第11話 紅の剣闘奴隷⑦
ゥォォォオオオオオオオオオオオオオオ―――!
闘技場は、地鳴りと錯覚するほどの熱狂の渦に飲み込まれ、人々が口々に歓声を上げていた。博打の胴元が興奮した様子でせわしなく観客席を駆け回り、手にした袋の中に、夥しい量の金貨がチャリンチャリンと追加されていく。
誰も彼もが、頬を紅潮させ、興奮を隠しきれぬ様で闘技場の覇者に歓声を送る――その中で、特別観覧席は対照的に、しぃん……と静まり返っていた。
「――さて。商人よ。言いたいことはあるか?」
「っ…………!」
勝負が始まる前、下卑た嗤いを浮かべていた奴隷商人は、ギュンターの冷ややかな声に、息を詰まらせ言葉を飲み込んだ。だらだらと額から、真夏の炎天下に長時間佇んでいたかのような膨大な汗を垂らしている。その顔は、言うまでもなく蒼白を通り越して、真っ白だ。
(す……すごい――……)
ミレニアは、闘技場の真ん中、審判に手を取られ、勝者として掲げられている男に魅入る。
「勝者――66番!!!」
ワァアアアアアアアアアア――!
地鳴りがもう一段階激しくなる。表情が乏しい、と言われていたその勝者も、さすがに余裕ではいられなかったのだろう。肩で息をしながら、軽く顔を顰めて息を整えている。
(ほ、本当に――人間――!?)
ミレニアは、今しがた眼下で繰り広げられた光景をもう一度脳裏に思い浮かべ、胸中で驚嘆の声を上げた。
試合開始の喇叭が鳴らされた途端、統制の取れた動きでロロに殺到したのは、三人。波状攻撃を仕掛けようと、その後ろから二人が突っ込んでいるところから予想するに、その五人が元から予定されていた対戦相手だったのだろう。
その五人を見て、ハッと慌てて残りの二人が追い縋る。総勢七人の波状攻撃の脅威に晒されたロロは、タンッと優雅ともいえる動きで地を蹴った。
波状攻撃を躱すために後ろへ――ではない。
自ら死地に飛び込むかのように、まっすぐに前へ。
「な――!」
想定していた襲撃ポイントとは異なるところで刃を交わすことになり、心の準備が出来ていなかった男は焦って武器を振り上げた。――が、遅かった。
神速とも呼べる、目にも止まらぬ速さの双剣が、駆け抜けざまに男の首を掻き切り、一瞬で絶命させる。
「――!?」
そのまま、余りの早業に驚愕している後ろから波状攻撃を仕掛けようとしていた次の男にスピードを殺さぬまま猛然と距離を詰め、ロロが剣をひらめかせると、首とわき腹からおびただしい量の血潮を噴き出し、声もなく絶命していった。
その時点で、”青布”はまだ二人とも残っていた。さすがに手練れだ。ギュンターの度重なる侵略戦争に何度も従軍した兵士と勝るとも劣らない歴戦の武者といって差し支えない彼らは、サッとお互いに視線を交わすだけで、すぐに体勢を立て直す。
軽く距離を取り、再び息を合わせて攻撃を仕掛けようとしたのだろう。腰に付けた青布がはためき――しかし、哀しいかな、残された”赤布”は、目にも止まらぬ速さで絶命した二人を前に、たたらを踏んで判断を迷った。
その隙を見逃すロロではない。青布の追撃が始まる前に、一人の赤布――最初の波状攻撃で統率の取れていた最後の一人の赤布――へと距離を詰め、一息で体中をなます斬りにした。
「ぐぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
およそ、鉄の手枷を着けられているとは思えぬ速さで体中に無数の傷をつけられた男は、前の二人と異なり、一瞬で絶命させてもらえなかった。突如襲い来た激痛と、紅に染まった視界に混乱し、耳をふさぎたくなるような絶叫を喉から迸らせる。
ぞっと聞く者の肝を冷やすような叫びに、本能的な恐怖を呼び起こされ、急遽参加させられた”赤布”二人が突っ込んでくる。
ちょうど――”青布”の統制の取れた追撃と重なるタイミングで。
「!?」
一人の青布の追撃の軌道上に急に出てきた赤布に、たたらを踏んで突進の勢いが落ちる。その隙に、ロロは絶叫を迸らせた男の背に回り、そのまま敵の胸を片方の剣で一息に貫いた。
絶叫が、断末魔へと変わる。
一番近くでそれを聞いているはずの男は、眉を顰めることすらなく、そのまま赤布に阻害されることなく突進を続けていたもう一方の青布に向かって、その肉の盾をかざした。
ドンッ……と衝撃が走り、一瞬硬直が生まれる。
突っ込んできた青布が手にしていたのは短槍だ。突進の勢いを生かし、突破力のあるその武器で、肉の盾ごとロロを貫こうとしたのだろう。その一突きでロロを絶命させることは叶わないだろうが、わずかでも負傷させることが出来たなら、本来ここで同時に突っ込んできたもう一人の青布の手によって、ロロは命を落としていたはずだった。
だが、その連携は叶わない。男はただ肉の塊に短槍を突き立て、その後ろにいるロロを狙う。
しかし、肉の盾を貫いたその先――槍は、何の手ごたえも示すことはなかった。
「!」
ロロは、肉の盾に青布が突っ込んできた瞬間に手を離し、飛び退った。相手の獲物は短槍――肉の盾を貫いて、その後ろのロロを脅かそうとするそれは、二歩も下がればその槍頭にとらえられることはない。
タンッと己の武器の一つからあっさりと手を放して距離を取ったロロは、しっかりと肉の盾に槍を突き刺してしまったがゆえに身動きが取れなくなった青布へと猛然と迫る。
「ガァ――!」
回り込むようにして無防備な首筋へと無情に刃を立てると、膝から男が崩れ落ちていく。首から剣を引き抜き、あたり一帯に血の雨を降らせていると、後ろから殺気が放たれた。
「――!」
咄嗟に身をひねるが、わずかに遅く、灼熱が左わき腹に走る。
振り返りざま、相手を見ることもなく剣を振るうと、幸運にも、ちょうど相手の首筋へと刃が吸い込まれるようにして駆け抜けていくところだった。
ドンッ……と鈍い音を立てて、首が刎ね飛ぶ。首から下だけの身体で仁王立ちするその腰には、赤い布が巻き付いていた。
その隙に、体勢を立て直した残った青布が、負傷したロロを狙って執拗に攻撃を繰り出す。
「くっ……!」
咄嗟にわき腹から生えている長剣を引き抜き、己の武器として転用する。ちぐはぐな長さとなった双剣を、それでもロロは器用に操り、だくだくと流れ出るわき腹の血液に褐色の顔を青ざめさせながら敵の猛攻を防いだ。
手に汗握る展開に、観衆たちは熱狂の渦に巻き込まれる。固唾を呑んで行方を見守る者、目を覆ってしまう者、檄を飛ばして声援を送る者――……
青布対黒布の戦いは、一進一退で譲らなかった。青布は風の魔法使いなのか、魔法で自分のスピードを上げているようだった。ただでさえ深手を負い神速の剣が鈍るロロに、魔法で速度ブーストをかけた状態で迫れば、さすがのロロも捌き切れない。
目で追うのがやっと、という尋常ではない速度で展開される剣技の応酬に、残された赤布は、下手に手を出すことが出来ず、佇むしかない。そんな赤布へと、口汚い怒号がいくつも飛んだ。
「――――っ!」
狙われたのは、やはり、左側――負傷し、使い慣れない長さの獲物を持った方だった。
ギィンッ――と耳障りな金属音を立て、一瞬の隙を突き、ロロが手にしていた長剣が宙に吹き飛ばされる。
そのまま、とどめを刺そうと翻った敵の剣を、何とか残った右手の剣で受けるも、両者の力は拮抗し、初めて戦いが硬直する。
(くそっ――!)
忍び寄る濃密な死の気配に、ロロは胸中で口汚く罵った。
両者が膠着すれば――佇んでいた赤布が、その手にした槍を持って、突っ込んでくるだろう。
一瞬、周囲の時の流れがスローモーションになったかのような錯覚に陥る。
視界の端で、案の定、視線を鋭くさせた赤布が、槍を構えてこちらに向かって突進してくるのが分かった。
(魔法さえ使えれば、こんな奴ら――!)
無意識に、いつものように魔力を練るが、普段ならばイメージ通りに空間に放たれるはずのそれは、手枷の内側に着けられた魔封石のせいで、川の流れを巨大な岩で無理やりせき止められたかのように、空中には何も描けない。
剣を押し返して逃げようとするも、ぐぐぐっ……と自分よりも大柄な相手に全体重を掛けられては難しい。ぶしゃっ……と負傷したわき腹からさらに鮮血が噴き出した。
青布は、赤布の槍頭がロロに到達するまで、ロロが身動き一つすることを許さないだろう。勝利を確信し、自分と同じく左頬に刻印された奴隷紋がニヤリと歪んだ。
一瞬、鼓膜を破りそうだった歓声が遠くなる。
無音に近い空間の中、壮絶な顔で赤布が突っ込んでくる。
槍頭が、目前に迫る。
頭蓋を貫くまで、あと――
(こんなところで――死んでっ……たまるか――!)
「ぁあああああああああああああああああああああ!!!!!」
走馬灯は、見えなかった。
ただ、スローになった無音の世界で、喉の奥から絶叫がほとばしる。
生への執着を知らしめるように叫ぶその声は――まるで、獣の咆哮。
感情の爆発と共に、魔力のリミッターが外れる。
魔法を制御することを覚えてからは、意図的に外すことは不可能と言われているそれを、間近に迫った濃密な死の香りを前に、無理矢理解き放つ。
巨大な岩で川の流れをせき止められているなら――岩ではせき止められぬくらいの濁流を流してやればいい。
どうせ、何もしなければ死ぬしかないのだ。
巨大な魔力の暴走に、脳みそが焼き切れたって、知ったことではない。――生き残れる可能性が、欠片でもあるならば。
(足掻け、足掻け、足掻け――!)
脳の太い血管の一つや二つ、ちぎれたのではないかと錯覚するほど、頭が灼熱に侵され――
チリッ……
気配は、一瞬――
槍頭が頭蓋を貫くまで、あと、指一本に迫った時、それは起きた。
ごぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ
「「――!?」」
うなじの毛が炙られ、逆立つような馴染んだ感覚の直後、視界が全て紅蓮へと染まる。
「「ガァアアアアアアアアアアアアア!!!」」
自分を中心に、地獄の業火を思わせる灼熱が、その赤い舌で闘技場を包み込んだ。
目の前にいた青布も、間近に迫っていた赤布も、為す術なく紅蓮の炎に飲み込まれ、生きたまま火達磨にされる恐怖と生き地獄に断末魔の叫びをあげる。
「くっ……!」
間近で発生した熱に己も炙られそうになり、ロロは顔を顰めてブーツの裏で敵の腹を蹴って距離を取る。
よろめく火達磨二つを前に一振りだけになった剣を持ち直し――最後の情けで、火を消そうともがいて地面に転がる二人に近寄り、剣を突き刺し、とどめを刺した。
ワァアアアアアアアアアアアア――!
割れんばかりの歓声が沸き起こり、勝者を宣言する審判の声はかき消されるほどだった――
「商人よ。どうしてアレが、国に献上されていない?」
「そ……れは……」
「あの、66番という奴隷――手枷を着けたまま、腕利きの七人を同時に相手をして、これほどの戦いをしたのだ。魔封石すら超越して、あの威力の炎をまき散らせる猛者など、過去の歴史をたどっても、存在するまい」
「っ……」
「戦っていた青布の実力も、今期献上された奴隷たちとは、比べるのも烏滸がましいほどの実力だった。――この『侵略王』の目はごまかせんぞ」
「く……!も、申し訳ございません……!お、おそらく、国へ献上する奴隷を選定する役目の人間が、勝手を働いて――」
「あくまでしらを切るつもりか?フン。見苦しい。……よい。残りはしかるべき場所で弁明を聞くとしよう。――連れていけ!」
「「はっ!!!」」
周囲の兵士たちがザッと敬礼し、平伏していた商人を引き立てていく。
「お、お待ちください!どうか、どうか命だけは――!」
どこまでも往生際の悪い言葉を吐く情けない男に、ミレニアは虫けらを見るような視線をくれた。――自業自得の極みだ。そもそも、皇族を相手に、事実を隠蔽してしまおうなどと考えること自体が不敬以外の何物でもない。
神の意思に逆らうつもりなら――天罰を食らうことも、同時に覚悟すべきだろう。
「……ふむ。ようやく、汚らわしい存在が排除され、ここも空気がきれいになった。――ミレニア、どうだった。初めて剣闘の感想は」
冷ややかな目で承認を見送った後、打って変わって目尻を下げたギュンターは優しく問いかける。
「びっくりして――言葉が出ないわ」
「不快だったか?……『くだらない』とお前が吐き捨てた見世物は」
ふ、と苦笑するギュンターに、ミレニアはふるふると首を横に振る。漆黒の髪が舞い踊るようにして揺れた。
「いいえ。……命のやり取りを楽しむのは、やっぱり悪趣味だと思うけれど――今まで、見たこともなかった”奴隷”が、ちゃんと、私たちと変わらず”生きて”いるということが分かった」
「……ふむ……?」
ぴくり、とギュンターの眉がもの言いたげに動く。――それは、望んでいる答えではなかったのだろう。
ミレニアは、さっとギュンターを振り返り、見上げた。意志の強い翡翠の瞳が、まっすぐに父を射抜く。
「お父様。一生のお願いがあるの」
「ほう。なんだ、ミレニア。可愛いお前の頼みとあらば、なんでも――」
「あの男を、私に頂戴」
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