第26話 奴隷解放②

 静寂が支配した部屋で、ミレニアは専属護衛の顔を見る。

 いつも感情を読ませない無表情な男は、心なしか目を見開いて、言葉を失ったままじっとこちらを見つめているばかりだった。

「……何とか言いなさいよ」

「――――……は……いえ……」

 苦笑して促すと、ぱちぱち、と数度、白に近いグレーの睫毛が風を送り、そっと視線をいつもの定位置へと下げる。

 再び、書斎が何とも言えぬ沈黙に支配された。

「……その、ようなこと――」

「出来るわけないって、言いたいのかしら?……そうね。とても難しいとは思うわ。だからこそ、とても頭をひねったのよ」

 ミレニアはそう言いながら、寝不足の疲れを取るように、大きな翡翠の瞳を閉じてこめかみのあたりをグリグリと乱暴にもみほぐす。美しい少女には似つかわしくない隈と、眉間に寄った皺が、彼女のこの成果を出すまでの苦難をこれ以上なく雄弁に物語っていた。

「奴隷を、解放したところで――受け入れ先は、ありません」

「そうね。第一、普通の暮らしを送ることさえ難しいでしょう。――宝石店に入るだけで、金を持っていたとしても袋叩きに遭う、だったかしら?」

「――――……」

 いつか発した自分の言葉を揶揄するようになぞられ、ロロは軽く顔を顰める。ミレニアは、困ったように笑ってから、もう一度手にした羊皮紙に視線を戻した。

「そう顔を顰めないで。お前には感謝しているわ。あの発言は、私に奴隷という身分の者たちの過酷さをしっかりと認識させた。単に解放したとて、その後の生活の方が何十倍も辛いものになると、それを理解させてくれたのだから」

「……そんな意図があったわけでは――」

「本当は、この目で奴隷たちの今の生活を見て、本人たちに話を聞きに行きたかったのだけれど。そう言うたびに、この三年――お前が、必死に、止めるから」

「当たり前です」

 ふっと小さく笑って言われた言葉に、ロロは呻くように口を開く。

「あそこは本来、姫のような存在が立ち入るような場所ではありません。喩えるならあれは、世の中の汚いものを全て詰め込んだ、泥だらけの、腐敗しきった底なし沼――生涯、姫のような方は、つま先一つ踏み入れるべき場所ではない。姫の綺麗な身体が、穢される」

「全く……相変わらず、大袈裟なのよ、お前は……」

「大袈裟などではありません」

 ミレニアの呆れ越えにも、ロロは真剣な顔で、ぎゅっと眉間に皺を寄せて反論する。

「姫は、綺麗すぎる。――優し、すぎる。そんな清らかな身体で、心で、あんな腐った場所に、赴いては行けません」

「お前、数年前まで自分がいた場所に対して、酷い言い様ね」

「自分がいた場所だからこそ、です。――あの世界の異常さは、誰よりもよく、わかっている」

 奴隷は口を利く道具。人扱いなどされることはなく、尊厳など持つことは許されない。支配階級に命令されれば、どんなに汚いことでも、過酷なことでも、逆らうことは許されない。

 今にも踏みつぶされそうな虫けらが、汚泥を啜って、必死に足掻いて息を続ける――そんな、場所だ。

 ミレニアのごとき崇高な存在は、本来、同じ空気を吸うことすら憚れるはずなのだ。

「……何か用があるなら、俺が行きます。話を聞きたい者がいれば、俺が訪ねます。――姫は、この清らかな紅玉宮から、一言、俺に命令するだけでいい。姫自身が、その身を穢す必要はないのです」

「はぁ……よくわかったわ。お前が、私を、何故かは知らないけれど、とんでもなく純粋無垢な存在だと思っていることが」

「……事実です」

 いつもは伏せられがちな瞳は、こういうときだけは物怖じ一つせず、しっかりとまっすぐミレニアを見つめてくるから、たちが悪い。どこまでも隷属体質を染み付かせたこの男は、もしかしてミレニアを女神か何かだと思っているのではないだろうか。――いや、思っているのだろう。心から、信じ込んでいるに違いない。

「全く……お前がそんな態度で現地に赴くことを拒むせいで、文献から調べることが多すぎて、予想以上に時間がかかってしまったわ。まぁ、時間がかかったとはいえ、色々と知ることが出来たのは良かったけれど――」

「奴隷について、何か聞きたいことがあれば、俺に尋ねればいい。姫が、睡眠時間を削るようなことは――」

「いいの。もう終わったことだわ」

 ロロが苦しそうに顔を顰めたのを見て、さえぎるように告げた後、再びこめかみを抑えて、ミレニアは瞳を閉じた。――失言だったかもしれない。ロロを責めるような言い方をしてしまった。

 主であるミレニアから話を切られては、それ以上言い募ることは出来ない。それでも、やはり最初の失言はロロを苦しめたのだろう。ぎゅっと眉間に皺を寄せて、美しい面を軽く伏せて悔しそうな顔をさせてしまった。

 確かに、リアルな奴隷の生活を知りたければ、ロロに尋ねれば早かったことは事実だ。書物や過去の文献を頼りに知る事実は、あくまで支配階級の者たちから見た客観的なものばかりで、渦中に放り込まれていたロロの実体験に基づく話とは比べ物にならない情報量だろう。いちいち文献を取り寄せ、読み込むよりも、一言尋ねればすぐに回答が返ってくるため、スピードは段違いだ。そんなことは、ロロに指摘されるまでもなくわかっている。

 だが、それでも――ミレニアは、ロロにそれを尋ねようとは思わなかった。

(だって――お前は、苦しそうな顔を、するじゃない)

 この三年、ふとした瞬間に、意図せず彼の過去に触れそうになるときは、何度もあった。それは、ミレニア自身の時もあったし、ガントやドゥドゥー夫人、マクヴィー夫人たちの時もあった。

 そのたびに、彼はすぅっと視線をいつもの位置に下げるのだ。そして、いつも寡黙なその口は、いつも以上に重たくなる。表情だけは、普段と変わらず能面のようにピクリとも動かないままだが、その視線の癖を見れば、彼が奴隷として生きていた時代のことを進んで他者に話したくはないのだろうということが察せられた。

 それもそうだろう。彼がまだこの宮に来て間もないころ――まだロロの癖に気づくことがなく、彼の気持ちの機微をうまく図ることが出来なかった時――不用意に彼の過去を聞いてしまったときに、彼がぽつりぽつりと慣れない敬語で話してくれた内容は、皇族として生きてきたミレニアには想像を絶する悲惨なものばかりだった。

 労働奴隷として派遣された先で、当たり前のように横行している迫害行為。派遣先の家主による心無い暴力行為で大怪我を負っても、治療一つ受けさせてもらうことはなく、『不良品』として差し戻される理不尽さ。命に係わる危機でもなければ、奴隷小屋に戻ってからも、薬師を呼んでもらえることは稀で、仮に本当の大怪我だったとしても、薬師が忙しければ、人気で金をよく稼ぐ奴隷から順番に治療が行われていく。――命の選別が、当たり前のように、無情に行われている世界。

 労働奴隷、見世物奴隷、と普段は仕事を分けられているが、それぞれの仕事が重なれば、分類に関係なく派遣されることもままある。剣闘奴隷の適当な相手役が居なければ、哀れな労働奴隷が丸腰状態で生贄のように闘技場に招集されることも珍しくはない。――かつてロロが「やれと言われればなんでもやる」と言っていたのは、そうした背景もあるのだろう。

 奴隷たちが、奴隷小屋が立ち並ぶ決められた一郭から出ることは禁止されており、従順で逃げる心配がないと判断された優秀な奴隷にだけ、滅多にないことだが休みを与えられることもあるらしい。剣闘で青布を身に着けるようになったあたりで、ロロはその権利を得たようだ。だが、奴隷小屋を出るときは枷と鎖を着けたままで、持たされる金も十分ではない。奴隷小屋で過ごすために必要な最低限の日用品や衣服などを少量買い付けて終わることがほとんどだったようだ。

 そうやって語られた彼の凄絶な過去は、きっと、ほんの一部だけで、本当はもっともっと悲惨なこともたくさんあったのだろう。ミレニアを神聖視しているロロのことだ。いつものように『汚い』と言って、『綺麗な』ミレニアの耳を穢すことを疎んじ、あえて伝えなかった事実もたくさんあるはずだ。

(そうして選抜されているものだけでも、聞いているだけで耳を塞ぎたくなるような内容を――過去を、進んで思い出したいはずがないものね……)

 だがそれでも、ロロはミレニアが睡眠を削るくらいなら、包み隠さず語ろうとするだろう。彼の献身は、誰が見ても行き過ぎている。

 己の心の傷が開き、絶え間なく血が流れ出し、その激痛に顔を顰めることになろうとも――ミレニアのため、という大義があれば、彼はそれを全てねじ伏せてしまうのだ。

 ――そんなことを、させたいわけでは、ない。

「お前と初めて出逢った日――お父様と、議論したの」

「?」

「見世物奴隷を無くして、奴隷商人の力を失わせるにはどうしたらよいか、って」

「――!」

「……まぁ、私のつたない理論は完全に論破されてしまって、結局はお父様の、剣闘奴隷を実践投入すると言う今の制度が、現状では最も理にかなっている、という話になってしまったのだけれど」

 苦笑しながら、ミレニアはひらり、と羊皮紙を軽くはためかせる。

「でもそれは、奴隷解放とは言えないでしょう。――私が目指したのは、奴隷が、”道具”ではなく、”人”として扱われる世界」

「そんな――」

「いいのよ。理想は、大きく描くものよ」

 ふふ、と小さく笑って、ミレニアは遠い日の記憶をたどる。父と議論を戦わせ、国策について夢中に話し合ったあの日。

 あの日以来、淑女としての教育を優先させたミレニアに、そんな風に心躍る瞬間は二度と訪れることはなかった。――あれが、”神童”ミレニアとしての最後の記憶。

 愛しい愛しい、偉大なる父との幸せな想い出。

「別に、問題ばかりでもないのよ?奴隷を”人”として扱うことが出来るなら、彼らは当然税金を納める必要がある。――今は、”道具”だから免除されているけれど、ね。まぁ、だから、労働奴隷なんていうものが重宝しているわけだけれど」

 彼らが人であれば、税金を含んだ賃金を一人一人に支払わなければならないが、彼らが道具である以上、奴隷商人たちに支払う”道具代”だけで、莫大な労働力を得ることが出来る。それこそが、労働奴隷の最大の魅力だ。

「つまり、国としては、有している奴隷の全てを”民”として扱うことで、莫大な税金を得ることが出来るのよ。何をするにも、国家を運営していくうえで、金は必要だもの。いつだって金策に奔走するのが君主の務め。――もし、奴隷解放が叶ったら、国家を運営していく皇族にとって、その魅力は計り知れない」

 くす、と笑って、国策が書かれた羊皮紙を、まるで貴婦人が取り扱う扇のように口元にあてる。笑みの形に緩んだ翡翠の瞳は、女傑と呼ぶにふさわしく、とても十三歳の少女とは思えなかった。

「最初は彼らの税金を、彼らの”保護者”と位置付けて奴隷商人から徴収するの。――さすがの彼らも、あっという間に破産だわ。貴族でもない鬱陶しい権力を、無理矢理黙らせることが出来る。これも、求心力を強めたい私たち皇族にとってはありがたい」

「――……」

「でも、それだけじゃ問題は解決しない。――いざ、解放した奴隷たちの行き場所がないの。いきなり増えた労働者。奴隷基準の賃金ではなく、”人”としての賃金を用意しなきゃいけないのに、仕事の量は変わらないわけだもの。――働き口が足りなくて、一気に求職者で国が溢れ返るわ。下手をしたら、奴隷だけではなく、今まで普通に暮らしていた者たちも、職を失ってしまう」

「……そうですね。……見世物奴隷は、より扱いに困るでしょう」

「性奴隷は、娼館に勤めさせた瞬間、それまでの娼婦たちの職を失わせそうだわ。あっという間に風紀も乱れる」

 ミレニアは苦い顔で呻く。

 性奴隷は、あくまで”見世物”奴隷である。客に直接性的なサービスをすることはない。

 昔は奴隷と非奴隷階級とが直接まぐわうことで高額な取引がされていたようだが、ある時、女の性奴隷が閨の中で、客である非奴隷階級の大切な部分を噛みちぎるというとんでもない事件が起きたのをきっかけに、奴隷と非奴隷階級のあいだに鉄格子を張り、鉄格子の奥で繰り広げられる性的な”見世物”に高額を支払う、という今の形式へと進化を遂げた。

 もともと、性奴隷は男女問わず、厳選された見目形の麗しい者ばかりだ。帝都の娼館でもなかなかお目にかかれないほどの美貌を持った彼ら彼女らの痴態を、触れることも出来ずにただ眺めるだけの見世物にしびれを切らし、莫大な金を払って”お気に入り”を愛人として買い上げる貴族は後を絶たない。

 それが、奴隷解放によって野に放たれ、普通の娼館で、普通の娼婦と変わらぬ価格で、触れることが出来る状態になれば――間違いなく、既存の娼婦や男娼たちの需要は塗り替わる。今まで、見世物は高額で手を出せなかった一般階級の市民まで、物珍しさに殺到することだろう。――帝都の風紀が、これ以上なく乱れることは請け合いだ。

「剣闘奴隷は、他の奴隷と違って、奴隷紋を隠せません。――結局、迫害の対象になると思います」

「そうでしょうね。労働奴隷のせいで職を追われる者が続出して不景気になり、性奴隷のせいで風紀が乱れて家庭も乱れれば、全ての元凶は奴隷のせいだ、と元奴隷階級に対して迫害が加速する。服で奴隷紋を隠せない剣闘奴隷は、散々な目に遭うでしょうね。法律で縛ったところで、あまり意味はなさそうだわ。……容易に想像が出来る」

 ロロは静かに目を伏せる。――他人事には思えないのだろう。

「だから、考えたのよ。今回の施策を」

 ひらひら、とミレニアは手にした羊皮紙を再びはためかせる。

 寝不足がたたって少し疲れた顔をした少女は、それでもやり遂げた満足感に、頬に緩やかな笑みを刻んでいた。

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