第75話 動き出す歯車⑩
「ゴーティス。諦めろ」
「っ……クソがっ!」
感情の面で納得のいかないゴーティスは、最後まで渡されたペンを握りつぶしそうな勢いでサインをするのを躊躇っていたが、冷静なザナドに諭され、ぐしゃぐしゃと反対側の手で頭を掻いた後、乱暴にインク壺へペン軸を突っ込む。ピシャッと周囲にインクが数滴机の上に跳ねた。
「そう激昂するな。まさかお前まで、兄上の推し進めようとしているあの馬鹿馬鹿しい施策に頼り、帝都防衛を賄うとでもいうつもりか?」
「だが、ザナドっ……!」
「今の俺達に必要なのは、訳の分からん儀式だの奇跡だのじゃない。現実的に、魔物を相手取って進軍する最強の軍隊だけだ。――それを作るうえで、残念ながらこの男は必要不可欠になる」
「チッ……!ミレニア、いつか覚えていろよ――!」
忌々し気に大きく舌打ちをし、怒りに震える手で乱暴に契約書にサインをする。――第六皇子ゴーティス。
それは、抑えられない怒りのせいでやや太く乱れてはいたが、先日ザナドがサインした筆跡とほぼ相違がなかった。
「ありがとうございます、ゴーティスお兄様」
「クソッ!胸糞悪い!!明日から徹底的にこき使ってやるから、覚悟しておけ、奴隷野郎!」
ゴーティスはもう一秒もこの部屋に居たくない、という様子で立ち上がり、ロロに指を突き付けて罵るように威圧してからさっさと退室していく。ロロは静かに目と顔を伏せて、礼をもってそれを見送った。その従順な姿勢がなおもゴーティスの機嫌を逆なでし、バタンッ!と必要以上に乱暴に扉が閉められる。
「全く……まさにお前たちは水と油だな。間に入る俺の身にもなれ」
「ふふ……いつも感謝しておりますわ、ザナドお兄様」
ふーっ、と大きく疲れたため息を吐いたザナドに、邪気のない笑顔を見せて、ミレニアは契約書の写しを手に取る。不備がないことを確認し、ほっと一息を吐いた。
「そういえば……先ほどのあれは、なんですの?」
「あれ、とは?」
「お兄様が推し進めようとしている馬鹿馬鹿しい施策、とやらです」
「あぁ――……」
そのことか、と言いたげに顔を顰め、ザナドは少し言い淀む。そのまま、視線と手振りで周囲の兵を下げさせた。
兵士たちが全員退室した後、ザナドはぼそり、と呟くように言う。
「……ギーク兄上は、どうにも気が触れているとしか思えん」
「……今更、何を」
そんなことは、もう、ギュンターが床に伏せって彼が実権を握ってからの数年で、神経がまともであればこの国の誰もが実感していることだ。
兄弟姉妹の中では一番年下の妹の、親子ほど歳が離れた長兄に対する辛辣な言葉に、ザナドは苦笑した。
「お前、エラムイドの風習は知っているか。――<贄>の儀式、と呼ばれるアレだ」
「えぇ、勿論。そもそも、エラムイド侵攻は、対魔物の防衛策を手に入れるための戦争でしたから」
エラムイドは、一つの集落――とはいえ、とても無視できないだけの人口を有していた。魔物の巣に取り囲まれていながら、それだけの人口を持つ集落が、何年も魔物の脅威に脅かされずにいるというのは、どう考えてもおかしい。その秘密を知り国防へと転用するため、外界と隔絶されたエラムイドへの侵略を、ギュンターは決断した。
「あれは、悲惨な戦争だった。何人もの兵士が犠牲になり、俺もゴーティスも、優秀な部下や戦友を沢山失った。我々が被った痛手は深刻で――それでも、祖国から魔物の脅威を完全に根絶できるのなら、と希望を掛けた侵略戦争だった」
「えぇ」
「それがまさか――蓋を開けてみれば、意味の分からない土着信仰に根付いた、謎に塗れた儀式こそが、国家防衛の秘密だったと言われたときの俺たちの気持ちが、わかるか」
「……心中はお察しいたします」
神など存在しない、と明言するイラグエナム帝国に、そんな主張は通らなかっただろう。その時、まだミレニアは生まれてすらいないが、おそらくゴーティスあたりは、怒髪天を衝く勢いで猛烈に怒ったのではないだろうか。
短気で苛烈な性格のゴーティスだが、一度懐に入れた者への情は厚く、妙なカリスマを持つ優秀な男だ。散って行った戦友たちの無念を想い、それはそれは暴れ狂ったのではないかと想像する。
「そんな世迷いごとに耳を貸す父上ではない。どんな命乞いも聞かず、侵略し、蹂躙し、その文化を、知識を、全て手に入れてさらに帝国を大きくする――『侵略王』とは、そういう存在だった。深く傷つき、大きな痛手を被った俺たちは、全員がそれを期待していた」
「……えぇ」
何となく話の先が読めて、ミレニアはすっと瞳を伏せた。
ザナドは、ハッと鼻で嗤うようにして吐き捨てる。
「それなのに――たった一人の女を献上されただけで、父上は狂ってしまった」
「――……」
「終戦後の講和を、女の涙に絆され、ずいぶんと甘く設定した。彼らが有している書物を献上させ、歴史や風習を隠すことなく詳らかにさせることは約束させたが、奴らは奴隷や兵士として人手を献上することを拒否し、最後は帝国の治政下に置かれることすら拒否した。……それを受けて、父上はなんと、相手の意向をまるっと受け入れ、帝国貴族の領主を置くわけでもなく、今まで通りの自治を認めた」
「……存じています」
「だが、それでは、過去、散って行った英霊たちの無念はどうなる。俺たちは、どうやって彼らに報いればいい」
「……」
「ゴーティスが、お前に辛く当たるのを許せとは言わんが――あいつも、感情の置き場がないんだ」
「……知っています。お母様も私も、両国の橋渡し役になるには不十分な存在でした。幸い、どちらの禍根にもなることはありませんでしたが――どちらにとっても、有益な道具となることも出来なかった」
ふっ、と自嘲の笑みが漏れる。
それは、生まれたときからそこかしこで、ミレニアに悪意を持って囁かれる噂話。
もともと、母フェリシアが帝国に嫁いできたのは、ギュンターが「属国となる証として、エラムイド代表者の最愛の娘を差し出せ」と要求したことが発端だ。当然それは、エラムイドが交渉においてこちらの要求を拒否するようなことがあった時の人質としての役割を求められてのことだった。だが、その美しさにのめり込んだギュンターは、彼女を人質として使うどころか、故郷の者たちを想って泣くフェリシアに絆され、どこまでも甘い講和を結ぶ羽目になり、その後、『侵略王』の名が泣くほどに、一切の侵略戦争をピタッとやめて紅玉宮に入り浸るようになった。当然フェリシアは、皇帝を惑わせた悪女として、ギュンターに心酔していた者たちからは酷く蔑まれた。
そして、フェリシアがミレニアを生んですぐに急逝したことが、貴族たちの醜い噂話をさらに花開かせることになる。
表向きには、産後の肥立ちが悪かったため、とされているが、やれ故郷に残してきた恋人との密会がギュンターに露見したためだの、やれギュンター信者による心無い虐めに耐えきれず衰弱したためだの――
――老いて寵愛を失い、本来の”人質”として扱われ祖国の禍根となりうる前に、最初から子を産んだら自死するように指示されていた、だの。
何もわからぬ幼いミレニアに、それはそれは愉快そうに、沢山の話を聞かせてくれた貴族たちがいた。
(侵略者との間に生まれた子供である私を大切に思ってくれるような者が、エラムイドにいるはずもなく――私は、仮に両国の関係が悪化しても、人質には決してなりえない。そう考えれば、お母様が役割を果たしたら自死しろと指示されていた、という説は、妙に信憑性を増すのよね)
勿論、初めて聞いたときは哀しかった。母は、自分には何一つ未練を残さなかったのかと、辛い気持ちになった。自分は望まれて生まれてきたのではなく、高度な政治的戦略の元、生み出された産物でしかないのか、と。
だが、それからの人生で、ギュンターがそんな噂など気にならなくなるくらい溺愛してくれたことで、自分は望まれて生まれたのだと信じることが出来た。お守りとして持ってきた首飾りを、ミレニアへ引き継ぐようにと遺言を残したと言う母なりの愛を、信じることが出来た。
ミレニア自身が、愛に飢えることはなかったが――それでも、口さがない大人たちの悪意は変わることはなかったし、ミレニアがエラムイドとの関係における重要人物になりえないという現実は変わりようがない。
ただただ無力でちっぽけな、政治的利用価値のない幼い少女――それが、今のミレニアに張られたレッテルだ。
「ですが、どうして今更エラムイドの話を?ギークお兄様の愚かな施策とやらにどう関係が――」
「そのままだ。――エラムイドで行われている<贄>の儀式を、帝国に持ち込む」
ドクン……
ミレニアの心臓が、不自然に音を立てた。
「<贄>はエラムイドの四方に捧げられるという。つまり、必要なのは四人だけだ。だが――どうやら、<贄>の候補者というのは、毎年、何人も選出されるらしくてな」
「え……?」
「<贄>選定の儀式――エラムイドでは、『見極めの儀』と言うらしいが。エラムイドの領内にある『聖なる泉』とやらから引いた水を張った『聖具』の水鏡に向かって、十歳を過ぎても魔法が顕現しない無属性の子供たちに、魔力を練らせる。すると、時折、水が光り輝く子供がいるらしい。それが、”神”に選ばれた<贄>の証だと」
「……もはや、どこから口を挟むべきか、わかりません」
「そう言うな。俺も、最初に聞いたときは頭を抱えた」
鼻の頭に皺を寄せて渋面を作るザナドのげんなりした表情は、心からの感想なのだろう。ミレニアも呆れかえって嘆息する。
聖なる泉だの、聖具だの、魔力に反応して光る謎の水だの。エラムイドの民は、集団でおかしな幻覚でも見る病に侵されているとしか思えない。
「儀式で光の輝きが強い者ほど、<贄>としての資質が高いらしい。何人も選出された<贄>候補のうち、光が強い者から順番に、魔物の巣と領地の間あたりに送られる。すると地域に平穏が訪れ――しばらくすると、捧げた<贄>の効果が途切れる。そうなれば、その年の<贄>候補で最も資質が高い者から順に、効果が切れた<贄>がいた方角へ送りつける。そんなことを繰り返して、何年も何年も、領土を守ってきたらしい」
「全く……何の冗談なのでしょうか」
「あぁ。正気の沙汰とは思えない。奴隷でも何でもない、年端もいかぬ十歳の子供を、生きたまま魔物の餌食にするなど――エラムイドの大人たちは、狂っているとしか思えないな」
ザナドの声に苦い物が混じる。
<贄>――などと言って誤魔化しているが、要するに、「魔物の群れに襲わせる」ということだ。それはつまり、魔法も使えない幼い子供を、護身用の装備の一つも持たせない無防備な状態で、血と肉に飢えた魔物の前に独り置き去りにする行為に他ならない。
その恐怖と絶望は、いかばかりだろうか。想像するだけで、胸が痛む。
魔物に身体を食い破られ、無惨な遺体を晒したディオの最期を思い出し、ミレニアはぐっと奥歯を噛み締めた。
「だが、つまり――<贄>候補となったが、運よく責務を逃れた者達が、エラムイドにはごまんといることになる」
「確かに……」
「<贄>は<贄>を生む――というのが、エラムイドに伝わる諺らしい。それ故、エラムイドでは、<贄>候補でありながら運良く責務を逃れた者たちは、積極的に結婚して子供を作ることを推奨される。……次なる悲劇の子供を産むために、な」
ミレニアは、ぐっと苦悶の表情を浮かべて唾を飲み込む。
エラムイドの中に、誰かまともな大人はいないのか。
不幸の連鎖を続けるその行いは、彼らにとっては『儀式』なのだ。幼い無力な子供たちを、盲目的に延々と死地に送り続ける凶行に、何か明確で論理的な理由が証明されているならともかく――見たこともない”神”とやらが、儀式において選定した、という訳の分からない理論を心から信じ、<贄>に選ばれたならば、血を分けた我が子すら死地に送り出す。
(まさか、「神に選ばれたなんて、光栄なことよ」とでも言って子供を送り出すの?……いよいよ狂っているとしか思えないわね)
つい数か月前、血すら繋がっていない少年を息子と重ね、死地に赴かせて命を失わせてしまったと心から悔いてハラハラと涙を流していたマクヴィー夫人の姿を思い出し、吐き気を催した。
ミレニアは、母親の愛というものを良く知らないが――それでも、出来ればああいうものが、母の愛なのだと思いたい。
「どうやら兄上は、エラムイドに存在する<贄>の責務を免れた者たちを献上させ、帝都防衛の役割を担わせよう、と――そのようにお考えらしい」
「!?」
バッとミレニアは思わずザナドの顔を見返す。
ザナドは、これ以上なく苦い顔をしながら、言葉を続けた。
「当然、エラムイド側は強く反発した。一度了承すれば、帝都どころかなし崩しに帝国全土を防衛させる役割を担わせられるに決まっている。領土が小さい自国だけならいざ知らず、広大な領地を持つ帝国全土を守る<贄>を献上すれば、<贄>の候補者が枯渇し、当然、己の領内を守るための<贄>の供給が滞る」
「それは……当然です。エラムイドは自治を認められていますが、国防のための武力はあまり持っていないと聞きます。<贄>を奪われれば、巣に囲まれた領土は瞬く間に魔物に食い尽くされるでしょう。そんな要求を、呑むとは思えません」
「あぁ。だが先日、ギーク兄上に、厄介な男が味方した。――カルディアス公爵家だ」
ハッとミレニアは瞳を見開く。
「お前との婚約を破棄した以上、もはやギーク兄上にすり寄っても邪険にされないと判断したのだろう。そもそも、エラムイドの儀式を持ち込もう、などという策を、あの愚かな兄上自身が考えついたとは思えん。……今の当主は、頭だけは回るからな。おそらく、あの狐みたいな男の入れ知恵だろう」
「で、ですが、エラムイド側は拒否を示して――」
「その辺りも、あの狡猾な狐男は周到だった。昔、父上の時代に交わした『エラムイドの歴史や風習を隠すことなく詳らかにさせる』という約束事を振りかざし、その胡散臭い儀式の効果が本当か検証する権利が帝国にはある、と言い放った」
「な――!」
「先日の大規模な魔物襲撃で、危うくカルディアス別邸も巻き込まれそうだったのも影響しているんだろう。自衛のためならば、どこまでも狡猾になる男だ。……結果、狡猾なブレーンを手に入れた兄上は幾度となくエラムイドとのやり取りを重ね――最初に一人だけ、検証のために<贄>を渡す、というところで、先日話が落ち着いた。今日明日にも、皇城に候補者が送り届けられるはずだ」
「そんな――……」
ぞくり、と背筋に冷たいものが伝い降りる。
先ほど、『狂っている』『まともではない』と称したエラムイドの大人と同じことを――誇り高き我が国の皇帝が、率先して行おうと、言うのか。
ザナドは、ふーっと疲れたように大きく息を吐き、黒い短髪をかき上げる。
「当然、俺たち軍部は、そんなものを国防の施策と認めるわけにはいかない。イラグエナムは代々続く軍国主義国家だ。正規軍の武力によってのみ、魔物の討伐は行われ、国民の平和は保たれるべきだと考える。――だから今は、使えるものは何でも使いたい。あのゴーティスが、心から嫌悪するお前に、三日に空けず手紙を送るなどという、天変地異の前触れとしか思えんようなことをしでかしても、そこにいる元奴隷を手に入れたいと思ったようにな」
ぎゅ……とミレニアは扇を握り締め、蒼い顔で俯いた。
「一度、契約は成った。今更どうこう言うつもりはないが――帝国の未来を想う同志としてお前を見込み、伝える。お前が思う以上に、今の状況は深刻だ。……いつでも、契約の再締結を、俺たちは受け入れる。よく考えておいてくれ」
話は終わりだ、とでも言いたげに切り上げ、ザナドは腰を浮かし、退室する。
パタン……と閉ざされた扉が、外界との空気を隔て、室内にはミレニアとロロだけが残された。
「……姫」
「……えぇ。わかっているわ。行きましょう、ロロ」
しばらくの沈黙の後に、伺うように掛けられた声に答え、胸の中の昏い靄を吐き出すように一つ吐息を吐いた後、顔を上げて立ち上がる。
ロロを手元に引き留めたことを、ミレニア個人は全く後悔していない。
だが――第六皇女としての自分は、少し、揺らいでしまったのも、事実だ。
(駄目よ。主がふらふらと惑っては、臣下を不必要に不安にさせる……しっかりと、私が、何を大事にするのか、自分の中で揺らがぬ軸を決めないと――)
今のままでは、誰もを不幸にする未来しか見えない。
ミレニアは、そっと扇の陰で深呼吸をしてから、重たい扉を開いたのだった。
◆◆◆
「少し、遠回りをして帰りましょう。――皇城を見て回れる機会など、今は滅多にないのだから」
紅玉宮に帰る道すがら、ミレニアはまだ少し硬い表情を残したままで、ロロに告げた。
美しい横顔に宿るのは、女帝としての風格。
ロロは静かに頭を下げて拝命し、ゆっくりと主と共に城内を見て回った。
ミレニアは、何も言わずに道行く者たちをただ眺めて通り過ぎていく。付き従うロロには、その心中までは推し量れない。
「――――あれは……」
ふと、ミレニアが足を止め、一点を見る。ロロもまた足を止めて、ミレニアの視線を追った。
「……?」
しかし、そこには何もない。怪訝に思い、ミレニアを振り返る。
だが、主は一見何も無いようにしか見えない空間に視線を釘付けにしていた。翡翠の目を見開き――
「姫……!?」
ロロの声に構うことすらないままに、迷うことなく足を踏み出す。
一瞬面食らったが、ロロもすぐに後を追いかけ――ある一画に差し掛かったところで、ぴたりとミレニアが足を止めた。
春を目前に、いくつかの花々が蕾を綻ばせている庭園を横切ろうとする、何やら物々しい装いをした黒衣の兵士たち。
「どなたの護衛兵かしら……」
ぽつり、とミレニアがつぶやく。兵士達の装いは、後ろに控えるロロと同じく、皇族の護衛兵にだけ許される装束だ。
ミレニア以外の皇女たちは皆、どこかしらの貴族の家に嫁いでいる。皇族ではなくなった彼女らに、黒衣の護衛兵が就くことはない。つまり、遠くからやってくるのは、十二人いる兄たちの誰かの護衛兵たちなのだろう。
護衛兵がいる、ということは、どこか近くに兄の誰かがいる可能性がある。見つかれば厄介な事に巻き込まれかねない。ミレニアはそっと身を隠すようにして庭園の隅に移動し、様子をこっそりと伺った。
一行が近づくにつれて、蹄の音と、ガラガラ……と車輪の音がする。
(馬車……ではないわね。荷車……?)
皇族護衛兵は、仕える皇族の私兵のような扱いをされることが殆どだ。彼らも、何かの”お遣い”をさせられているのか――
そう思ったとき、ミレニアはハッと息を飲んだ。
黒衣の護衛兵たちに囲まれて運ばれていたのは、一つの荷。
それを形容するなら――”鳥籠”と呼ぶのが、正しいだろう。
巨大な、まるで針金みたいに心もとない鋼の檻に囲まれて、捕らわれているのは――革製の拘束具を付けられた、年端もいかない少女だった。
(な……に……?これは――)
目の前の状況が上手く呑み込めず、茫然とその光景を眺める。
鳥籠そのものは、酷く心許ない。馬や牛が体当たりしただけで、すぐにひしゃげてしまうだろう。
だが、檻とすらいえないそれの扉に付けられているのは、獲物の脱出を強固に拒む意思が感じられる不釣り合いなほどに頑丈な鋼鉄の錠前。
その籠の中――捕らわれた幼い少女は、ガタガタと震えて、泣いていた。
「――ま……神様……神様……神様……」
ぎゅっと拘束された手を組んで額に押し当て、ハラハラと止めどなく涙を流している。
「<贄>――」
今日明日にでも到着する、と言っていたザナドの言葉を思い出し、ミレニアは呆然と呟いた。
まさか――これを、魔物の群れに放り出すと言うのか。
この、鳥籠に捕らわれた無防備な少女を――鉄製の馬車すら簡単に蹂躙したあの魔物の群れの中に、拘束具を付けた状態で、置き去りにすると言うのか。
思わず、何も考えずに一行へ向けて足を踏み出しかけたとき――ぐっと手を引かれ、驚く。
「ロロ……!?」
普段は視界に入ることすらない護衛兵が、自分からミレニアに触れることなど、滅多にない。
唯一――ミレニアの身に危険が迫る可能性があるときだけだ。
「……誰だ。出てこい」
ミレニアを近くの壁に追いやってから背に庇うようにして、低く押し殺したような声が響く。背の高いロロに立ち塞がれては、小柄なミレニアは前方など見えない。
「おや。……すみません、隠れているつもりではなかったのですが」
響いた声は、爽やかな心地よい低音。カサ……と音を立てて庭園の芝生を踏みしめ、建物の陰から姿を現す。
そっとミレニアはロロの背中から顔を出し、伺うようにして相手を見た。
そこにいたのは、ロロと大して変わらない年齢の青年。
太陽の光を集めたような、華やかなシャンパンゴールドの髪。陶磁器のように白く抜けるような美しい肌。真夏の空を思わせるような、碧玉の瞳。
思わず息を飲むほどの美丈夫が、優しい笑みを湛えて、佇んでいた。
ドクン……
ミレニアの心臓が、一つ、大きな音を立てる。
「初めまして、黒玉の君。お目見え出来たこと、心より嬉しく思います」
「な……にを……言って……」
”黒玉の君”――などと呼ばれたことは、一度もない。
当たり前だ。ミレニアの夜空のような髪を褒め称えるようなその文句は――帝国内では、意味を成さない。
ほとんどの帝国貴族は、黒髪黒目に褐色の肌を持つ。髪の色が黒いことは、何も珍しくないのだから。
だが――目の前の、白い肌を持った金髪碧眼の遺伝子を持つ青年のような者が多い国では、おそらくそれはこれ以上ない美辞麗句なのだろう。
その国に、一つだけ――心当たりが、ある。
「申し遅れました。私は、エラムイドの代表を務める者」
穏やかで人好きのする、慈愛に満ちた優しい笑みを湛え、青年は胸に手を当てて恭しく一礼した。
顔を上げ、再びにこり、と微笑む。
どこか、人間味を感じさせない、”完璧”な笑み。
「名を――――クルサール、と申します」
ギシギシ……ギシギシ……
耳障りな音を立てて、運命の歯車が、ゆっくりと動きしていた――
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