第25話 奴隷解放①

 ミレニアの嫁ぎ先が無事に決まったのが、彼女が十二歳になって半年くらいたった時のこと。それを見届けた途端、ほっとしたのか、まるで自分の役目はこれで終わりだとでも言わんばかりに、ギュンターは床に伏せるようになってしまった。

 床に伏せる現皇帝は、みるみる衰弱していき、今やかつて『侵略王』の異名を取った猛々しい男だったとは思えぬ風貌だ。ミレニアの十三歳の誕生日には、従者に支えられるようにして何とか祝福の言葉を告げるため寝台から起き上がったと言うが、紅玉宮まで移動することは出来ず、知らせが届いて急いでミレニア自身が父の部屋へと駆けつけたのだ。 

(姫も、最近は、時折暗い顔を見せるようになった――……)

 とっぷりと日が暮れ、明かりもまばらな紅玉宮を見回りながら、ロロは胸中で呟く。ミレニアが湯あみをし、寝間着へと着替えるこの時間、宮中に異常がないかを確かめるのが、ロロの日常だった。

 今日もまた、鋭く眼を光らせて異常がないかをしっかりと確認していく。

(今までは大人しかった姫の兄たちも、最近は露骨に絡んでくることが多い。……姫の上申とやらが、増えているせいだとは思うが)

 ミレニアは、焦っていた。

 ミレニアが上申した施策による税収の一部を支度金の補填にあてるという約束を交わしたのは、あくまで現皇帝のギュンターだ。彼が退けば、次に皇位につくのはミレニアを最も疎ましく思っていると有名なギークである。ロロがミレニアについて皇城を回るときも、常に厭味ったらしく小者のような言いがかりをつけては年端もいかぬ少女を侮蔑する視線を見せるあの男が、まともにミレニアの上申に付き合ってくれるとは思えない。

(いや……すでに、政治の実権は、殆どギークにあると言ってもいい。この一年ほどで姫の上申頻度が急に増えたのは、間違いなくギークに握りつぶされることが多くなったからだろう)

 毎日、苦手なダンスのレッスンや、全く気乗りしない貴族令嬢や婚約者とのお茶会などをこなしながら、暇を見てはギュンターの見舞いに訪れ、以前よりも入って来なくなった情報にやきもきしつつ、必死に今の政治情勢を紅玉宮から探る――そんな日々。

 昼間は、必死にギュンターとの約束を果たすため、立派な淑女になるための努力をする彼女が、それでも上申内容を考えるとしたら、夜しかない。

(今日も、遅くまで――)

 起きているのだろうか、と考えそうになったところで、小さく嘆息し、軽く頭を振る。

 すでに婚姻の約束はまとまった。支度金に関しても、無一文でもよいとカルディアス公爵家は表明している。上申とやらに、そこまで根を詰めなくても良いのでは、とミレニアが寝不足や疲労を感じさせぬよう従者に振舞う様を見ながら、いつも思っていた。

 だが、ロロは、主の成そうとしていることに意見するような立場にない。彼女が何をして、その結果、どんな危険に巻き込まれる可能性があろうと、その全てから守り切る。ただそれだけだ。

「俺に出来るのは、寝落ちた姫を寝台に運ぶことくらいだ」

 ぽつり、と呟く。

 専属護衛のロロの部屋からは、ミレニアの部屋がある棟の窓が目視できる位置にある。夜中、巡回当番になっていないとしても、異変があったらすぐに駆け付けられるように、との配慮だったが――今はそれが、別の意味で役に立っている。

 ミレニアが侍女を下がらせた後、こっそりと起きだして作業をするのは、寝室に併設された彼女の個人書斎だ。そこにはびっしりと壁中に天井から床まで書籍が隙間なく並び、父や兄たちと見劣りしないくらいの立派な書斎机がある。寝室から直通で通じる扉から抜け出し、ミレニアは夜遅くまでそこで時間を過ごすことが多い。

 誰にも知らせないのは、それを知られれば、夜食だのお茶だのと侍女がいつまでたっても休むことが出来ぬからだろう。ミレニアは上に立つ者の責務として、決して従者に要らぬ心配などかけるつもりもなかった。

 当然、気づいている者は多い。夜の巡回任務に就いたことのある兵士であれば、ほぼ全員が知っているはずだ。侍女たちとて、うっすらと気付いている者もいるだろう。

 だが、少女が頑なに認めず、毅然とした態度で日常を過ごすので、皆、静かに見て見ぬふりをする。護衛兵は、巡回の際は書斎の前をゆっくりと、手厚く警戒するくらいのことしかできない。侍女たちは、寝る前の一杯です、と言いながら、ポットの中に寝る前の一杯にしては多すぎる量の茶を入れて下がるくらいだ。頭の回転を良くするための片手で食べれる小さな甘味や軽食を添えて。

 そんな少女の書斎の窓から、夜半を過ぎてもいつまでも明かりが消えないならば、それはミレニアが明かりを消さぬまま寝落ちたことを意味している。それを認めれば、ロロはそっと部屋を抜け出し、書斎へと向かう。たいてい、ソファあたりで本を片手に寝落ちているミレニアを、隣の寝室まで運ぶのは、専属護衛のロロの役目だった。巡回の兵士たちも勝手知ったることなので、それを咎める者などいるはずもない。

 寝不足で顔色が悪い少女を、やるせない気持ちを抱きながら運ぶ――それだけが、従者の一人でしかないロロに出来る、たった一つの仕事だった。


 ◆◆◆


 コツ コツ

 念のため、控えめに小さく、扉をノックする。

「――失礼いたします」

 扉を開けて、告げる声は、なるべく小さく抑えて――

「あら。――どうしたの、お前。こんな時間に、まだ起きていたの?」

「――――……」

 いつまでたっても消えない明かりに、今日も寝落ちたのだろうと予想してやってきたのだが、珍しく中でミレニアは起きていた。いつものように、寝間着にしては上質なワンピースに薄手のショールを羽織っただけの軽装のまま、書斎机へと向かって何やら羽ペンを走らせているところだった。

「……いつまでも、明かりが消えませんので、様子を見に参りました」

「そう。心配をかけたわね。……でも、もう少し、作業をするわ。お前は下がって良いわよ」

 やってきたのがロロだと知って、ミレニアはすぐに視線を手元の書類へと落とし、再び何かを書きつけながらあっさりと告げる。

 その大人びた横顔は、とても十三歳の少女とは思えない。

「――――いえ。ご就寝まで、こちらに控えております」

 いつも通り表情一つ変えぬまま、当たり前のように部屋の隅に控えたロロに、ミレニアは初めて手を止めて顔を上げる。

「……お前、今日は巡回の当番ではないでしょう」

「はい」

「では、今は職務中ではないわ。早く休みなさい。明日は朝から勤務でしょう」

 少し呆れたような顔で言われて、ロロはすぃっと左下へと視線を下げた。

「……職務ではない時間帯、俺がどこで何をするかは、自由だと姫はおっしゃいました」

「?……えぇ。言ったわ」

「では、自由に致します。――今日は、ここに」

「――――――……」

 寡黙な従者の、有無を言わさぬ宣言に、これは何を言っても無駄だと悟り、ミレニアは小さく嘆息する。

 彼がこの紅玉宮に来て、早三年――何度か目にしたことのあるこれは、ロロの、奴隷根性全開モードだ。ミレニアのためなら死すらも厭わぬ、と高らかに恥ずかしげもなく真顔で宣言するこの状態の彼には、何を言ったところであまり意味がない。

(そもそも、不眠不休で勤務することも厭わない、なんて言っていた男だものね……普段は、曲がりなりにも規則に従って譲歩してくれている、と感謝すべきかしら)

 ミレニアはロロの説得を早々に諦めて、再び視線を書類へと落とす。今日中に進めてしまいたい案件があった。

 カリカリ……と羽ペンが羊皮紙を辿る微かな音だけが響く。

 しばし、集中をして――最後の一文を書き終え、ペンを置こうとして、初めてこの部屋がずっと無音だったことに気づいた。

「……ロロ」

「はい」

「……お前は、本当に余計なことを何も喋らないのね」

 苦笑して言うと、チラリ、と紅玉の瞳がミレニアを見た。

「……何か、話すべきことがありましたか」

「ふふっ……いいえ、お前らしいと思っただけよ」

 普通ならば、もう少し何か言うべきことがあるだろう。

 夜が遅いからと心配して見に来たであろうはずなのに、彼は何も言わず部屋の隅に控えるだけだ。まだ作業をすると言ってのけたミレニアに苦言を呈しても良かった。彼女がそこまで頑なに進めたがる案件とは何なのか、尋ねたってよいのだ。

 だが、この寡黙な専属護衛は、決して余計な一言など発しない。ミレニアがすると決めたことに異を唱えることも、それを邪魔することも、絶対にしない。

 そこに、是非などない。善悪もない。

 仮に今、ミレニアが考えているのが、国家転覆の悪行だったとしても、ロロにとっては関係がない。ミレニアが成したいならば、そこにロロの意思をはさむ余地などない。

 そう――仮に今書いているものが、ロロを他者へと売り払うための売約契約書類だったとしても――

 彼は、こうして、口一つ挟むことなく、顔色一つ変えることなく、眉一つ、頬一つ動かすことなく、静かに運命をただ受け入れるのだろう。

 信頼と呼ぶには重すぎるそれは、やはり、献身と呼ぶにふさわしい。

「ふぅ。さすがに少し、疲れたわ」

「お休みになりますか」

「えぇ。……いえ。少し、目が冴えてしまったわね。ねぇ、お前。少し雑談に付き合ってくれないかしら」

「――――……」

 ロロの瞳が、少し揺れたあと、すぃっと左下へと動く。――雑談、というのは、口下手な彼が最も苦手とする分野だ。主たるミレニアの要求を突っぱねることなどありえないが、すぐに承諾するのも憚られたのだろう。

 くすり、と不器用な従者のいつもの様子に笑いを漏らして、ミレニアはひらりと手元の羊皮紙を取った。

「ここ最近、ずっと考えていた施策をやっと形に出来たのよ。……本当は、他にも色々と手を着けたかった施策が別にあったのだけれど――これだけは、きっと、お父様がいらっしゃるうちでないと、決して実現はしないから」

「…………」

「――まぁ、正直、お父様でも、通してくれる可能性はかなり低いのだけれど」

 苦笑して、明かりに透かすようにして、かき上げた羊皮紙を眺める。

 ”神童”と呼ばれた少女の集大成が、そこにはあった。

「どんな施策か、気にならない?」

「……俺は、学がありません。政治は、特にわからない。聞いたとて――」

 案の定、予想通りの答えを返してくる面白みのない従者の言葉を最後まで聞かず、ミレニアは遮るようにして口を開く。

「――『奴隷解放』。それが、ここに書いてある施策の内容よ」

「――――――」

 しん……

 草木も眠る真夜中――書斎の中に、星の瞬く音すら掻き消えるほどの静寂が下りた。

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