第85話 “神”に選ばれし<贄>⑩

 カッ――!


 水面から生まれた強烈な発光は、事前に予想がついていた。ミレニアが魔力を練り始めた時点で、ロロは極限まで目を細め、閃光に備えて覚悟を決める。

 誰がどう考えても、この儀式は、権力者たちによって仕組まれたものだ。何度も何度も、しつこいくらいに繰り返される”公正”というワードは、繰り返されるたびに空虚に響き、噓臭さを強めていった。

 放たれた光は、炎の光とは明確に異なる閃光だ。自然界にしか存在しない光線を、人為的に発生させるなど、どんな仕掛けを使ったのかはまったく想像がつかないが、それを暴く必要はない。

 重要なのはただ一つ――

 このインチキによって、守るべき主が、死地に送られることが決定してしまう、という事実だけ。

(それにしても、強烈な光だな――!)

 予想以上に強い光に舌を巻きながら、光が消えたと同時に瞬き一つで網膜に焼き付く白い影を振り払う。謁見の間を見れば、誰も彼もが目を覆ったままふらふらとしていた。

(今のうちに――!)

 ダッと床を蹴って走り出す。

 目指すは、光を直視したのか、今にも蹲りそうな様子の黒衣の護衛兵。

 ――その腰元に付けられた、金色の鍵束。

「何をしている!」

 響いたのは、朗々とした声。

 ――何故か、胸の奥底をザラザラと不快に撫で上げる、忌々しい男の声だった。

(仮面に助けられたのか、元からあの光線には慣れているのか――さすがにあいつは、回復が早い……!)

 警戒するようなクルサールの声を無視して、ジャラッと手元から鎖の音を立てながら男の腰に手を伸ばし、力任せに鍵束を引きちぎる。

「なっ――!ま、待て!何をした!」

 さすがに気づいて慌てて声を上げながら、手探りで腰の剣をまさぐり、抜剣しようとまごつく男を放置して、踵を返して主の元へと走りだす。――奪った鍵束を枷へと差し込みながら。

「止まれ!あいつを止めろ!」

 響いた声は、ギークのものだった。離れたところにいた彼は、回復が早いのかもしれない。

(そろそろ立ち直る奴が出て来る――!)

 ガチャガチャッと手元を見ることすらなく慣れた手つきで音を鳴らす。我に返ったらしい護衛兵たちが数名、鬼の形相で剣を手に迫ってきた。

「馬鹿者!!違う!そいつじゃない!!!」

 怒号を響かせたのは、ゴーティスだった。珍しく、余裕のない号令だな、と束の間彼の部下として出陣した数回の任務を思い出しながら、どこか冷静に頭の片隅で考える。

 カチンッ……

 鍵が綺麗に嵌る音がして――

「っ――ミレニアだ!!!!」

 ゴーティスの叫びの意味を理解したものが、この場にどれだけいたのだろうか。

「ぁあああああああああああっ!!!!!!」

 枷が外れるとともに、自由になった左手を掲げ、襲い来る男たちに向かって一気に魔力を解放する。

 ごぉおおおおおおおおおおっ

「「ぐわぁあああああっ」」

 炎に巻き込まれ、絶叫を上げる男たちの間を駆け抜けざま、鍵束を自由になった左へと持ち変える。

「な――!片手とはいえ、まだ魔封石の枷があるのに――!」

 巻き起こった特大の炎の舌は、帝国最高の炎の魔法使いと名高い老将軍のそれと見紛うほどの高火力だった。どこからか絶望的な声が上がるのを聞きながら、ロロは無心で目的地を目指す。

 ガチャガチャッ

「何をしている!早く!!早く、あの男を討ち取れ!」

 ギークの焦った声が飛び――

「違う!ミレニアだ!ミレニアを抑えろ!!!」

 ゴーティスの怒号がそれを上書きする。

 皇族護衛兵のうち、専属でない者は、本来軍属の人間がほとんどだ。

 国家の最高権力者の命令と、上下関係を叩きこまれている軍の最高司令官からの相反する命令に、一瞬護衛兵たちに迷いが生まれる。

 その隙は、ロロにとって、幸運以外の何物でもなかった。

 カチンッ……

「どけぇえええええええっ!!!」

 ジャッ――

 怒号と共に腰の剣を高速で抜き放ち、黒い風のような速さで護衛兵たちを斬り倒して目的地へと走る。

 ゴトンッ……と重たい鉄製の枷が、大理石の磨き抜かれた床に落ちる音が、背後で響いた。

「ロロ!!?」

「姫!!」

 突然の展開に驚いて水鏡の傍で蹲っていたミレニアの元へ、自由を取り戻したロロが駆けつけ、サッと背に庇う。

 仁王立ちで隙なく剣を構えたまま、禍々しい血の色をした瞳を鋭く眇めた。

「動くな!姫に近づいた者から、斬り捨てる!」

「クソッ……馬鹿どもが!!!!だから言ったんだ!!!!無能ども!!!!」

 ゴーティスが激昂し、ドンッと近場の壁を力任せに叩く。

(皇帝が、馬鹿な男で助かった――)

 ロロは胸中で呟き、ぐっと剣を握り直す。

 あの瞬間、状況を誰より正しく理解し、的確な指示を下したのは、ゴーティスだった。

 七人の腕利きの剣闘奴隷を、両腕に枷を嵌めた状態で倒すロロを相手に、正面からぶつかって適うはずがない。枷の重さなど慣れ切っているロロにとって、そんなものが大きく動きを阻害するはずがない上に、歴史上類を見ないほどの圧倒的な魔力量を誇るロロは、本気を出せば枷を付けたままでも、最低限の魔法を放てる。

 その上、既に鍵を奪われ、ほどなく両腕が解放される可能性が高かった。

 この状態で、ロロを止めることが出来るとしたら、ただ一つ――

 ――ミレニアを抑え、人質に取ることだけだった。

「ろ、ロロ……お前、枷は――」

「外しました。――もともと、あんなもので、俺を拘束なんかできない」

 後ろから恐る恐るかけられた声に、静かに返答する。

 そう――きっと、この場にいる全員が、知らなかっただろう事実。

 長く奴隷に身を窶した者にとって、枷を外すことは、さほど難しいことではないのだ。

(当たり前だ。何年奴隷小屋に入れられてたと思ってる……腐るほどあった時間の中で、脱走のシミュレーションを本気で考えたことがないやつなんか、あの肥溜めの中に一人もいない)

 すぅっとロロの瞳が鋭く眇められた。

 一体、どれだけ、それを考えたことだろう。幸い、娯楽の一つも与えられないあの肥溜めの中で、それを考える時間だけは腐るほどあった。

 何千、何万回とシミュレーションした。

 鍵を持つ看守の隙をついてそれを奪い、鉄格子を開け放ち、枷を外して、自由の世界へと羽ばたくことを。

 そうして、考え尽くすうちに、気が付くのだ。

 脱走そのものは、難しいことじゃない。

 ――――逃げ切ることが、難しいのだ。

(巡回してくる看守を倒して鍵を奪うことくらいは、多少腕に覚えがあって知恵が回れば、何とでもなる。剣闘奴隷なら、そんなことは朝飯前だ。性奴隷だって、色仕掛けで何とでもなる)

 肥溜めの中、何度も何度も考えた。実際、それを実行した愚かな同胞は、後を絶たない。

 だが――問題は、鉄格子を抜けた後なのだ。

 奴隷小屋と呼ばれる一画に配備された者たちは、皆、統率の取れた動きですぐに情報を共有して包囲網を敷く。風の魔法使いが情報伝達を担い、移動を迅速にして、あっという間に取り囲まれるのだ。一対一ではどうとでもなる彼らも、群れて戦略的に襲われてしまえば、歯が立たない。

 それでも、例えば腕利きの剣闘奴隷――それも、ロロほどの実力者であれば、どんな包囲も切り抜けられただろう。青布クラスであっても、十分可能性はあるはずだ。

 だが、結果としてそれも、意味を成さない。

(奴隷小屋の一画から逃れたら、すぐに奴隷商人によって世界中に手配書が回って、高額な懸賞金が掛けられる……頬に焼き印を押された奴隷は、市井に交じったところですぐにわかる。裏社会においても同じだ。……あの肥溜めから逃げ出すくらいの腕利きを、奴隷商人が放置するはずがない。どうせすぐに回収できると踏んで、目が眩むほどの賠償金を賭けるせいで、今度は奴隷小屋の兵士どころか、世界中を相手に逃げ回る羽目になる……)

 何千、何万回と繰り返した様々なシミュレーションの末、どうしても世界を相手取って生き延びる策を思いつけず、結局、脱走を諦める。腐った世界の奥底で、虚ろな瞳を空に向けて、怨嗟を漏らして息をする。

「剣闘の度に、何万回と、この枷が嵌められ、外されるところを見てきました。どこに鍵穴があって、どうやったらスムーズに鍵が開くのか、奇跡が起きて鍵が手元にやってきたときを思って、馬鹿になるくらい何度も考えた。――手元なんか見なくても、鍵さえ奪えれば、枷など、俺には何の意味もありません」

 枷を嵌められたくらいで周囲が安心するなら、いくらでも嵌めてやる。自由を奪った気になって、せいぜいいい気になっていればいい。

 そんなことで、ロロの瞳はもう、曇らない。

 ミレニアが主となってくれた今――もはや、孤独に世界を相手取り、”生きる場所”を求めて戦う必要などないのだから。

「だから――姫が、心を痛める必要など、ありません。……俺は、四年前、貴女の手で枷を外してもらえたあの日に、永遠の自由を手に入れているのだから」

 いつだったか、寂しそうな笑みを湛えて『泣いてしまう』と言った少女の言葉を思い出し、諭すように語る。

 今や、"ミレニアの傍"だけが、ロロが”生きる場所”なのだ。

 "永遠の自由"を手にしたロロは、枷の有無に関わらず、自分の意志で、生涯決して、その場所を離れない。

「貴様――ミレニア!どういうつもりだ!」

「お兄様……」

 顔を憤怒に染め上げて激昂するギークに、ミレニアも戸惑った声を出す。

「正当な儀式を経て、お前の<贄>の資質が認められた!この場にいる全員が、その水が光るのを見た!お前は、次の帝都防衛の<贄>として東の森に送られる!これは既に、決定事項だ!」

「――ふざけるな――」

 玉座の上で喚き散らす男に、地の底から響くような低い声で、ロロが呻く。

「どんな如何様を使ったかは知らないが、姫を――姫を、あんな目に遭わせることは断固として拒否する――!」

 ギリッと噛みしめた奥歯が耳障りな音を立てる。いつもは寡黙な男が、静かに怒りを燃やしていた。

 ロロの脳裏によぎるのは、ひと月ほど前に、皇城で目にした<贄>の姿だった。

 魔物を前にしては心許ないと言わざるを得ない細さの鳥籠は、それでも中にいる少女にとっては、逃げることが叶わぬ強靭な鋼鉄の檻。その中に、革製の枷を嵌められ、蹲って震えていた少女。

 鉄の檻に捕らわれて――その手に枷を嵌められて。

 まるで――――まるで、世界の肥溜めに堕とされた、奴隷たちのように――

「絶対に許さん――!」

 ロロの感情に煽られるように、天井に吊るされた煌びやかなシャンデリアの炎が、一斉にゆらっと揺らめく。

 彼の噂はどこかで耳にしたことがある者が多いのだろう。風もないのに不自然に揺れた陰に、ごくり、と息を飲んで一瞬の沈黙が下りる。

(姫だけは――姫だけは、絶対に、あんな目に遭わせるわけにいかない――!)

 清廉潔白な、穢れを知らぬ澄み切った泉のような世界に生きる少女なのだ。雲の上で、世の中の汚い存在からは隔絶された世界で、幸せそうに微笑んでいてほしい、人なのだ。

 世界の肥溜めに堕とされ、汚泥に塗れて無様に足掻く虫けらのことなど捨て置いてほしい。そんな世界のことなど知らなくていい。触れなくていい。その美しい手を、魂を、どうか、生涯、汚さないでほしい。

 その清らかで美しい少女を――この愚かな皇帝は、奴隷のように、扱うと言うのだ。

 鉄格子の中に閉じ込め、枷を嵌めて自由を奪い、他者の気まぐれで簡単に命を奪われる理不尽を、当然のこととして受け止めろと――そう、要求しているのだ。

(許せるはずがない――!)

 ぎゅっと双剣を握り締め、鋭い眼光を周囲へと巡らす。目が合った端から、蒼い顔になっていく皇族たち。この、忌まわしいと蔑まれ続けた紅の瞳は、彼らの目によほど恐ろしく不気味に映ったのだろう。

「ロロ……」

 少女のか細い声が聞こえて、そっと、遠慮がちにマントを握る気配がした。

(姫が、戸惑っている――震えて、怯えている――!)

 いつもの美声がほんの少し震える気配と、マントを握る指先の感覚でそれを悟り、ギリッともう一度奥歯を鳴らす。

 我慢がならなかった。至上の主に恐怖を与えたすべての者を、今すぐこの場で断罪したい衝動に駆られる。

(いっそ、そうしてしまおうか――すべてを炎に包み込んで、一瞬で片を付ければいい)

 すぅっとロロの瞳が細くなる。彼の纏う空気がピンと張りつめ、周囲の温度がサッと下がったかのような錯覚に、周囲で固唾を飲んで動けずにいた黒衣の護衛兵たちが、恐怖に煽られるようにして一斉に剣を抜いた。

「そっちがその気なら、こちらとしても話が早い……!」

 抜剣は、明確な敵意の現れ。ロロはぐっと腰を落として、全方位へと神経をとがらせ――

「待て。――全員、剣を納めろ。元帥命令だ」

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