第97話 <贄>の秘密③

 愛馬を厩に繋ぎ、天を仰いで目当ての窓を探す。

(案の定――まだ、起きていらっしゃるのか。いや、寝落ちてしまっているのかもしれない)

 ぽぅ……と温かな光を発する部屋は、主の寝室の隣に位置する書斎だ。

 自由に文献を取り寄せ、”皇族”としての身分がある今のうちに、<贄>の秘密を必ず暴き、イラグエナムもエラムイドも双方を必ず救うのだと、最近のミレニアは今まで以上に根を詰めている。

 神童と呼ばれていただけあって、ミレニアの頭脳と集中力は常人離れしている。一度考察や調べ物に没頭すると、よほどのことがない限り集中を切らすことはない。そのまま、体力の限界まで集中し続け――ぷつりと糸が切れたように寝落ちてしまう。寝台に移動するための体力すら残さず、調べ物に没頭してしまうのだろう。

 少し冷える秋の夜の空気に、マントの首元を軽く引き寄せながら、ロロは静かに主の部屋に向かって歩きだす。

 部屋の前には、見知った顔が護衛として立っていた。

「おぅ。こんな遅くにお帰りか?もしかして、まーた今日も帝都で色っぽい姉ちゃん抱いてきたのか?俺もお前くらいの面があれば、こんなクソみたいな焼き印なんか気にせず、都で情婦を作る気になるんだけどな」

「うるさい黙れ」

 ニヤリ、と皮肉気に顔を歪めて嗤うのは、昔、剣闘場で何度か刃を交えたこともある赤布の剣闘奴隷。自分と同じく左頬に刻印された奴隷紋をニヒルに歪める少し年上のこの男は、昔からどうにも掴みどころがない。思い起こせば、戦闘スタイルもそれを体現しているかのようだった。無造作に腰に差された三日月刀シミターの曲芸のような動きに、何度も苦戦させられた記憶がある。

 百年前の英雄の名前を取ってジルバと名付けられた長身痩躯の男は、顔を合わせるたびにロロを揶揄しては兄貴気取りでちょっかいを掛けてくる。奴隷小屋にいたころは、常に怨嗟を瞳に宿らせて殺伐とした雰囲気を纏っていたこの男が、実はこんな性格をしていたなんて、思ってもいなかった。人は、平穏の中で心の余裕を取り戻すと、思いもよらぬ一面を見せるらしい。

 結果、面倒なことに、ロロが情報屋の女から情報を仕入れてくるたびに漂わせる香りに気づかれてからは、夜に出逢えば必ずこの手の話題で揶揄われる羽目になった。今日のように、別の用事で外出していたとしても、だ。いちいち否定するのも面倒くさいので、不機嫌そうに眉を顰めるだけで会話をぶった切る。

「……姫は」

「やれやれ、お前は昔からつれねぇ奴だな……」

 剣闘場にいたころから全く変わらない仏頂面に渋面を作り、ジルバは嘆息してくぃっと背にした扉を顎で指す。

「いつもと一緒さ。往生際悪く、書斎に籠っていらっしゃる。全く……芯の強い、お嬢ちゃんだ」

 ふっ、と皮肉めいたため息を漏らした男に、ロロは軽く顔を顰める。

 ミレニアが「気にしない」と明言したため、今紅玉宮にいる者は皆、ミレニアに対して好き勝手な言葉づかいで話をする。きちんとした敬語を使うのは、ロロとレティくらいだろう。

 ミレニアが許可しているため、表立って何かを言うつもりはないが、不敬極まりない彼の粗野な態度に、ロロはいつも不愉快そうに顔を顰めていた。

(あの、奴隷を何人惨殺したって眉一つ動かさなかった、『伝説の剣闘奴隷』サマが、ねぇ……人ってのは変わるもんだな)

 くっとロロに気づかれないようにジルバは喉の奥で嗤いをかみ殺す。

「……そろそろ、いい時間だ。就寝していただかなければ、健康に支障が出る」

「はいはい。相変わらず、過保護だねぇ……」

 くく、と醒めた笑みを漏らすジルバを無視して、控えめに書斎の扉を叩く。

 案の定、返事は返ってこない。――やはり、寝落ちているようだ。

「……寝室へ運ぶ」

「はいよ。お嬢ちゃんの運搬業務はお任せするぜ、専属護衛サマ」

 いちいち突っかかる物言いには、ここ数か月でもはやだいぶ慣れてしまった。取り合うことなく持ち場を任せ、音を立てないようにそっと書斎の扉を開く。

 広い書斎の奥――大きな机に突っ伏すようにして、ミレニアが寝落ちているのを発見する。

「姫――……」

 近寄り、あまり期待せずに声をかけるが、予想通り、返ってくるのは寝息のみだった。

(ここで寝落ちるのは珍しいな……)

 いつもは、ソファで本を持ったまま寝落ちていることが多い。よほど疲れていたのだろうか。羽ペンを握って何かを書きつけている途中で眠ってしまったようだ。

 小さく嘆息し、するりと少女の小さな手から羽ペンを抜き取り、ペン立てへとしまう。万が一零れて少女の服や肌を汚さないように、傍らにあったインク壺にもしっかりと蓋をした。

「姫。……失礼いたします」

 念のため一声かけてから、そっと少女の身体に手を掛ける。

(さすがに、起きるか……?)

 ミレニアは、体力がゼロになるまで加減を知らない。一度寝入ってしまったら、ロロが声を掛けようが肩を揺さぶろうが身体を持ち上げようが、いつも穏やかな寝息を立てるばかりだ。

 とはいえ流石に、机に突っ伏した状態から身体を起こさせ、持ち上げれば、起きるのではないか――と思ったが、そんなことはなかったらしい。

 すー……といつものように無防備な寝顔を晒して、力を抜いたままロロの腕の中に大人しく収まる。

「全く……自覚がないのか……?」

 薄い寝間着を身に着け、風呂上がりの良い香りを漂わせたまま、昏々と眠り続ける少女に呆れたため息を吐く。

 容易く腕の中に収まった薄手の生地に包まれた身体の線は、少しずつ少女が"女"の身体に変化していることを否応なく知らしめる。こんな状態で、もしも不届き者が部屋に忍び込んできたりしたら、どうするつもりなのか。無理やり犯されても気づかないのではないか――と突拍子もないことを考え、眉根を寄せる。

 咄嗟に、ふるふる、と考えを打ち払うように頭を振った。

 ――そんなことにならないように、自分やジルバがいるのだ。

「……ん……?」

 寝室に続く扉へ向かおうとした視界の隅――先ほどミレニアが寝落ちた際に書きかけていたらしきメモ書きが目に留まった。

「これは……」

 いつも、几帳面な書類をかき上げる彼女らしくなく、色々なところに走り書きのようにして文字が書かれたそれは、まぎれもなくメモ書きなのだろう。

 パッと目に入った文字は――地、水、火、風、無。

「……魔法属性、の……遺伝法則……?」

 メモの上には、帝国の子供であれば全員が習う魔法適性の教科書に載っているような見慣れた法則の算出式が踊っている。

 同じ属性からは、同じ属性の子供が。魔法属性と無属性からは、親と同じ魔法属性と無属性の割合が半分ずつ。異なる魔法属性同士からは、完全ランダムで、地水火風無の五パターンが――

「……なんだ、これは」

 乱雑にいくつも書きなぐられた中に気になる文字を見つけ、つい気になって、両手で抱えていた小柄なミレニアを片手にひょいと移して難なく抱きかかえ、机の上のメモを手に取る。

 ミレニアの書いた算出式の中に、一つ、見慣れない文字が追加されていた。

「――――”光”……?」

 眉をひそめて、思わずつぶやくと――

「ぅ……ぅ……」

「!」

 腕の中で小さなうめき声が聞こえ、ハッと我に返る。咄嗟にメモを裏返して机の上に戻し、慌てて少女を両手で抱きかかえ直した。さすがに、片手で抱きかかえられては、辛い体勢をさせてしまったかもしれない。

「申し訳ありません、姫」

「ん……ぅぅ……」

 起こしてしまったか――と思い、謝罪の言葉を口にするが、ミレニアは苦し気にうめいただけで瞳を開くことはない。眠りの深さは筋金入りのようだ。

 安堵のため息をついて、ロロは両手で恭しく主を抱きかかえたまま、寝室へと向かう。

 扉を開けて、寝台へと足を進めたとき――

「嫌……」

「――姫……?」

 ぎゅぅっと黒いマントを強く握りしめられる気配に、思わず足を止めて腕の中を見下ろす。

 先ほどまで穏やかだった寝顔は、いつの間にか苦悶に歪められ、額にはびっしりと玉のような汗が浮かんでいた。

「嫌……怖い……!」

 何か、怖い夢でも見ているのだろうか。うわごとのように繰り返しながら、拳が白くなるほど固くマントを握り締めている。

「怖い――怖い、助けてっ……」

「姫――……」

 ざわり、と胸がざわめく。

 少女は、いつだって、助けを求めてくれない。”女帝”の顔に恐怖を全て押し込めて、従者の前では決して弱い自分を見せたりしない。

 こうして、眠っているときだけ――ミレニアは、歳相応の、少女になる。

「……大丈夫です。どんなものからも守ります」

 眠りの世界の中では、普段、抑圧されるようにして押し込められている恐怖が噴き出すのだろう。

 無理もない。――幼い少女が受け止めるには、辛すぎる現実だ。

 実の兄たちから嫌われ、憎まれ、無情で悲惨な死にざまを心から望まれている。度重なる苦難を前に、無力感に苛まれ、安直な『死』へ逃げたいとまで、言わせてしまった。

 少女を苛む残酷な運命から守るように、なるべくゆっくりと穏やかな声音で語り掛けると、ふるり、と少女の身体が震えた。

「!」

 つぅ――と、少女の陶磁器のようななめらかな肌の上を、透き通った水晶が零れ落ちた。

 少女の固く閉ざされた眦から、音もなく幾筋も涙が伝っていくのを、ロロはただ息を詰めて眺める。

 清らかな水晶よりも美しいそれが、少女の白い肌を滑り落ちていくのを、こんなにもはっきりと見たのは、初めてだった。

「嫌――嫌、怖い……っ……死にたくない――」

 ドクン……

 魔物に襲われる夢でも見ているのだろうか。カタカタと震えながら、普段は決して聞けない本音をこぼした少女に、胸が不穏にざわめき、締め付けられるように痛む。

 ミレニアは、ぎゅっとロロのマントを握り締めたまま、涙で濡れた震える声で、囁く。

「助けて――――ロロ――」

「っ――――!」

 全身を、形容しがたい衝動が駆け巡った。

 息を詰めて、衝動に任せてミレニアの身体を深く抱きかかえる。

「――っ……!」

 もう、自分でも、抱きかかえているのか――抱きしめているのか、わからない。

 ――その言葉が、ずっと、ずっと、欲しかった。

 苦しく辛い局面に立たされる程に、強がって悠然と微笑ってみせる少女に、ずっと、助けを求めて欲しかった。

 世界中の誰にも助けを求められない彼女が、救いの手を求める先は――いつも、己でありたかった。

 ずっとずっと切望していた言葉が鼓膜を揺らした途端、胸の底――もっと奥、腹の底から、熱い塊に似た何かが、喉元までせり上がってくる。

(駄目だ――堪えろ……堪えろ……)

 抱きしめるようにしてミレニアの肩口に顔を伏せたまま、ぐっと奥歯を噛みしめて、喉元から何かが飛び出しそうになるのを必死に押しとどめる。

 ――この灼熱は、決して吐き出してはいけないものなのだ。

 物理的なものではないそれを、ぐっと喉を嚥下させることで、イメージと共に無理矢理飲み下す。

 はぁっ……と、我知らず熱い吐息が漏れた。

「姫――……」

 この少女は、清らかな泉に住まう、雲上人で。

 ――自分は、地を這う汚泥に塗れた、虫けらで。

 だから――だから、この熱は、生涯決して、外に漏らしてはいけないものなのだ。

「必ず――必ず、どんなものからも、お守りします。この、命に代えても」

 そっと寝台の中に小柄な少女を降ろしながら、わずかに残った熱の余韻が漂う声で囁く。

 これだけが――ロロに許される、彼女に捧げる言葉。

 唯一、空気に触れさせても許される、身体の内に渦巻く熱の、微かな微かな、残り滓。

「ロロ――……」

 青年の囁きが夢の中まで届いたのか、苦悶に歪められていた表情が、ふっ……と緩む。同時に、するりとマントを握り締めていた手からも力が抜け、再び穏やかな寝息が聞こえてきた。

「――約束です。必ず、お守りいたします……」

 まるで呻くように囁いて、そっと、少女の額に浮かんだ汗を軽く手でぬぐう。

 名前を呼ぶことも、隣に立つことすら許されぬ人。

 汗を拭う手は、我知らず、少女を愛おしむような手つきに代わり、柔らかく頭をそっと撫でていた。

「……必ず……」

 ぽつり……と呟いた声は、暗い寝室の中に虚ろに響いて、消えていく。

 すー……と規則正しい寝息が聞こえるのを確かめてから、そっと闇に溶ける黒衣の青年は、音もなく寝室を後にした。

 

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