第63話 勇敢な守り人⑤
(なん……だって……?)
脳裏に響いた声が理解できず、茫然とする。
見れば、周囲は時間が止まったかのようにして、不自然に静かだった。
(――助、ける……?)
時間が止まった空間で、視線だけを巡らし――絶望する。
自分の腹から下、下半身を丸々、凶暴な牙を持った魔物が、飲み込むようにして噛り付いていた。最初に食い破られた腹からは臓物が覗き、左手は既に肘から先が見当たらない。
ぞっ……と全身を寒気が襲った。
『お前の気概が、気に入った。望むのならば、助けてやろう』
己の状態に、本能的な恐怖で気が狂いそうになるその瞬間、差し込まれるようにして脳裏に響く声。
くぐもった低い声は、脳に直接語り掛けるようで、鼓膜を震わせる音声ではないような気がした。
『憎いだろう。悔しいだろう。このまま命を絶たれても良いのか?嫌だろう』
まるで、慈愛に満ちた神のように――
――狡猾な、ペテン師のように。
不思議な声が、恐怖に支配されそうな心の隙間に、すぃっと入り込んでくる。
『我の手足となり、命を捧げると、誓え。それだけで、”契約”は成される』
(契、約……?)
ぼんやりと、謎の声に答えるように、胸中で呟く。頭には一面靄がかかったようで、熱に浮かされたような不思議な感覚に支配されていた。
『愚かで脆弱な人間よ。魔法の一つも使えぬ、哀れな虫けらよ。己の無力が、憎いだろう』
(――あぁ。憎い。憎いとも)
優しささえ伴う声に、素直に肯定する。
思い浮かぶのは、紅い瞳の剣闘奴隷。
自分と同じような境遇にあったくせに、自分とは全く異なる人生を歩んでいた。
世界の肥溜めと呼ばれる奴隷小屋の中で、特別扱いをされていた。
伝説の黒布を身に纏い、女神に救い上げられて、名前を与えられて、自由を勝ち得て――
自分などよりずっとずっと早くから――”人”として、生きていた。
『そうか。その男が、羨ましいか』
(あぁ、羨ましい。妬ましい。ずるい、ずるい、ずるい)
規格外の、魔法の才も。鬼神のような、剣技の才も。
――――至上の主からの、絶対の信頼も。
その、何もかもが、羨ましくて、堪らない。
考えた瞬間に、今まで自覚などしていなかった真っ黒な感情が胸に渦巻いていく。
『では、お前に、魔法の力を授けよう』
(――――ぇ――?)
響いた声は――声しか聞こえないくせに、嗤っているのが、わかった。
世界の時間が止まった中で、呆然と、聞き返す。
『我と契約を結ぶなら。……さすればお前に、”闇”の魔法を、授けよう』
(――”闇”の魔法……?)
初めて聞く単語に、怪訝に眉を顰める。
不思議な声は、可笑しくてたまらない、というように弾んだ声で言葉を続けた。
『”闇”の力は強力だ。何もかもが、お前の思い通りになる。……お前はただ、理想の世界を望むだけでいい。人はお前の意のままに動く傀儡となる』
(傀儡……?)
『お前の憎むその男を、殺すことも出来るだろう。望むなら、お前は自身の手を汚すことなく、その男を絶望の淵に叩き落して、心が壊れるまでいたぶることも、殺すことも、簡単だ』
(……あの、化け物みたいな――ロロの、旦那を……?)
『そうだ。当然、魔法の力は、復讐を成す以外にも有効だ。例えば……そう。お前の愛しい想い人の心を得ることすら、たやすい』
(――ぇ――)
『どれほど身分違いの敵わぬ恋でも、関係ない。障害となるすべての者の心を操れば、問題ない。君主を操れば、国を意のままにすることもたやすいのだ。人間どもが縛られている”法”とやらも、お前の意志一つで簡単に変えられよう』
(…………そんな、夢みたいなこと――)
もしもそんなことが可能ならば。
それは、今日、マクヴィー夫人と語った”夢”が、荒唐無稽なものではなくなるということだ。
頬に刻まれた奴隷紋を気にすることもなく、身分を気にすることもなく。
世界で一番美しく、強く、気高い少女を、永遠に傍に置いておける――
『我への見返りは、人間どもの、恐怖と絶望。混乱を極めた世界の中で、血と肉よりもよほど甘美に、それは我を酔わせていく。……お前はただ、お前の望むことをすればいい。それがそのまま、我への見返りとなるのだ』
少年は、時間が止まった世界で、不思議な声の語った内容を反芻する。
身体の半分以上を魔物に食い破られているこの状況で、一体何が出来るのだろうか。
(――――生きる、ために――)
契約をしたら、この絶望から、救われると言うのか。
『そうだ。だから、契約を。この状態からお前を救えるのは、我しかいない。……何、簡単だ。お前は我欲を極めるだけでいい。それだけで――我を酔わせる美酒を運ぶ、従順な召使となるのだから』
ドクン……
少年の心臓が、大きく一つ、鼓動を刻んだ。
恐る恐る、視線を巡らす。
下半身から生えた、凶悪な漆黒の獣。失った半身。
それだけではない。ゆるりと宙へと視線を這わせれば、数匹の魔物が少年へと齧りつこうと、今にも飛び掛からんと待ち構えているのが見えた。時間が動き出せばたちまち、少年は全身を食い破られてしまうだろう。
間近に迫った死の恐怖をひしひしと感じながら、そのまま、ゆっくりと頭を巡らす。
視界の端に、鉄製の馬車が、見えた。
(ぁ――……)
ディオが無力化されたせいだろう。既に数匹が馬車へと駆け出している。
そのうちの一匹は、既に窓にたどり着き、今にも頭を突っ込もうとしていて――
ざわざわと、心が不穏な影に侵される。
自分の身体を失った恐怖よりもひと際恐ろしい、形容しがたい恐怖。
もしも、この状況から救われたいならば、この謎の声に従うしかないのだろう。
死出の旅路に出る寸前に見せられた、この、嘘か誠かわからぬ光景に、盲目的に縋って、醜く生へと執着すればいい。
無様に生にしがみつき、足掻くのは、得意だった。
物心ついたときから、当たり前のようにそうしてきたのだから。
「――ぐ……」
ダメ元で体を起こそうと力を入れると、ゴボリ、と口から血を吐きながら、それでも身体は動いた。
周囲の時間は止まっていても、ディオの時間までは止められていないらしい。
『契約は簡単だ。残ったその右手を我へと掲げ、”闇を受け入れる”と叫べばいい。それだけで、お前は世界の覇者となれるのだ』
「がっ……は……」
どうやら、身体が動けるのは、契約をさせるためだったらしい。
激痛で、痛覚すらマヒしたまま、せり上がってきた血の塊を吐き捨てて、ゆっくりと右手を宙へと掲げる。
剣を握ったままの右手の先に――漆黒の夜空が、広がっていた。
(あぁ――綺麗だ、な……)
愛しい人を思い起こさせる、その空に想いを馳せて――
くるり、と剣を逆さに持ち替えた。
ドシュゥッ
ディオは、逆さにした剣を、そのまま全体重を乗っけるようにして、己の下半身に齧りついている魔物の脳天に、迷いなく突き刺す。
『な、に……!?貴様、何を――』
「答えてやる――お前の”召使”なんざ、クソ、くらえだ――!」
喉の奥が熱い。荒い吐息の合間から、怨嗟の声を漏らす。
途中まで、少年の心は揺れていた。
それはきっと――この声の、不思議な力によるものだろう。傀儡にするという闇の魔法の力を使われていたのかもしれない。
(確かにロロの旦那は羨ましいし、姫サンと結婚出来るとか夢みたいだって思うけど――)
この声の主は、決定的に、間違えた一言を、放った。
「俺が”召使”として仕えるのは――この世でたった一人、俺が主と定めた、姫サンだけだ――!」
あの一言で、我に返った。
急に靄がかかってぼやけていた脳裏がクリアになって、冷静に物事を考えられた。
少年が主と仰いで仕えるのは、あの、女神のような少女だけだ。
彼女は、ディオを”人間”として扱ってくれた。
枷を外して”自由”を約束し、自分らしく自分の人生を歩む道を、示してくれた。
彼女は――決して、ディオに、己に仕えることを、強要しなかった。
どこへ行ってもいい、と言っていた。”自由”に人生を歩き出せる力を身に着けるまでの面倒を見ることを約束しながら、彼の人生を強要したりは、しなかった。
”道具”と蔑まれていた自分を”人間”として認め、勇敢だと微笑んでくれた。
こんな自分を個として尊重し――期待をかけて、くれた。
だからこそ、ディオは、生涯を彼女に捧げると、誓ったのだ。
誰に強要されたわけでもない。――己の確固たる意志で、この主に生涯を捧げ、仕えると決めた。
唯一無二の主を、自分で自分の心に決めた。
「愚かで、脆弱で、哀れで――虫けらなのは、事実だけどよ――!」
ぐぐぐっ……とすでに力の入らなくなった身体を無理に動かす。
魂の叫びが、喉を震わせた。
「俺の姫サンだけは――ぜってぇにそんなこと、言わねぇんだ――!」
世界中の全員が、少年を蔑み、唾を吐きかけ、理不尽な暴力を振るおうとも。
――きっと、少女だけは、手を差し伸べてくれる。
あの、白くて美しい、清らかな手を、何度だって――何度だって、絶対に。
生に執着し、足掻くことに抵抗はない。それを無様と思うような心は、ずいぶん前に捨ててきた。
ちっぽけなちっぽけな命を守るため、必死になって藻掻いていた。それだけが、生きるために必要だった。
だが――女神のためなら、こんなちっぽけな命くらい、いくらでも捨てても良いと、思えたのだ。
今のディオが望むのは、ただ一つ。
最期の最期、息を引き取るその瞬間まで――
――彼女が認め、彼女が誇りに思える従者でありたい。
きっと、この声と契約を交わしたら、彼女は心を痛めるだろう。
少年を「虫けら」と称して侮る存在に、「召使」として、手足となって命を捧げるという契約を交わしたことを、悲しむだろう。
だから――だから、突っぱねる。
命なんて、無くなってもいい。次に彼女と対面するのは、無残な躯であってもいい。
それでも――彼女に胸を張って、対峙できる己であり続けたいのだ。
『貴様っ――!我の誘いを断ったこと、後悔させてやろう――!』
カチッ……
脳裏に響いた憤る声とともに、小さな音が響く。
――止まっていた時間が、動き出した。
「っ――ぅぉぉぁあああああああ!」
魔物が己に殺到する直前、最期の力を振り絞って、ディオは右手を振り被り、ブンッと手にした剣を全力で投げ放つ。
放たれた白刃は、狙い違わず――鉄の車体の窓に顔を突っ込もうとしていた魔物の首に突き立った。
ゆっくりとその身体が傾いて、ドゥ……と崩れたのを見届け、ほっ……と一息ついたところに、視界いっぱいに凶悪な牙から涎を垂らした魔物が迫った。
骨の一つも残さず食い尽くされることを覚悟した瞬間――
「ぁあああああああああああっ!!!!神様!!!神様、神様、神様!!!誰でもいい!!!どうか、どうか、誰か助けて!!!――ディオを、息子を、お願いだから助けて!!!!!」
甲高い、母の涙にぬれた悲痛な声が、馬車の中から響く。
カッ――!
鮮烈な光が視界を焼いた――と思ったとたん、目の前に迫っていたはずの魔物たちが、尻尾を巻いて、蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げていく。
それを、不思議に思うことも――脅威が去ったと安心することも、もはや風前の灯火となった命の少年には叶わなかった。
「ディオ!!!!ディオルテ!!!」
遠くで、悲痛な声が聞こえる。絶対に開かない鉄の扉を開け放ち、夫人が泣きながら駆け寄ってくる気配があった。
横たわっていたボロボロの身体を抱き寄せられたと思ったと同時、ぼたぼたと顔にたくさんの熱い雨が降ってくる。
(――――あったけぇ……)
抱きかかえられた夫人の胸は、温かった。
自分が与えた温石が、懐にあるのかもしれない。――懐かしい、温度。
心が緩む、唯一の味方。
「か……ちゃ……」
「えぇ……えぇ、ディオ……!ディオ、母様は、”母ちゃん”はここにいますよ――!」
教えてもらった呼び名で呼べなかったのに、夫人は叱ることなくぎゅっと抱きしめてくれた。
――母の記憶は、無いけれど。
これが、母親の温もりなのだろうか。
最期の力を振り絞って、瞼を押し上げる。
――綺麗で、広くて、どこまでも自由な漆黒の空が、視界いっぱいに広がっていた。
「へへ……」
思い浮かぶのは、女神の顔。
”人生”の最期に見るのが、この空で――本当に、本当に、よかった。
「姫サン――褒めて、くれ……る、かなぁ……」
ヒューヒューと掠れた音を立てる喉から、零れるように心の声が漏れた。
「えぇ……えぇ、必ず――!必ず、必ず、ミレニア様は褒めてくださいます!お前を誇らしいと、世界中に誇れる立派な従者だと、きっと、きっと、手放しで褒めてくださるでしょう――!」
ぼたぼたと後から後から降ってくる熱い雨とともにかけられる言葉に応える力は、もう、残っていなかった。
(あったけぇ……な……)
ずっとずっと、冬の寒さが、嫌いだった。
今にも雪が降りそうな、凍える曇天の夜に――夫人の、母のような温かな胸に抱かれたまま。
――少年は静かに、命の灯をかき消し、死出の旅路へと、旅立っていった――
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