第62話 勇敢な守り人④

「ディオ――!」

「駄目じゃ!頭を低くしてくだされ!」

 炎の障壁の向こう――夥しい量の獣が待ち構えていた絶望を知り、思わず窓から身体を乗り出そうとした夫人を、しゃがれた声が引きとめる。

 ――覚悟を決めるときが、来ていた。

 今まで、炎が消えたと同時に駆け込んできていた獣たちは、まるで捕まえた獲物をいたぶるように、もったいぶってゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。

(十――じゃ、きかない。十五か、二十か――…旦那でも、さばききれないくらいの、数だ)

 恐怖に震える様を楽しむようにゆっくりと近づく瞳の数を数えて、ごくり、とディオの喉が音を立てた。

 どうやらここが――自分の年貢の納め時らしい。

(あぁ――チクショウ……クソみてぇな、人生だったな……)

 思わず、空を振り仰ぐ。

 月も星も、何も見えない真っ暗闇。絶望みたいな、漆黒の色。

 毎日、毎日、汚泥を啜るようにして生きてきた。世界の肥溜めの中で、必死に息をした。ふとした瞬間に止まりかける心臓の鼓動を、毎日必死で動かし続けた。

 どんなに無様でも、滑稽でも――生きることにしがみ付き、執着して、耐え続けた人生だった。

 だが、そうしてただ、毎日必死に息をして、鼓動を続けることだけを目的とした毎日は――”人生”と言えるのだろうか。”生きた”と言えるのだろうか。

 空に手を伸ばすことも出来ず。地面に這いつくばるしかない虫けらは――”生きる”権利など、与えられて――

『――ディオルテ』

「――!」

 自分の人生に絶望して、みっともなく膝を折りそうになった時、脳裏に響いたのは、いつか聞いた、女神の声。

『大陸古語で――現代語に直すならば、そうね……<勇敢な守り人>というところかしら。勇気をもって声を上げ、己の運命を切り開いたお前にふさわしい名前だわ』

 きっとあれは、人間の世界に紛れ込んでしまった女神なのだろうと思うような、美しく、強く、気高い少女。

『お前は、お前が大切だと思った者を、己の手で守れるような男になりなさい』

(――己の、手、で……)

 黒く塗りつぶされた空から目を離し、己の手へと視線を落とす。

 そこに――長年親しんだ、冷たく重い鉄の枷は、無かった。

『もう二度と、この枷を着けることはないでしょう。だけど、この拳は、生涯、誰かを傷つけるためではなく――誰かを守るために振るうと、約束しなさい』

「――守るために……」

 ぽつり、と呟いた言葉は、冬の凍てつく空気に消える。

 ぎゅっと手を握り込む。

(――軽い)

 もう、ここに、枷はない。鎖も、ない。

 誰一人――少年の自由を阻害し、縛り付けることなど、出来ないのだ。

『いざとなれば、ディオもいる。炎が消えたときは――ごめんなさい、ディオ。覚悟を、して頂戴』

 少女に、力はなかった。

 剣の一つを振るうことも出来なければ、魔法を使うことすら出来ない。

 周囲を魔物の群れに取り囲まれた、絶体絶命の危機の中。身を守る術の一つも持たない少女は――

 ――声を震わすことすらなく、覚悟を決めて、少年を見つめた。

 きっと、あの瞬間――あの場にいた誰よりも、勇敢で、誰よりも強い、人だった。

「姫サン――」

 ――勇敢な守り人ディオルテ

 身に余る宝物を授けた少女を想い、熱く吐息を振るわせて再び空を仰いだ。

 先ほどまでは、絶望の象徴にしか思えない色をしたそれは――今は、世界で一番愛しい少女の髪を思わせる、心強い色に見えた。

(あぁ――夜で、よかった)

 奴隷小屋から焦がれ続けた空は、いつも真っ青な、雲一つない快晴だった。

 いつか、死ぬときは、そんな綺麗な空の下で――と思っていたけれど。

 今は、そんな空よりも――この、何にも染まらぬ混じりけのない黒が、何より愛しい。

 強く、気高く、美しい人。その人を象徴するような色の空。

 ここで、彼女の大切な従者たちを守って獅子奮迅の働きをしたら――

 ――勇敢な守り人ディオルテという名にふさわしい男になれるだろうか。

「――……さぁ、来いよ」

 石畳をしっかりと踏みしめ、ゆっくりと近づく無数の脅威を前に、構えを取る。ぎゅっと剣を握り締め、前を見据える鳶色の瞳に、もう迷いはなかった。

 恐怖に震えていたはずの手も、足も、ぴたりと止まり――心は熱く、燃えていた。

 たとえ、目の前に、避けようのない死が迫っていたとしても、絶望に心を折ることだけは許されない。逃げ出すことも、膝を折って闘志を放棄することも、許されない。

 勇敢、と名付けてくれた主に、報いるために。

 守り人、と呼んでくれた少女の期待に、応えるために。

 最期の最期――鼓動を止めるその瞬間まで。

 何物にも屈しない、男であり続けること。

(――”生きて”る)

 数瞬の後に、命の灯を消す運命だったとしても――今、この時、この瞬間は、自分は間違いなく”生きて”いるのだ、と。

 こうして、自分が『守る』と決めた人を守り抜く――それこそが、自分の”人生”なのだ、と。

 今は、胸を張って、そう言える。

「ロロの旦那が帰ってくるまで――俺は、この人達を守り抜くって、決めたんだ!!!」

 咆哮に近い叫びが、喉から迸ると同時――

 ドッ

 目の前の魔物が、石畳を蹴る音がした。



 恐怖を煽るようにして、一匹ずつ飛び掛かってきた魔物を、順番に屠る。

 無心で剣を振り、ただただ必死に、己を息子と呼んでくれた淑女を背に庇って駆けた。

(ハハッ……懐かしいな。弱者をいたぶる様を楽しむ剣闘と同じだ)

 ザシュッと獣の命を屠った剣を引き抜いて心の中で叫ぶ。

 奴隷を弱者と侮り、猛獣をけしかけ、恐怖に震える様を嗤いたいのだろう。一斉にかかってこれば決着など一瞬なのに、ジリジリといたぶろうという魂胆が透けて見えて、胸糞の悪い見世物奴隷となっていた過去の記憶がよみがえる。

 だが、それは好都合だった。

 息が上がる。

 無数の小さな怪我が増えていく。

 肩で息をして、すぐ目の前に迫る死に、必死で抗う、無様な姿――

 ――この無様な姿をさらしているうちは、”生きて”いられる。

 後ろに大切な人たちを守って、”生きて”いられる。

「ぉぉあああああああ!!!」

 ふらふらになりながら、上がらなくなってきた腕を気合で振り抜き、獣の脳天へと刃を突き立てた。噴き出したどす黒い血液が、少年の面を汚す。

 そうして何匹かを屠ったところで、おそらく、大将がしびれを切らしたのだろう。

 ドッ

「「ガァアアアッ」」

「――――!」

 血を蹴る音とともに響いた咆哮は、複数。

 咄嗟に剣を振り抜いて――

「――――――ぁ――……」

 剣で屠れたのは、一匹だけ。

 別方向から突進してきた獣が、体当たりをするようにして腹の辺りを駆け抜けた。

 ドンッ……という微かな衝撃と共に――腹いっぱいに、灼熱が、広がる。

 痛みを感じることすらないのは――激痛に頭がマヒしてしまったのか。

 動きを止めた隙だらけの守護者を前に、バッと漆黒の影が飛び掛かってくる。

「っ……ぁあああああああああああああああああ!!!」

 それは、気合なのか――断末魔なのか。

 自分でもわからない咆哮を喉から迸らせて、少年は飛び掛かってくる影へと刃を叩きこんだ。

 ギャンッ……と悲鳴を上げて影は地面へと倒れ込み――

 ――――少年も又、腹に力を入れることが出来ずに、そのまま地へと頽れる。

「ディオ!!!」

 遠くで、淑女の悲痛な声が響いた気がした。

 少年の腹は魔物によって食い破られ、遠めに見ても、致命傷であることが見て取れた。

「グルルルルル……」「ガウッ」「ガウッ」

 血に飢えた獣が、涎を垂らしながら、少年へと殺到する。

「がぁああああああああああああああっ!!!!」

 動けぬ身体をいたぶるように、身体を端から食い破られていく感覚。

 少年の喉から、今度こそ断末魔に近い絶叫が響いた。

 想像を絶する激痛に、脳みそが馬鹿になったかと錯覚したとき――


 ――――助けてやろうか。


「――――――」

 少年の脳裏に、仄暗い声が、響いた。

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