いた。

「やはり、当初の通りの関係が理想でしょう。――私と結婚し、伴侶として共に人生を歩んで下さいませんか?愛しいミレニア姫」

 それは、確かに民を納得させやすい論だった。

 そもそも、当初はそういう計画だった。民から異論が出ないように、と既に根回しはしてあるが、その根回しの印象を払拭しきれていないのは、先ほどハウアーが担当している地域の者たちを見ても明らかだ。

 今ならまだ、ミレニアが真摯に己の一族の罪を受け止め、命を擲つその気概に”神”が許しを与え、クルサールの伴侶となることで一族の罪を贖うことにした――とでも言えば、民はきっと受け入れてくれるだろう。

 ミレニアが近年公務に携わっていないことは明らかで、ギークらの横暴とは異なるところにいたことは民も周知のはずだ。

 ミレニアが提案した最初の一つ――生粋の帝国民の中で、現皇帝勢力に反発する気持ちから革命軍に加担したものの、神を信じ切ったわけではない、という者たちを治めていくことに協力するというのならば、彼女は執政に携わらなければならない。

 クルサールの妻となれば、自然と、表からも裏からも政務に口を出せる。

 それはどこまでも理想の形だ。

 ミレニアは、ゆっくりと、蕩けるような優しい笑顔を浮かべて、クルサールを見た。

 国を傾けると囁かれた美貌に、ドキン……と一つ、心臓が鳴る。

 桜色の唇が、甘やかな響きを伴い、そっと動いた。



「――絶対に、嫌です」



 にっこり。

 誰もが見惚れる極上の笑みを浮かべて、有無を言わさぬ言葉で、ミレニアは堂々と返事を返したのだった。

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