第64話 【断章】名の刻まれた墓標

 さわさわと、穏やかな風が頬を撫でて、通り過ぎていく。

 最近の厳しい寒さなど忘れてしまったかのように、今日は穏やかな日差しが降り注ぐ、温かな午後。

 風に弄ばれる黒髪を抑えた後、カサ……とミレニアは手にした花束を静かに墓標の前に置いた。


 『勇敢な守り人 ディオルテ その誇り高き最期に惜しみない賞賛を与える』


 そんな文字が刻まれた墓標を前に、膝を折って瞳を閉じ、静かに黙祷を捧げる。花束にされているのは、墓の下で眠る少年の髪の色を思い起こさせるような、黄色い花。馴染みの庭師に頼んで、紅玉宮の庭園から選び抜き、見事な花束にしてもらった。

 ここに訪れるのは、今日で五日目。

 あの、背筋も凍るような恐ろしい夜の後、ミレニアは言葉通り、彼の亡骸を紅玉宮の片隅に埋葬した。

 皇城の一部でもあるそこに墓を作ること自体、前例に無いことだったが――それが元奴隷のものだとわかれば、ミレニアの兄たちは何を言い出すかわかったものではない。

 ゆえに、ミレニアはひっそりと、つつましやかに、ディオルテの存在を知っているミレニアとロロ、マクヴィー夫人とファボットだけで彼を弔い、あまり人目に付かない場所にこじんまりとした墓を作った。

 それから丸五日――ずっと、毎日欠かさず、花束を抱えて、ミレニアは忠義を尽くした束の間の従者の墓へと訪れている。

 黙祷を捧げ終わった後、ふ……と翡翠の瞳がゆっくりと開かれた。立ち上がり、背後を振り返る。

 そこには、いつも通り、寡黙な護衛兵がただ静かに、ひっそりと控えてくれていた。

「……お前も、黙祷を終えたかしら?」

「はい」

「そう。……では、行きましょうか」

 言葉少ない従者に、苦笑してから、ミレニアはふと墓標を振り返る。

「また、明日、来るわね」

 優しい声音は、穏やかな笑みを纏っていた。ロロは、静かに瞳を伏せる。

「……あと、二日――でしたか」

「えぇ。……お前は、墓参りの手法も知らなかったのね」

「……申し訳ありません」

「いいわ。お前の境遇を考えれば、仕方のないことだもの」

 頭を下げるロロに苦笑する。奴隷小屋と呼ばれる部屋から外出することすら難しかった彼が、誰かを弔うことなどなかっただろう。当時は自分一人が生きていくのに精いっぱいで、死者を弔う余裕など、あるはずもなかった。

 イラグエナム帝国における墓参りの手法は、死後一週間、毎日欠かさず故人を偲ぶ花を手向け、黙祷を捧げるのが一般的だ。

「一週間というのは、死出の旅路の果て、消滅の門にたどり着くまでの期間だとされているの。生前の行いを裁かれる場でもあるその旅路で、迷わぬように――少しでも心安らかに歩けるように、花を手向けて、旅の安全を祈る。それが、わが国の弔い方」

「……はい」

「死出の旅路は、生前恨みを買った者が襲ってくると言うけれど――その死を悼む者が多ければ多いほど、悼む気持ちが強ければ強いほど、死者は楽に旅路を行けると言われているわ。……ディオの死を悼んでくれる人の数は、残念ながら、少ない。だからせめて、たくさんの祈りを捧げて、旅路の応援をしてあげたい。――あと二日、彼が消滅の門にたどり着くその日まで、精一杯、ディオの安らかな旅路を祈るわ。お前も、祈ってあげて頂戴」

「……はい」

 ロロも、チラリと墓標へと目をやる。ミレニアがこの五日間で持ってきた花のほかに、毎日捧げられているであろう他の花束が目に入った。マクヴィー夫人と、ファボットが持ってきているものだろう。今や、墓標は花で埋もれんばかりになっている。

 きっと、ここまで死を惜しまれ、悼まれている少年は、力強く旅路を歩んで行けるはずだ。

「……きっと、ディオは、喜んでいると思います」

「え……?」

「――俺たち奴隷に、”墓”を建てる酔狂な人間は、いません」

「――――――」

 翡翠の瞳が、驚いたように見開かれた。

 ミレニアは、ロロが墓参りの手法を知らないことを、その境遇のせいだと思ったようだが、真実は少し異なる。

 ロロが奴隷小屋にいたころ、少なからず交流をした人間は、皆、奴隷ばかりだった。

 その彼らが、儚く命を散らすことも、あの地獄のような世界の肥溜めでは、珍しいことでも何でもなかった。

 仮に、彼らの死を悼みたいと思ったところで――参るべき墓など、この世のどこにも、無かったのだ。

「――”道具”の墓を建てる愚か者は、いませんから」

 ぽつり、と青年の声が虚しく響く。

 束の間の静寂がその場に降り、風が一陣、吹き抜けていった。

「姫が、墓を建ててくださった。それこそが、ディオを、道具ではなく人間として――従者として認め、扱ってくださるという何よりの証拠。きっと、その誇らしさに、花など無くても、祈りなど無くても、ディオは、天下無双の力を得て、死出の旅路を力強く歩いて行けるでしょう」

「――――……」

 静かに従者の言葉に耳を傾けるミレニアを前に、ロロは、一つ視線を落としてから――そっと、迷いながら、口を開く。

「――――俺にも」

「え……?」

 小さく小さくつぶやくような声に、ミレニアは思わず聞き返す。

 どこか苦しそうな顔をして――ロロは、瞳を合わせぬままに、口を開いた。

「俺にも――作って、くださいますか」

「ぇ――」

「俺が、貴女を守って死んだら――俺も、こうして、墓標に”名前”を刻み――”人間”として、弔ってもらえますか」

 ザァ――

 一段と強い風が吹き抜ける。

 ミレニアの、夜空の色をした長い髪が、ふわりと風に舞っていた。

 道具に墓を作る愚か者はいない。仮に作ったとて――そこに刻む、名前などないのだ。

「……ロロ。ルロシーク」

「……はい」

「どうしてそんなことを不安に思うのかしら。それとも、いつかと同じ、ディオへの対抗心?本当にお前は、変なところで嫉妬深いのね」

「そういう訳では……」

 口の中で呟くような反論は、明瞭としないままもごもごと曖昧に消え去った。

 いい歳をした男が、本気で不安に思っている様子に、ミレニアはクスリ、と笑みを漏らす。だいぶ苦笑と呼ばれる表情に近い笑み。

「そんなこと――言うまでもないことでしょう。お前は、私の一番の『特別』だと伝えたわ。万が一、そんなことになったとしたら、誰よりも手厚く葬り、毎日欠かさず通うわ」

「――――」

 ロロは一瞬目を見開いて――ホッとしたように、嬉しそうに口の端をほころばせる。

 とくん……とミレニアの胸が、小さく音を立てた。

 こんなことで――こんなことで、喜ぶのか。この、ミレニアへの絶対の隷属を表明する、唯一無二の専属護衛は。

「……一週間とは言わないわ。毎日、毎日、きっと、私の命が尽きる日まで、墓標に足を運ぶでしょう」

「……?」

 ロロは訝し気な表情で、小さく首を傾げる。それは、先ほど教えてもらった、死者の弔い方と、手法が異なる。

 ミレニアは苦笑して、紅の美しい瞳を見上げた。

「あら。約束を、忘れてしまったのかしら。――お前は、私が死ぬまで、死出の旅路の入り口で、ずぅっと待っていてくれるのでしょう?」

「――――!」

 ハッ……と小さく息を飲む音が聞こえた。

 ふ、とミレニアの苦笑の色が濃くなる。

「消滅の門にたどり着くまでの安寧を祈るのが、弔いの方法なのであれば――お前は、私が行くまで、消滅の門には旅立たないんですもの。ならば、毎日、お前がどんな亡者に襲われようと、無事に私を待ち続けていてくれることを祈らねばならないでしょう」

「姫――」

 ロロは無意識に首元へと手をやり、頭を垂れる。服の上からでも、美しい宝石を思い出せる硬さが、指へと伝わった。

「はい。――お待ちしております。必ず」

 ミレニアの旅路が、どんなものになるか、わからない。彼女が死したとき――どれだけの人が彼女の死を悼み、祈りを捧げてくれるか、わからない。

 だが、そんなことは、関係ない。

 彼女の旅路が、どれほど過酷なものになろうとも――自分が、傍で、守ればいい。どんな亡者が襲ってこようとも、少女の身体に、かすり傷一つ付けることは許さない。恐怖に顔を引きつらせることすら、許さない。

 彼女を生涯、死ぬまで――死んだ後も、守り続けること。

 それが、ロロの、生きる意味なのだから。

「でも、困ったわね。死ぬまで毎日墓に足を運ぶのは大変だわ」

「?」

「お前が死んだら、棺を埋葬せず、部屋に運び込ませようかしら」

「!?」

 悪戯っぽく笑ったミレニアの言葉に、ロロの瞳が驚きに見開かれる。

 良く見えるようになった紅玉の色に気分を良くしたように、瞳を覗き込みながらミレニアは笑う。

「この瞳を、傍から離すのが嫌なの。毎日、棺を覗き込んで、お前のことを思い出すわ。私室に入れたとしても、構わないでしょう?――お前は、私の物なのだから」

 クスクス、と笑いながら言われて、ロロは困惑する。

 ぎゅっと眉根を寄せた後――ぼそり、と呟いた。

「……異臭が凄まじくなると思うので、お勧めしません」

「お前は、本当にロマンの欠片もない男ね……」

 冗談の通じない彼らしい酷く現実的な切り返しに、呆れかえって半眼で呻く。

 サワサワと、心地の良い風が二人の間を吹き抜けて、柔らかな空気が頬を揺らしていった。

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