第五章
第76話 “神”に選ばれし<贄>①
翡翠の大きな瞳に瞬きすら忘れさせたように、じっくりと分厚い装丁の本に目を通すミレニアの前に、そっと静かに湯気の立つカップが置かれる。
ふわり……と華やかで落ち着くハーブの香りが漂い、翡翠の瞳が思い出したように瞬きを繰り返して、顔を上げた。
そこには、少し困った顔をした筆頭侍女マクヴィー伯爵夫人が控えている。
「あら。……ありがとう、夫人」
「ミレニア様……本当に、お気持ちは変わらないのでしょうか」
控えめに告げられる言葉は、どこか寂寥を伴う。ミレニアは苦笑してから、置かれたカップへと手を伸ばした。
「夫人もしつこいわね。――もう、決めたことなのよ。皆には悪いと思うけれど……」
「せめて――せめて、来月のミレニア様のお誕生日までは。私も、料理長のカドゥークも、庭師のデニーも、古株は皆、決して任を退かぬ、と心に決めております……!」
「……全く……」
苦い笑みを深めて、ミレニアは白いカップへと口を付けた。
春になり、案の定、紅玉宮の運営資金は大幅に削られた。削られた分は、帝都の防衛資金に充てるのだ――と言われてしまえば、文句を言うことも出来ない。
しかし、周到に準備を進めてきたミレニアは、驚いた風もなく、着々と身辺整理を続けた。従者には退職金を渡して暇を与えた。今や紅玉宮は、かつてギュンターの寵愛があった日々が嘘のように、火が消えたように静まり返っている日がほとんどだ。
「もしかして皆、ひと月も無償で働くつもりなの?家計は大丈夫なのかしら……心配だわ」
「頂く退職金は、もったいないほどでございます。ひと月やふた月、無償で働いたところで、おつりがくるほどですわ」
「そう。……まぁ、お前たちが良いというのなら、止めはしないけれど――」
ミレニアが推し進めたのは、書面上の紅玉宮付の従者をなくすことだ。こうすれば、今後ギークの恨みを買ったとしても、「紅玉宮の従者」に対しての嫌がらせを指示したところで、被害を被ることはない。無償で、こっそりとミレニアの世話を焼いている者がいたとて、直接的に手を下すことは出来ないはずだった。
(一週間前に提出したお兄様への上申書はもう通っているはず……未だ音沙汰がないということは、どう対処すべきか考えあぐねている、ということでしょう)
おそらく、ギークの性格を想えば、ミレニアの上申書を目にした瞬間、怒り心頭だったはずだ。ミレニアから皇女としての身分を剥奪して市井に堕とすとともに、紅玉宮の従者たちを一斉に退職金もなく罷免する――くらいのことは考えそうだが、そこで初めて、取り寄せた従者の一覧が空になっていることに気づいて、困惑したと言うところか。
(皇族の身分剥奪には、裁判所の許可と、皇族全員の許可がいる……形骸化している裁判所はともかく、少なくとも、ザナドお兄様とゴーティスお兄様は、きっと私の身分剥奪には反対するでしょう。――ロロを継続的に使い続けたいがために)
あの交渉の日から、すぐに毎日のようにロロの戦力を提供するように、というゴーティスの文が舞い込んだ。ミレニアとしても、それを止めるつもりはない。ロロは魔物討伐の軍に組み込まることが多くなった。
漏れ聞こえてくる噂話によると、どうやら、あの手この手で、あのゴーティス元帥閣下ともあろうものが、ロロを引き抜こうと必死になっているらしい。中には、目玉が飛び出るほどの高給を示した、などという情報もあった。
それを、いつもの無表情ですげなく一蹴して、毎回ゴーティスが悔しそうに歯噛みする、というのが軍部内では慣習となっているらしい。
それでも、仕事はきっちりとこなすから、厭らしい。――諦めたくても諦められない人材を前に、手をこまねくしかないゴーティスの苛立ちは、日々大きくなっていることだろう。時折、思い出したように「やはり軍属にすべきだ」といった趣旨の手紙が届く往生際の悪さに、つい最初は笑みを漏らしてしまったほどだ。
(今月の皇族会議で、上申書の内容は共有されたはず……ギークお兄様の有力な対抗馬はどなたかしら。ガトーお兄様か――野心の強さで言えば、ジハークお兄様も、なかなかだわ。おそらく二人は、私の上申を目にして、どう利用するか考えあぐねて、各々のブレーンたちに相談するために持ち帰ろうと、その場では慎重に判断を下すべき、と言ったはず……自分の頭で良し悪しを考えられるのなんて、今やゴーティスお兄様とザナドお兄様くらいでしょうし)
毎月、月初に定例で行われる皇族会議は、帝都に居を構えている成人した皇族男子のうち、皇帝の他、継承権の高い者たちから順に十番目までが招集される。兄たちの面々を思い出し、ミレニアはそっとため息を吐いた。
(ロロが得難い人材だと思われているうちは、私の身分剥奪はあり得ない……来月の会議の結果、ガトーお兄様とジハークお兄様がどう出るかで、私の身の振り方は決まりそうね)
もし、ミレニアに同調するようにして、ギークに諫言し、場合によっては帝位を譲るよう働きかけるようであれば、その兄に取り入る手紙を書けばいい。ミレニアの優秀な頭脳を、十分に活用してもらう方法を模索すべきだ。
だが、ミレニアの上申を突っぱねるようであれば――今度は、最後の頼みの綱であるゴーティスを焚きつけるしかなくなるだろう。
(でもそれは、本当の最終手段ね……第六皇子が帝位につく、だなんて――方法は、一つしかないもの)
継承権を考えれば、正攻法でゴーティスにお鉢が回ってくることはあり得ない。
つまり――クーデター。それ以外の道は、残されていないのだ。
兄弟同士で血で血を洗う争いをしてほしいわけではない。それに、皇族の血統を重んじるゴーティスは、その方法を嫌がるだろう。
瞳を伏せて、静かにカップを傾けたとき、コンコン、と書斎の扉がノックされた。
「……ミレニア様。お客様がいらっしゃいました」
迎えに来たのは、古株バトラーのグスタフ。彼も又、無償で良いからせめてミレニアの誕生日までは、と言って紅玉宮に残っている人材だ。
当たり前のように働く勤勉な彼らを前にミレニアは苦笑して、カチャ、とカップをソーサーに置く。
「もうそんな時間?……わかったわ。応接の間で少し待っていて、と伝えておいて」
「はい」
「今日は天気がいいから、外でお茶を飲みながらお話をしましょうか。……夫人。着替えをお願いしても?」
「勿論でございます」
私室へと続く扉へ向かい、ミレニアは足を進める。
火の消えたような紅玉宮に――ここ最近、頻繁に訪れるようになった、珍しい来客。
今日もまた、彼とのおしゃべりの時間が、やってきたのだ。
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