第48話 噛みしめる無力⑤

 ボッ!

 バチバチバチッ

「な――なんだっっ!!!?」

 急に部屋中に響いた小さな爆発音に、その場にいた全員が慌てて天井を見上げる。

 応接室に取り付けられた豪華なシャンデリアに灯された蝋燭の火が小爆発を起こし、周囲に火の粉をまき散らしていた。

「一体何が――」

 自然現象では起き得ぬ怪奇現象に、怪訝な声を上げた公子の声は、途中で途絶えた。

 ドッ

「公子様!」「ヴィンセント様!」

 同じく天井を見上げていたヴィンセント付きの二人の従者が、響いた物音に気付き、一瞬遅れて慌てた声を上げる。

 ――が、気づいたときにはもう遅い。

 黒い風になって一瞬で距離を詰めたロロは、あっという間にヴィンセントを床へと転がし、馬乗りになってその首を締めあげていた。

「っ……ガッ、は――」

「貴様――――殺してやる――――!」

 締め上げる、などという生易しい表現が正しいかはわからない。首の骨を素手で折ろうとしているのでは、と思うほどの力を前に、ヴィンセントの首はミシミシと不吉な音を響かせていた。

 滾る怒りを宿したロロの瞳は、灼熱の炎を灯している。マグマのようにふつふつと湧き出るそれは、無意識下の魔力暴走を引き起こすほどの怒りを表していた。

「こ、公子をお助けしろ!」「ヴィンセント様!」

 慌てて腰の剣を抜き放ち、近寄ろうとした従者を視界の端に認め、ギッと鋭い瞳で睨む。

 ゴォッ

「「ぅわあああ!!!」」

 従者の目の前に魔法による巨大な火柱が上がり、二人ともがたたらを踏んで立ち止まった。

「貴様――よくも、俺の、姫に――!」

 首を絞めたまま押し殺すように響く声は、怒りに震えている。

 ボッ バチッ バチチチッ

 ロロの感情に呼応するように、シャンデリアの明かりも、壁にかかった燭台も、暖炉にくべられた火も、全てが小さな爆発を繰り返していた。

「みっ、水の魔法使いを呼んで来い!至急だ!屋敷が火に包まれるぞ!」「急げ!」

 従者が叫びながら部屋を出ていくのを視界の端で認めながら、ぐぐぐぐっ……と腕にさらに力を入れる。空気を求めて、ヴィンセントが藻掻きながらロロの腕に爪を立てるが、怒りに支配されているロロには何も感じられなかった。

「ガ――――ぐ、ぅ――」

(殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる――!)

 苦しみ、白目をむいて、口の端から泡を吹き始めた男を前に、脳裏を埋め尽くすのはたった一つの言葉だけだった。

 頭上の蝋燭から舞い落ちる火の粉が降りかかってくることすら気にも留めず、下敷きにした男の命の灯をかき消すため、渾身の力を――

「っ……ロロ――ルロシーク!!!」

 響いた声に、ハッ、と我に返る。

「っ、ガハッ!げほっ、ごほっ……ぐ、ガハッ…」

 一瞬、手から力が抜けると、入ってきた新しい空気に喘いで、下敷きにしていた男が無様に咳き込み息を吹き返す。

「やめなさい……もう、いいわ。いいの。私は無事だから」

「姫――」

 マクヴィー夫人に支えられるようにして起き上がるミレニアを、茫然と見やる。

「大丈夫。少し、よろけてしまっただけよ。怪我もないわ。だから、放してやりなさい」

「ですがっ――!」

「命の危険にさらされたわけでもないのに、やり過ぎよ。――放しなさい、ルロシーク」

「っ……」

 ぐっと奥歯を噛みしめた後、ゆっくりと男を解放し、立ち上がる。魔法の炎は瞬時に立ち消え、バチバチと音を立てて炎をはじけさせていた蝋燭や暖炉も、ふっ……と嘘のように落ち着きを取り戻した。

「ガハッ……くそっ……覚えておけっ……!」

 喉を抑え、涙をにじませながら、かすれた声で捨て台詞を吐いて、ヴィンセントは逃げるように応接室を出て行った。

「……全く。捨て台詞にオリジナリティもないのかしら」

 軽く肩をすくめて嘯いたミレニアは、ゆっくりと立ちすくむロロへと近寄った。

「……申し訳ございません」

「ふふっ……何に対する謝罪かしら」

「俺の、せいで……姫の縁談が――」

 ぐっとロロの顔が苦悶に歪む。左頬に刻まれた奴隷紋が、醜く形を変えた。

 ここまでの騒ぎを起こしておいて、何事もなく縁談が進むとは思えない。一方的な婚約破棄も十分にあり得るだろう。

 ミレニアは小さく嘆息して、そっとその歪みを直すように、高い位置にあるロロの左頬に手を伸ばした。

「縁談など、どうでもいいのよ。――そもそも、お前にあんな酷いことをしようとする男との縁談など、こちらから願い下げだわ」

「っ……俺のことなど、捨て置けば、よかった――!それなのに、どうして、あんなっ……!」

 ひやりとした手が頬に優しく触れた途端、ロロの口から、慟哭にも似た言葉が溢れだす。

 切羽詰まった響きを持つそれを聞いても、ふわり、とミレニアは柔らかく笑みを作った。

「言ったでしょう。お前は、私の物だもの。私の許可なくベタベタと他者に触れられるなど、我慢がならないのよ。拳でも、足でも――勿論、鞭でも。覚えておきなさい」

「っ……!」

 息を詰めて顔を歪める男に微笑んで、優しく幼子を撫でるような手つきで頬を撫でる。

 最後にもう一度にこり、と安心させるように微笑んだ後、ミレニアは手を放して踵を返そうとした。

 反射的に、その細い手首をつかんで引き留める。

「……ロロ……?」

「もう――二度と、あんなことはしないと、誓ってください」

「え……?」

 絞り出すような悲痛な声に、きょとん、と翡翠の瞳が瞬く。

 ぐっと苦悶の表情を浮かべたまま、ロロは言葉を続ける。

「俺を背に庇って、前に出るなど――二度と、絶対に、するな――!」

「――――……」

「アンタを庇って、命を張るのが、俺の仕事だ。アンタに庇われてちゃ意味がない――!」

「ロロ……」

「心臓がいくつあっても足りない――っ……頼むから、アンタはいつも、危険から一番遠いところにいてくれっ……」

 青年の哀願にも近い懇願を前に、ふ、とミレニアは苦笑する。

「えぇ。そうね。わかったわ。――心配をかけて、ごめんなさい」

「っ……」

 初めて出逢った日から、変わらず、ミレニアは美しい。――まるで女神のように、ロロの人生に舞い降りて、生きる意味を、価値を、教えてくれた。

 ロロを背に庇い、毅然と年長の屈強な男に立ち向かう姿は、一瞬天女と見紛うほどに美しかったが――だが、それは、駄目だ。もしもそれで、万が一にも、命を散らすようなことがあったら、どうするというのか。

「頼みます――お願いですから――誓ってください……!」

 心の底から懇願する声は、微かに震えていた。今更ながらに、恐怖が襲ってくるのを感じる。

 もう、自分の人生において、ミレニアを失うことなど、決して受け入れることは出来ないのだから――


 ◆◆◆


 ロロが手首を放した後、ミレニアはマクヴィー夫人の元へと向かった。

「夫人。……いつもの荷物の中に、薬袋が入っていたはずよね。出してくれるかしら」

「!まさか、ミレニア様――どこかに、お怪我を!?」

 さぁっと夫人の顔が蒼くなる。すぅっとロロが纏う空気を尖らせ、ヴィンセントが去った部屋の扉へと視線をやるのがわかった。

「いいえ、大丈夫よ。私ではないわ」

 毒を食らわば皿まで、とでも言わんばかりに、今にもヴィンセントの後を追って部屋を飛び出しかねないロロに苦笑しながら、落ち着かせるような声音で言う。

 夫人から応急処置用の小さな薬袋を受け取ったミレニアは、くるりと踵を返し、迷うことなく足を進めた。

「姫!」

 ロロが、咎めるような声を上げるが、ミレニアはその声を無視して、歩みを進め――起き上がることも出来ず、ただじっと床に頽れている黄土色の髪色をした少年の元へと向かった。

「っ、は……てっきり……忘れられてると、思ってた……よ……」

「無理に喋らなくていいわ。骨が折れているかもしれない」

 言いながら、ミレニアは躊躇うことなく、少年が横たわっている傍らに座り込む。

「姫っ……!」

「オイオイ……綺麗なドレスと靴が、血と嘔吐物で汚れるぜ……?」

「黙って。……傷口を見せなさい」

 言いながら、ごろり、と少年の身体を仰向けに転がす。ジャラッ……と鎖が耳障りな音を立てるのに顔を顰めてから、服を捲って腹部を見ると、痛々しい青あざがあちこちに広がっていた。

「全身、打ち身がひどいわね。こっちの傷は、鞭で裂かれたのかしら。顔の火傷は――さっき、ロロが暴れたときの火の粉をかぶったせいね」

「はは……そうだな。さすが、伝説の剣闘奴隷は、レベルが桁違――っ、ぐ……!」

 ひと際痛々しい青あざを見つけ、触診するために手を触れると、少年は苦悶の声を上げた。

「この傷……今日だけではないでしょう。ちゃんと手当は受けていたの?」

「ハッ……そんなもの、あるわけない……放っときゃ治る……奴隷小屋でも、同じだ……」

「――……そう」

 ミレニアの漆黒の睫毛がすっと静かに伏せられ、陰を作る。

「ごめんなさい。お前を助けてあげたいけれど――国民の税金で暮らす今の私には、奴隷を買うお金の余裕はないの」

「!」

「せめて、私がこの家に入れれば、お前の待遇を良くするように働きかけることが出来るけれど――この分では、縁談も、どうなるかわかったものではないから」

 少年が、驚きに目を見開き、ミレニアを凝視する。

 ミレニアは、哀しそうな顔で微笑んで、そっと少年の頬に手を当てた。

「お前のような、年端もいかない子供が、こんな風に痛めつけられることがない世の中を作りたいと、思っていたのだけれど――……どうか、私の無力を、許して頂戴」

「――――……」

「……手当てをするわね」

 少年は、信じられないものを見るかのような瞳で、ミレニアを呆然と見上げた。

 美しい――美しい、少女が、そこにいた。

 造形の美しさではない。

 魂の輝きとでもいうべき美しさが、痛ましげに眉を寄せる表情にすら、漂っていた。

「俺を――”人間”として、扱って、くれる……のか……?」

「何を馬鹿なことを。……どこからどう見ても、人間でしょう。お前も、私も、皆同じ人間よ。今も奴隷小屋で繋がれている奴隷たちも、皆、等しく、同じ人間だわ」

「――――!」

 困ったように微かに笑んで告げられた言葉に、思わず息を飲む。ほんのりと、頬が上気するのがわかった。

「……さて。効果があるかはわからないけれど――おまじないを、するわね」

「ぇ……?」

 ミレニアは、小さな革の薬袋を軽く持ち上げると、大きな瞳を閉じて、そっと桜色の可憐な唇を寄せた。

「――――……」

 どこか神秘的な美しさを漂わせる横顔を前に、まるで、絵画の世界に迷い込んだかのような錯覚に陥る。

(――女神、だ……)

 ドキン ドキン

 運動した後でもないのに、心臓が、自己主張するように大きく脈打つ。頬が熱を持ち、目の前の美しい少女から、目を離せない。

「……さぁ。ここにある薬に、早く治るようにとおまじないを掛けたわ。気休めかもしれないけれど、受け取ってくれると嬉しいわね」

「そんな――」

 恐れ多いにも、ほどがある。思わず身を引く少年に構わず、ミレニアは革袋の中を漁った。

「まずは、一番酷いわき腹の打ち身からね。鎮痛剤をたっぷり塗った貼り薬を貼るから、服を持ち上げてもらえるかしら」

「!」

 少年は、驚いて息を詰めて――

 パシッ……

「そこまでです」

 薬を手にしたミレニアの細い手首を、黒衣の護衛兵がしっかりとつかんで引き留めていた。

「ロロ……?」

「……貴女は、本当に――奴隷を心酔させるのが、得意ですね」

「え……?」

「ですが、そこまでです。そこから先は、俺が、やります」

「何を――あっ!」

 ひょいっと手にした薬を取り上げられ、ミレニアが驚いた声を上げる。ロロはそのまま少年の傍らにしゃがみこんで患部を確認した。

「服を上げろ」

「……ほんと、不愛想だな、アンタ……」

 少年は少し呆れたような、ほっとしたような顔で、大人しくボロボロの服をまくり上げる。

 薬が貼られると同時に、すぐにヒヤリとした感触が皮膚を伝わり、思わず身体をすくめ――

(――あ、れ……?)

 ぱちくり、と瞳を何度も瞬く。呆然と、身体を起こして薬が貼られたわき腹を見る。

 ――身体を、起こせた。

(さっきまで、痛みで全然動けなかったのに……!)

 鎮痛剤が塗られた貼り薬と言っていたが、こんな即効性があるはずがない。あんなに痛かったわき腹から、痛みがすぅっと消えてくのを感じる。

 信じられないものを見る目で、呆然とミレニアを見上げるが、少女はその効果を体感していないせいか、少年に疑問符を投げ返すだけだった。

「効くだろう。――姫の、”おまじない”は」

「ぇ――あ……あぁ……」

 ぼそり、と呟かれた声に、生返事を返す。

「姫。……次は、どこですか。指示をもらえれば、俺がやります」

「ちょ――な、なんで――」

「姫は、自覚してください。――貴女は、俺達みたいな汚い存在に、気軽に触れていい存在じゃないんだ」

「!」

 ミレニアと少年は同時に息を飲み――ふ、と少年はすぐに相好を崩す。

「間違いない。――頼むよ、66番。姫サンの手を煩わせたくない。……アンタに手当てしてほしい」

「あぁ」

「ちょっと!私は納得していないわよ!どうして――」

 ミレニアの主張は聞き流しながら、ロロは革袋を探り、傷薬を取り出す。剣闘奴隷を生業にしていたころ、命に係わるせいで、誰に教えられたわけでもなかったが、最低限の応急処置は自分でできるようになっていった。薬の使い方も、最低限は理解している。

 軟膏タイプの傷薬を取り出し、あちこちに切り傷が見える顔に塗り込んでいくと、すぐに出血が止まり、傷が癒えていくのが分かった。

(姫はあまり信じていないようだが――まるで、魔法のような”おまじない”だな…)

 少年奴隷も、さすがにおかしいと気づいているのだろう。困惑しきった表情で目を白黒させている。

 しばらく何も言わずに黙々と応急手当をしていくと、不意に少年が口を開いた。

「……なぁ、66番」

「?」

「……アンタ――名前、あったのか」

 ぱちぱち、と紅玉の瞳が数度瞬く。

 少し言葉に迷ってから――ゆっくりと、口を開いた。

「……もらったんだ。――あの方に、拾っていただいたときに」

「……そうか」

 ふ、と口の端に笑みを刻んでから、少年はそっと瞳を閉じる。手当の終わった左腕で、目元を覆うようにしてから、ため息を吐いた。

 こぼれた吐息は、熱っぽく――少し、震えていた。

「――いいなぁ……羨ましいよ、本当に。――本当に」

「…………あぁ」

 少年の、消え入りそうな言葉に、薬を傷口に塗り込みながら、ロロは静かに応える。

「……俺は、幸運だった。――人生の運を、全部そこで使い果たしたと思っている」

「ハハッ……ずりぃや……」

 微かに湿って震える声には気づかないふりをして――

 ロロは、静かに、名前を持つことも許されぬ少年奴隷の手当てを続けて行った。

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