第49話 嚙みしめる無力⑥

 ようやく少年の傷の手当てが終わるころに、水の魔法使いらしき武装した兵士が数名が部屋になだれ込んできた。その中には、最初に少年を引き連れてきた家人の姿もあった。彼も、水の魔法使いだったのかもしれない。

 やってきた者たちはやや怯えるような顔をしていたが、ミレニアが騒ぎを起こしたことを詫び、今日はこのまま帰るつもりだと告げると、どこかホッとしたような顔を見せた。

 ヴィンセントは顔を見せるつもりはないのだろう。おそらくこのまま、数日後には公爵家から縁談破棄の申し入れがあるはずだ。本来、家格が下の家から破談を申し出ることなど出来ぬのが常識だが、ヴィンセントの気持ちとしては、多額の賠償金を支払ってでも必ず破棄したいと思っていることだろう。

(皇族と結んだ婚約の破棄ともなれば、かなりの高額の賠償金をもらえるでしょう。……これから先、何があっても、当座をしのげるお金が出来るのは、悪いことではないわ)

 何せミレニアは、いつギークによって干されるかわからない危うい身の上だ。あと一年と少しで皇族から除籍されるとわかっているため、今は何事もなく過ごせているが、婚約が破談になるということは、皇族として生き続けるということと同義だ。途端に風当たりが厳しくなる可能性も十分にあり得る。

 兄からの嫌がらせとして一番考えられるのは、紅玉宮の運営資金として与えられている予算減額だろう。人件費を削らざるを得なくなる。

 従者たちを急に解雇――としても、身分差を考えれば文句を言われるものではないが、ミレニアはなるべくそれを避けたかった。せめて、次の働き先を見つけるまでの猶予期間を設け、可能ならば色を付けて退職金を渡してやりたい。

 婚約破棄の賠償金は、法律上、ミレニア個人に支払われることになる。自分を疎んじている兄たちが会議で決める年間予算だけを頼りに日々を生きていかねばならないミレニアが自由にできる、唯一のまとまった金となるだろう。

 怪我の功名とはこういうものかもしれない――と思いながら、ミレニアは嘆息した。

「そこのお前。御者のファボットを呼んで、馬車を屋敷の前に着けさせなさい」

「は、はい!」

 やってきた適当な兵士に命じて、帰り支度を整えようとした時だった。

「ほら、立て!」

 ジャラッ

 耳障りな硬質音が響き、男の怒声が飛ぶ。視線をやると、少年奴隷を家人が鎖を引いて立ち上がらせているところだった。

「立って、歩け!商人との交渉が終わるまでは、まだお前はうちの奴隷なんだからな!」

「っ……!」

 部屋に入ってきたときは、理不尽も暴力もどこか達観して受け入れていたはずの鳶色の瞳に、何かの感情がよぎって揺れる。

 彼は一度、知ってしまった。――”人”として扱われる世界を。

 その世界を知った今――再び、”道具”として扱われる世界に戻ることは、恐怖であり、絶望であった。

「なぁアンタ!」

 家畜のごとく鎖を引かれるのに必死に抵抗し、少年が声を張り上げる。

「頼む!!!俺を、連れて行ってくれ!」

「な――!?貴様、何を――」

「金なんか要らない!言われたことは、なんでもする!小間使いでも、護衛でも、なんでもいい!どんなに過酷な仕事でも文句なんて絶対に言わない、なんでも必死に覚えるから――!」

 ぐっと強く首の鎖を引かれ、一瞬少年の声が途切れる。

 きゅ……とミレニアの眉が痛ましげに寄せられる。

「なぁ、頼むよっ……!俺にも、名前を、つけてくれ――っ……!」

 少年の悲痛な哀願の声を聴き、ミレニアの顔が苦悶に歪む。――少年の声に、涙の色が滲んでいた。

 年のころなら、ミレニアと大して変わらないであろう少年の、魂の叫びが少女の良心を苛む。

「ミレニア様……」

 気づかわし気なマクヴィー夫人の震える声が聞こえる。

 確か、マクヴィー夫人は、数年前に、幼い息子を一人、流行病でなくしたことがあると聞いている。同じ年頃の少年の涙ながらの訴えは、身につまされるものがあるのかもしれない。

 ぎゅぅっと瞳を閉じて、考える。

(何を迷っているの、ミレニア。……今、ここで、情に絆されたところで、本質的な解決にはなりはしないわ。聞き入れることは出来ないでしょう)

 同情で、哀れみで、奴隷など買い上げるものではない。

 そんなものを理由に買い上げるなら――他の全ての奴隷を買い上げなければならなくなる。

 人々の手本となるべき皇族たるもの、判断の基準は明確にせねばならない。――例外を作るならば、同様の事態が起きたとき、同じことを必ず実行せねばならない。それが不可能なら、例外など作ってはいけない。

(この少年は、ロロとは違う……ロロは、私が”気に入って”買い上げたんだもの――)

 思わず、隣に控える黒衣の美青年を見上げる。いつもと変わらない美しい紅玉の瞳が、ミレニアを静かに見つめていた。

 初めて出逢ったその瞬間から、吸い込まれるようにこの瞳の虜になった。毎日、毎日、一番近くでこの瞳を覗き込みたいと思った。それだけのために、女帝になるという野望を擲つことも厭わなかった。

 決して――同情、などという安い感情で買い上げたのではない。

「姫……」

 ロロもまた、少し気遣わしい声を上げる。ぎゅっとミレニアは拳を握り込んだ。

(第一、私にはもう、奴隷を買うための金はない……賠償金を得られることにホッとしているくらいの私が、どうしてこの少年を買うことが出来ると言うの)

「姫サン!!!頼むよ!!!お願いだっ……!」

「えぇいっ……さっさと歩かんか!」

 バシッと子気味良い音が響き、ビクッとミレニアは肩を震わせる。――頬か何かを張られた音だろうか。

 視線をさまよわせれば、マクヴィー夫人が蒼い顔で泣きそうな表情をしている。そんな顔すら、ミレニアの良心をさらに苛んだ。

「っ――――」

 泣きたいのはこっちだ。

 ミレニアは、ぐっと息を詰めて――

「――姫。……失礼します」

 ふわり……

 すぐ近くでゆるりと風が動いて、すっ……と騒がしい音が一瞬遠のく。

「ぇ――……」

「……何も、聞かなくていい。姫が心を痛める必要など、どこにもないのです」

「――――……」

 耳を覆う、優しい体温。男らしくごつごつとした大きな手が、すっぽりとミレニアの耳を、後ろから優しく塞いでいた。

「耳を塞いで、目を閉じて。――何もなかったことにすればいい。姫が気に病むことは、何もないのです」

「何も……なかった……?」

「はい。……誰も、貴女を責めたりはしません。これは――姫が生きる世界の外側。肥溜めで足掻く虫けらの声など、清廉な泉で生きる貴女が聞く必要はない」

 耳を塞いでいても聞こえるように長身を屈め、耳元で普段は寡黙な男が紡ぐ言葉は、低く、低く、心に響いた。

 ふ……と言われた通り、静かに瞳を閉じる。背中には、絶対の安心を約束する、温かな温もり。

 いつか――心が弱ったあの日に、彼が羽織るマントで、優しく身体を包んでもらったときのことが蘇る。

 このまま、瞳を閉じて、耳を塞いで、この幸せな温もりに包まれたまま生きていけたら――どんなに、幸せなことだろう。

 一瞬、そんな考えがよぎるが――

「――――放しなさい、ルロシーク」

 唇から洩れた言葉は、震えなど一つもない、凛とした強さを持っていた。

 少し戸惑う気配があった後――すっ、と掌が離れていく。

 ――温かな温もりが、離れていく。

 くるり、と後ろを振り返った時――ミレニアの瞳に、迷いはもう、なかった。

「お前は、そう言うけれど――だけど、私はもう、知ってしまったの」

「…………」

「私が生きていた世界の外側を――知って、しまったのよ」

 ふ……と少しだけ切なく、頬が緩む。笑みのような――泣き顔のような。

「……大丈夫。後悔だけはしないから」

 言い聞かせるようにつぶやく言葉は、従者へか――己へか。

 するり、といつもの癖で首元の紅玉をなぞった後、ミレニアはぐっと胸を張る。静かに息を吸い、そして声に力を乗せて、吐き出した。

「お待ちなさい。――その奴隷を、こちらに渡してもらいましょう」

 顔に浮かぶ悠然とした笑みは、”女帝”の微笑み。

(――あぁ……この方は、いつも、修羅の道を、進まれる……)

 眩しい物を見るかのように、ロロは軽く目を眇める。

 凛とした強さは、美しく――それでいて、危うく、儚くて。

 誰もを惹きつける魅力を持ちながら、その実、誰も寄せ付けない、孤高の女帝が、そこに君臨していた。


 ◆◆◆


 部屋の中から人が出ていき、バタバタと屋敷が慌ただしくなる気配に、ミレニアは小さく扇で顔を隠し、誰にも悟られぬようにため息を吐いた。緊張で、肩も頬も何もかもが強張っていたことは、誰にも気づかれなかっただろうか。

「姫サン……よ……よかったのか……?」

 恐る恐る、不安そうな顔で少年が尋ねる。ミレニアは、サッと顔を作って、ふわりと微笑んだ。

「何を言っているの。お前が、連れて行けと言ったのでしょう」

「で、でも――」

「情けないわね。お前はもう、第六皇女ミレニアの従者の一人なのよ。堂々と、胸を張りなさい」

「!」

 ハッと少年が息を飲み、目を丸くする。

 ミレニアは、安心させるように微笑みを湛え、優しい声音で告げた。

「お前が、暴力にも理不尽にも屈せず、勇気を出して声を上げたから、今があるわ。お前が自分で掴んだチャンスよ」

「――――」

「だけど、ごめんなさい。……お前に出してやれる給金は、本当にないと思いなさい。私が与えられるのは、スタートラインに立つための束の間の居場所だけ。そこで何を得て、何を成し、どんな人生を送るのか――それを決めるのはお前自身よ」

 ミレニアの言葉に、感極まって少年はぐっと奥歯を噛みしめる。

 彼女は、少年をもらい受けたが、給金を払えない以上、彼を縛るつもりはないと告げているのだ。無給でも良いと言うならば、手元に置いて、教育を施し、生きる力を与えてやるから――好きな時に、好きなところへ自分の意思で旅立って構わないと、そう、告げているのだ。

 少年は鳶色の瞳を揺らした後――先ほど、黒衣の護衛兵がしていた礼を、見よう見まねで真似し、ミレニアの前に膝をつく。

 ジャラリ、とまだ外されていない鎖が耳障りな音を立てた。

「俺は――生涯を、アンタに捧げると誓う。この恩は、一生、絶対に忘れない。アンタも、アンタの大切な者も、全部、全部、俺の身命を賭して必ず守ってみせる」

「ふふ……頼もしいこと」

「本気だ!そっ……そりゃ、66番には敵わないかもしれないけれど――俺だって、白布の中じゃ、一目置かれる戦績だったんだぜ!」

「そう。それは期待できるわね」

 クスクス、と扇の下で軽やかに笑うミレニアに、本気にされていない気配を感じて、少年はむっと軽く口をとがらせる。

 すると、少年に幾度となく暴力を振るっていた家人が、苦い顔で部屋に戻ってきた。手には、奴隷売買に関する契約書と、小さな鍵が握られている。

 ミレニアはそれを受け取り、金色の鍵を少年の首枷に差し込んだ。

「私は、従者にみっともない格好をさせる趣味はないわ。皇女ミレニアの従者として、美しい身だしなみと、洗練された振る舞いを身に着けなさい」

 カシャン……

 小さな音を立てて、金属が取り払われる。

「もう二度と、この枷を着けることはないでしょう。だけど、この拳は、生涯、誰かを傷つけるためではなく

――誰かを守るために振るうと、約束しなさい」

 カシャン……

 もう一つ音が鳴って、手枷が外された。

「お前はもう、自由よ。自分の足で、どこへでも行ける。……私と、たいして歳は変わらないでしょう。将来は希望に満ちていると信じて、力強く、歩いて行きなさい」

 カシャン……

 ――最後の足かせが、外された。

「……軽、い……」

 解放された両手を見下ろして呟く少年の声は、微かに湿って、震えている。

 それを見てミレニアは、ふわりと微笑んだ。

「専属護衛は、もう間に合っているから――お前には、身の回りのことを任せようかしら。その方が、どこへ行っても生きていける術を効率よく身に着けられるでしょう」

「どっ……どこへもいかない!俺は、生涯アンタに仕える!っ……給料なんて、本当に要らないんだ!アンタの傍に、ずっといさせてくれ!」

「ふふ……ロロとはまた違った形だけれど、元奴隷の者たちは皆、こんなにも献身的なのかしら」

「……姫が、そうさせているのです」

 寡黙な護衛兵は、苦みの混じった声で静かにつぶやく。

 ロロも、少年も、誰に買われても同じようになるわけではない。事実、少年はヴィンセントには忠義など欠片も持っていなかった。

(『主に足る振る舞いを心掛け、それを従者に認められてこそ、健全な主従関係が築ける』――か……)

 ミレニアが発した言葉を思い出し、ロロは少年を眺める。

 年若い少年は、この短い時間で、生涯使えるべき唯一の主人を見つけ出したらしい。きっと、彼もまた、ロロと同じく、天地がひっくり返っても決してミレニアを裏切らない、絶対の味方となって生涯彼女に尽くすのだろう。

(……あの様子だと、別の感情も持っていそうだが)

 ミレニアの傍にいたい、と必死に懇願する少年の頬は、ほんのりと淡く色づき、上気している。哀れにも、決して報われぬ、分不相応な初恋を経験してしまったのかもしれない。

「失礼します、ミレニア様。――その少年を、使用人見習いとして迎えるのであれば、教育は私に任せていただけないでしょうか」

 ミレニアと少年の会話に、すっとひざを折ってマクヴィー夫人が申し出る。ミレニアは、ぱちぱち、と一瞬目を見開いた後、優しく目尻を下げた。

「えぇ。……夫人の下で教育を受けられるなんて、贅沢者ね。ぜひ、厳しくお願いするわ」

「かしこまりました」

 もう一度しっかりと礼をした後、夫人は少年へと向き直る。眼鏡をかけ直し、まっすぐに少年の鳶色の瞳を見つめた。

「私が、手塩にかけて貴方を教育いたします。使用人としての仕事はもちろん――礼儀作法や言葉遣いまで、我がマクヴィー伯爵家の基準で、しっかりと矯正いたします。マクヴィー家の子と同じだけ、徹底的に。――今日から必死で励みなさい。恩人であるミレニア様の顔に、泥を塗りたくなければ」

 キリッとした表情と言葉は冷たさも感じるが、その漆黒の瞳には、優しさと慈しみが隠し切れずに滲んでいる。

「ってことは……俺は、アンタの息子同然、ってことか?」

「!」

 核心を突く質問をされ、マクヴィー夫人の瞳が微かに揺れる。幼くして亡くなった少年の影を見ていたことを悟られたかと、驚いたのだろう。

 しかし、少年は無邪気に笑った。

「じゃあ、アンタが母ちゃんになるのか。――へへっ……俺、”母ちゃん”の記憶は殆どないから、なんだかくすぐったいや」

「――っ…」

 奴隷紋を刻まれた頬で、無垢な笑みを浮かべる少年に、マクヴィー夫人が小さく息を詰める。

「……せめて、お母様、とお呼びなさい」

 絞り出した声は、少し、震えていた。ミレニアは、くすり、と小さく笑う。

「そういえば――お前に、名前をあげなければいけないわね」

 少年の顔を見て、彼の言葉を思い出し、思いついた言葉を口に載せる。

「――ディオルテ」

「!」

「どうかしら。大陸古語で――現代語に直すならば、そうね……<勇敢な守り人>というところかしら」

 鳶色の瞳が大きく見開かれたあと、ぎゅっと唇を引き結ぶ。

 じわじわと感動がこみ上げてきたのかもしれない。

「勇気をもって声を上げ、己の運命を切り開いたお前にふさわしい名前だわ。――仕事の内容なんて関係ない。たとえ使用人だったとしても、お前は、お前が大切だと思った者を、己の手で守れるような男になりなさい」

 母のように慕うマクヴィー夫人のことも、という言葉を心の中で付け足して、ミレニアは告げる。

「期待しているわよ、ディオルテ。――ディオ」

「っ……あり、がとう……ござい、ます……」

 再び膝をつき、首を垂れた少年――ディオルテの声は、今度こそしっかりと、涙に濡れていた。

 

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