第98話 <贄>の秘密④

 窓の外から、西日が射しこみ、部屋の中を真っ赤に染めていく。

 炎のように――血潮のように。

「――――……」

 パラ……

 不吉にも思える色の光を頼りに、ロロは窓辺に腰掛け、手元の紙を繰る。皇族護衛の装束であるお決まりの黒衣か、軍務に赴くときの軍服姿が板についている彼だか、今は少し汗ばんだ身体を冷ますためか、上半身は何も身に着けていない。秋の涼やかな空気に晒すようにして、帝国一の彫刻家すら感嘆のため息を漏らしそうな完璧な筋肉美を、燃えるような夕陽に惜しげもなく晒していた。

 過去、剣闘奴隷時代につけられたであろう無数の傷跡が、褐色の肌に踊る。左上腕には、最初に奴隷小屋に連れてこられたときに付けられたのだろう、彼の左頬に刻印されているのと同じ、決して消えない忌まわしい紋章が焼き付いていた。

 パラ……ともう一度、静寂で満たされた部屋に微かな音が響く。

 静かに文字の羅列へと視線を落とす褐色の肌の青年の首元には、夕日を反射してきらりと光る首飾り。

 ――普段は衣服の中に仕舞われていてあまり日の目を浴びることのない、大きく艶やかな、見事な翡翠の首飾り。

「ん……」

 少しかすれた、甘やかな声がした。夕陽のような紅の瞳が、すぃっと無言で声の主へと向けられる。

「起きたか」

「えぇ……」

 スル……と布がこすれる小さな音がして、ロロが視線をやった先――部屋の中に据えられた大きな寝台の中から女がゆっくりと身体を起こす。

 シーツの波間から出てきた身体は、一糸まとわぬ裸体だった。体を起こしたときに顔にかかった緩やかなウェーブを描く豊かな黒髪を、勿体つけるようにしてゆっくりとかき上げる。黒曜石のような見事な黒髪の間から出てきた瞳は、男を誘うような自然と潤んだ黒瞳。長く自然にカールした睫毛をけだるげに上下させ、なまめかしい吐息を艶やかな朱唇から漏らす。

 指先の微かな挙動一つ、吐息一つ――彼女を構成する全てが、男を惑わすために造られているかのような錯覚を呼び起こす、官能的な美女だった。

「ふふ……起きるまで待っていてくれたの?嬉しい……」

「……どこをどう都合良く解釈すればそんなおめでたい言葉が出て来る」

 さらりと髪を纏めるように書き上げながら上目遣いでねっとりとした視線を寄こされ、ロロは不愉快そうに頬を顰める。

「頼んでいた情報はこの紙束で全部か」

「アラ、手癖の悪い男。勝手に机を漁ったのかしら?」

 クスリ、と笑みを漏らした女の左上腕には、ロロと同じ文様が刻まれていた。

 ロロは呆れたように嘆息する。

「目に見えるように机の上に置いておいたのはお前だろう」

「嫌だわ、ロロ。”お前”だなんて色気のない呼び方――……ラウラ、とちゃんと名前で呼んで?」

 言いながら女は純白のシーツをかき集め、まるでドレスのように身に纏いながら寝台から足を降ろす。シーツに包まれていてもよくわかる豊かな胸も、確かなくびれも、男を誘う色香に満ち満ちていた。

「今回はなかなか情報を集めるのに、骨が折れたのよ?全く……最近の貴方は、無理難題ばかり……危ない橋を渡る女を可哀想だと思わないのかしら?」

「思わないな。それがお前の仕事だ」

 ゆっくりと近づいてくる女――ラウラには目もくれず、ロロは手にした紙束に視線を落としている。

(エラムイドに伝わる<贄>の伝承――文献に残っているものではなく、集落の民から直接聞き取った、生きた情報)

 前回ここへ来た時に彼女へ告げたオーダーを思い返しながら、静かに口を開く。

「信憑性はあるのか?」

「勿論。――お客様から直接聞き取ったのよ。怪しまれずに情報を得る手管を持つ従業員たちにもっと感謝してほしいわ」

「ふん……元奴隷が成りあがったものだな」

 ロロは夕日に染まった窓の外へと視線をやる。窓から見える暮れなずむ街並は、辺り一帯見事な『夜の街』だ。

 ラウラは、このあたりの娼館を全て取り仕切る女主人。一見、帝都の路地裏にある小さな香の店にしか思えないここは、彼女が周囲を欺くための”表の顔”として経営しているに過ぎない。その本性でもある”裏の顔”は、窓から見えるこの一画すべてを取り仕切る『夜の女王』として君臨していた。

「奴隷の身で、皇族の専属護衛にまでなった貴方に言われても、ね」

 笑みを含んだ声で言いながら、ラウラはロロの背後にゆっくりと近づき、そっと後ろから首に腕を回すようにして逞しい身体へ寄り添う。支えを失ったシーツがはらりと床に落ち、滑らかな柔肌を鍛え抜かれた背中へと押し付けた。

「この間の、<贄>の系譜を調べ上げられるところまで全て、という無茶なオーダーにもこたえてあげたのよ?……ね?いいでしょう?もう少し、ご褒美が欲しいわ」

 ふ……と吐息を耳に吹きかけるようにして囁く。寄り添う肌からは、むせ返るような甘ったるい香りが立ち上った。

(……この香り、か。この前指摘されたのは)

 恋人同士の甘い距離感に、眉一つ動かすことなく、ロロはふと先日、ラウラから情報を仕入れて帰った日に、レティに苦言を呈されたことを思い出した。

 香りになど全くの無頓着だったロロが、いつものように”お遣い”をこなし、ミレニアから頼まれた『<贄>の系譜』を手に入れて主の部屋に直接持っていこうとしたとき――

『いっ……今すぐ着替えてきてください』

『?……何故だ』

『そんな――いかがわしさの塊みたいな香を振りまいて、ミレニア様に近づかないでくださいっ……!』

 プルプルと震えながら、ミレニアの部屋の前で仁王立ちになって、必死に言い募る少女に目を瞬いた。

 言われてみれば、ラウラの部屋には、いつも甘ったるい香りが充満していた。香を焚き締めているのだろう。さらに、彼女の肌からも、同じ匂いがいつも立ち上っていることを思い出す。

『あぁ……確かに』

 はた、と思い当たり、素直に踵を返し、服を着替えて湯を浴びて髪にも付着した匂いを取り去ってから、再びミレニアの部屋へと赴いた。

 この香は、特にレティには嫌な記憶をダイレクトに刺激するものだったはずだ。

 ――いつも、あの、胸糞悪い性奴隷の見世物小屋に焚き締められていた香と同じ香りだから。

(確かに、こんな穢れた香りを、姫に嗅がせるわけにはいかない……)

 ロロは軽く頬を顰め、ぐい、としなだれかかってくるラウラを押し返す。

「近寄るな。……匂いが移る」

「アラ。……ふふ。愛らしいお姫様に、何か言われたのかしら?」

「姫じゃない。……最近入った奴隷に、指摘された」

「そう。……ふふふ。せっかく、官能的な気持ちを盛り上げてくれる香りなのに」

「……ただの胸糞悪い下品な香りだ」

 吐き捨てるように言うロロに、ラウラは気分を害した様子もなく、クスクスと笑いを漏らすばかりだ。

「つれない人。――大金を払ってでも、私と寝たい男が、ごまんといるのに」

「知らん」

 そっけない返事を返す男の首に、そっとラウラは細い指を這わせる。

 チャリ……と掛けられている首飾りの鎖が音を立てた。

「ね。……今度は、コレ、外してシましょう……?」

 ロロの眉根が、苛立ちに顰められる。

 一気に尖った空気に、ラウラはほぅっと熱い吐息を漏らして、色っぽく囁いた。

「他の女の存在を匂わせながら別の女を抱くなんて、酷い人。そういうプレイも悪くないけれど――でも、貴方の全身で、情熱的に激しく求められるような夜も、一度体験してみたいのよ。きっと、ゾクゾクしちゃう」

 バシッ……

 弄ぶようにして鎖を辿る指を、跳ね除ける様にして振り払う。細められた紅の瞳が、これ以上ない苛立ちを露わにしていた。

「……ふふ。怖い」

「遊んでないで、さっさと残りを出せ。――今日は夜番なんだ。月が出るまでに帰らなきゃならない」

「はいはい……ふふ、相変わらずつれない人。――そんなところが、好きなんだけど」

 クスクスと笑いながら、これ以上のおふざけには付き合ってくれなさそうなロロの本気の苛立ちを感じ取り、肩をすくめて踵を返す。途中、ベッドの周りに散乱していた女物の衣服を手に取り、慣れた手つきで身に着けながら部屋を後にする。

(全く……面倒な女だ)

 一番最初の”お遣い”から、彼女の足取りを探し続けて、再会したときは驚いた。夜の女王となっていた彼女は、裏の世界で知る者はいない情報屋としての顔も併せ持っていたからだ。

 これ幸いと、情報提供を要求した。奴隷小屋にいたころから、知らない仲ではなかったからだ。

 だが、裏社会で最も優秀な情報屋としての彼女が提示してきたのは、目玉が飛び出るような金額だった。報酬を払いさえすれば、信頼のおける情報を得られる。ビジネスの相手として信頼できるだけに、報酬は莫大だった。

 ミレニアの専属護衛になってからというもの、首飾りくらいにしか金を使ったことがないロロの貯蓄を思えば、払えないというほどでもない金額だったが、何度も”お遣い”を頼まれれば当然底をつく。どうしようかと悩んだロロに、淫魔のような女が紅い蠱惑的な唇を開いて、囁いたのだ。

『――貴方は特別に、身体で払ってくれてもいいわよ』

「相変わらず、とんだ快楽主義者だな……」

 今はラウラと名乗っている美女は、奴隷小屋にいたころ、一世を風靡した人気の性奴隷だった。

 性奴隷と聞くと、ミレニアのような高貴で清廉な世界に生きる者は、きっと心に傷を負ってボロボロになりながら見世物小屋に立たされているのだろうと考えるだろう。レティが良い例だ。

 確かにそういう奴隷がいることも否定しないが、実は、全員がそういうわけでもない。

 性奴隷として見世物小屋に立つ毎日に快楽を見出し、天職のように考える者がいる。ラウラはその筆頭だ。

 どうやら、奴隷小屋を出てからもその本質は変わらなかったらしい。彼女を満足させるだけの快楽を与えることが出来るなら、その快楽による満足度を情報提供の報酬としてカウントしてくれるらしかった。

 正直、気が狂っているとしか思えないが、奴隷小屋にいたころにもラウラと関係を持ったことは何度かあった。何が気に入ったのか知らないが、どうやらロロのことは奴隷小屋にいたころからの特別なお気に入りの相手だったらしい。

 ロロとしても、実質タダで貴重な情報が手に入るというなら、それを利用しない手立てはない。何度”お遣い”を頼まれようと懐事情を心配する必要がなくなる上、程よく性欲も発散出来て、都合がいい。

 結局、こうしてラウラと再会してからの一年以上、爛れ切ったビジネスライクな身体の関係を続ける羽目になっている。

 キィ――……と音がして、部屋の奥からラウラが再び顔を出す。手には、小さな革袋が握られていた。

「はい。これが、今回の分。貴方が前回持ってきた金貨分の宝石と、軍でも使われる保存食よ」

 無言でラウラから革袋を受け取り、中身を確認する。

 左頬に奴隷紋を入れられたロロが、帝都で堂々と宝石店に入り、金貨を宝石へと換えることは出来ない。故に、金貨をラウラに預けて宝石へと換えてもらっていた。今回からは、保存食も調達を頼んでいる。

「……あぁ。確かに、頼んだとおりだな」

 報酬を身体で払うという約束をしているロロにとって、紙束さえ手に入れられれば部屋を後にしても良かったが、彼女が目覚めるまで律儀に待っていたのはこれを手に入れるためだ。さすがに、これだけの価値のある宝石を目につくところに置いておく馬鹿はいない。ラウラ本人にしか保管場所はわからなかった。

「世話になった。また、用事があれば来る」

「本当に、つれない人。貴方のためなら、いつだって予定を空けるのに」

 汗が完全に引いた上半身に、床に散らしてあった衣服を身に着けながらそっけなく言うロロに、艶やかな黒瞳が細められる。

「ねぇ、考えてくれた?」

「何をだ」

「勿論、私と一緒になる話よ」

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