第12話 終わりの始まり①

「――あの男を、私に頂戴」

 目尻を下げ切った父の言葉を遮り、ミレニアははっきりと言い切った。パチリ、とギュンターの瞳が驚きに瞬かれる。

 言い切ったミレニアが指さすのは――まぎれもなく、闘技場の真ん中で、勝者の宣告を受けている剣闘奴隷に他ならなかった。

「ミレニア……?それは、どういう――」

「あの男は、この後、国に献上されるのでしょう?そして、次の戦で前線に投入される。そうよね?」

「あぁ、そうだ。ここで奴隷を続けさせれば、商人はもちろん、貴族もどんどん腐敗する。あの強さ、間違いなく帝国一の猛者だろう。前線に投入すれば、国家のために獅子奮迅の働きをし、一騎当千の猛将として――」

「では、私がその猛将を買うわ。私の専属護衛として、あのロロと呼ばれる男を買い上げます」

「――――――」

 きっぱりと言い切ったミレニアにギュンターはこれ以上なく眼を見開き、絶句する。

 それは、いついかなる時も聡明で、常に心に皇族の誇りを抱く少女とは思えぬ申し出だった。

「ミレニア――自分が何を言っているか、わかっているのか?」

「わかっているわ。……私は皇族。自由に使えるお金なんてない。私が使えるのは、全て国民から得た税金だから――……それでも、私、諦められないの」

 ふ……とミレニアの長い睫毛が物憂げに伏せられる。脳裏には、どこか虚ろな光を宿した美しい紅玉の双眸が浮かんでいた。

 あの、檻の中で世の中の理不尽を全て受け入れるという達観した瞳が、剣闘の最中、苛烈な光を宿していた。今を生きるため、生に執着し、これ以上ない生命力を放っていた。

 それは――ミレニアの心を、これ以上なく強く、強く、惹きつけた。

「だからせめて、今まで、お父様やお兄様、家臣、貴族たちからもらったもので、手放せるものは全て手放すわ。ドレスも、宝石も、家具も、全てお金に変える」

「ミレニア……」

「きっとそれでは足りないでしょうから――後払いになってしまうけれど、これから必ず、公衆浴場以上に何か国家の偉業となるような施策を成功させて、国家の発展に寄与するものを生み出すわ。その事業が成れば、その税収のうちの何割かを、あの奴隷買い上げの金額補填にあてることを許して下さらない?今日のところは、立て替えていただくことになってしまうけれど――」

「待て、ミレニア。そもそも――」

「そんな、成功するかどうか保証のないものを当てにするのは許さないと言うのなら――そうね。どこか、有力な貴族と婚約を結ぶわ。私の婚姻には、支度金が用意されるでしょう。その支度金を全て、あの奴隷の買い上げ金に補填します」

「ミリィ!お前、何を言って――!」

 ガタンっとギュンターが椅子を蹴って立ち上がる。握られた拳はブルブルと震え、その面は色を失っていた。

 ミレニアはそっと瞳を伏せ、静かに頭を下げる。

「ごめんなさい、お父様。――私、本気よ。どうしても、諦められないの。……あの奴隷が、欲しい」

「っ――――!」

「皇族として許されないというなら――婚約など待たず、私のどこか貴族の養子にでもしてしまってくださいな。私は、今日、この日から、必ずあの奴隷を傍に置きたいの。――絶対に嫌だと言っていた結婚でも何でもするわ。私を私でいさせてくれた、皇族という身分すら放り出す」

 昔から、強烈に、父に憧れていた。――どうしてこの国は、女帝という形で、自分が皇帝の座に就くことが出来ぬのかと、心の底でずっと悔しく思っていた。

 幼いころから、貪欲に知識を集め、十二人もいる兄たちの誰よりも賢く、優秀な統治者たりえるのだと内外に示し続けた。「男でさえあれば……」と嘆く周囲の声を聴きながら、聞き分けのいい少女を演じるその裏で、いつか「国を思えば、やはり皇女ミレニアを女帝に」と言わせてみせると、毎日必死に努力し続けた。

 皇女として生まれた以上、通常であれば、国家の有力な貴族との婚姻を結ばされるのは避けられない運命だった。帝国貴族の令嬢たちと同じく、十五歳になればデビュタントを迎え、何の面白みも刺激もない無為な毎日を過ごすことになるのだろう。

 だから、十五歳になるまでが勝負だった。それまでに、この国の常識を変えなければならなかった。女であっても、政治に介入することに問題がないのだと、そこに性別など関係ないのだと――そう認めさせるために、必要なことは何でもした。

 貴族令嬢ならば必修だが、政治には関係のない歌も踊りも、教育課程から全て排除させた。そんな時間があったら、歴史を、地理を、帝王学を学びたかった。貴族たちの権力図を把握し、大陸の中で未だ帝国領となっていない小国に想いを馳せ、そこに住む人々の言葉を学び、貿易の最適化と属国にするべき順序を考えた。民衆の支持を得るために、積極的に民の暮らしがよくなるための施策を何度も上申した。新しく父が打ち出した施策があれば、その詳細を聞いて、どういう考えのもとにそれが施行されるに至ったのか、夜が明けるまで討論をしていたかった。

 女の癖に、と血を分けた十二人の兄たちには疎まれたが、親馬鹿を極めるギュンターにはその姿勢も好印象だった。何より、寵愛した妃に瓜二つの愛らしい娘を、どこの馬の骨とも知らぬ男に嫁がせることなど、考えたくもなかったのだろう。結婚したくないのならそれでも良い、と父は何度も優しく頭を撫でてくれた。

 それを逆手に取り、ミレニアは必死に努力を重ねてきた。

 肌の色も、瞳の色も、皇族らしからぬ自分が、皇族として生きるためには、どんな努力も苦ではなかった。聞き分けの良い優秀な子供を演じ、誰もが認め、褒めたたえる少女になるよう努めてきた。

 だが――その、全てを投げ出してでも。

「どうして、と言われるとわからないの。でも、私――あの男を前にしたとき、悟ったの。私は、あの男が欲しい。……あの冷たい鉄格子の中で、枷につながれて人生を終わらせることなど、耐えられない。戦争に駆り出され、駒のように命を散らされるのも、嫌。――ううん。あの男が、奴隷として扱われることがそもそも嫌なの。二度と、誰にも、”口を利く道具”なんて言わせない」

「――――……」

「そのためなら、何でもするわ。お父様がおっしゃったのよ。――綺麗事、じゃないのでしょう」

 もう一度ギュンターを射抜いた視線は、凛とした強さを持っていた。

 ミレニアは知っていた。ギュンターは、今はミレニアを溺愛していて、ミレニアの言うことに異を唱えることはない。だが、それも十五のデビュタントを迎えるまでだろう。

 彼は、最後の最後、決してミレニアを女帝にすることなど承諾はしない。彼女の姉に当たる他の皇女たちをそうしたように、女として愛され、何不自由なく幸せに暮らせる嫁の貰い手を探すことが、ギュンターの仕事だと思っていたはずだ。それまでに子離れをしなければ……と思いつつ、いつまでも愛らしい娘に、目尻を下げて、その責務から逃げようとする娘を甘んじて見逃してきたにすぎない。

 それは、彼女がどんなに足掻こうと、その望みは永遠に叶わないと思っていたからだ。現実を受け要られられる年齢になるまでは、辛い現実をあえて突き付けずに幼い娘の好きにさせてやればいい、と考えていただけに過ぎない。

 誰よりも一番「お前が男であったなら……」と発言するのは、他でもないギュンターだったのだから。

(でも、その分、お父様は誰よりも――私が、女帝になるために努力をしていたことを、知っているはず)

 だからこそ、この交渉は誰よりギュンターこそが、真剣に考えてくれるはずだと踏んでいた。

「お前は生まれてこの方、ずっと聞き分けの良い子供だった」

「えぇ」

「一度教えたことは、まるで昔から熟知していたかのように丸暗記してしまう、天才的な頭脳。貴族の前では皇族らしく、一線を画した高貴なるものとしての振る舞いを徹底し――それでいて、兄や父の前では謙虚にふるまうそぶりを見せた」

「そうね」

「――それが、お前が成し遂げたいことにとって、一番の近道だったからだ。そのために、お前は”聞き分けの良い”子供を――”完璧な”子供を演じることを、至上の命題としてきた」

 ギュンターの言葉に、ふっ……と小さく吐息が漏れる。

 高慢な皇女よろしく高飛車な笑いへと変えようとしたそれは――どうにもうまく作れず、苦笑まじりの吐息にしかならなかった。

「さすがお父様。よくわかっていらっしゃるわ」

「……そのすべてを、無に帰すというのか。――たった一人の、取るに足らない奴隷のために」

 ギュンターの声は、低く、静かに響いた。

 ミレニアは、ふわり、と苦笑を深く刻み込む。 

「ロロ、よ。お父様。今日からあの男は私の物。”奴隷”だなんて、蔑まないでくださいな」

 どこか哀しそうな影を宿した翡翠の瞳に、ギュンターの方が顔を顰める。

「……理解が出来ん。他のものならば、喜んで差し出しただろう。可愛い愛娘の、生まれて初めての、心血を注いだ我儘だ。叶えてやれずして、何が皇帝か」

「ありがとう、お父様。――だから、お父様にお願いしているのよ。大好きな、敬愛する、偉大なお父様に」

 ギュンターの渋面は濃くなるばかりで、なかなか承諾してはもらえない。

 それもそうだろう。――皇族が、奴隷を傍に置くなど、長い帝国の歴史を顧みても例がない。皇族の威信にも関わるその我儘をおいそれと聞けるはずがなかった。

 だが、それでも――と、ミレニアは望んでいる。

 だから差し出したのだ。

 彼女が本気であることを示すために、彼女が差し出せる一番大きな覚悟を。

「……本当に、今までの生活を、願いを、全て諦めるのか」

「えぇ」

「どこにでもいる貴族の娘のように――歌を覚え、舞を踊り、楽器を奏でる、と?」

「お茶会のお作法も覚えなきゃね。ドレスや宝石や、貴族界隈のゴシップや――何が楽しいのかよくわからないけれど、ちゃんとそういう情報を取り入れて、小粋な会話を楽しめるようにするわ」

「支度金がない上に、奴隷連れでやってくる娘を娶りたいという貴族がいると思うか?」

「適当な奴隷なら問題でしょうけど――彼は、この闘技場の花形でしょう?剣闘が趣味の貴族はたくさんいるわ。ロロを手に入れられる、と聞いて喜ぶ酔狂な貴族もいるはずよ。……間違いなく、国家最強の武人だもの。それが、自分のお抱えになる上、剣闘仲間に対する優越感まで得られる。さらに、現皇帝が溺愛する娘――強固すぎる皇族とのコネクション付き、よ?少し頭を使える貴族なら、支度金を補って余りある価値を見出す者もいるでしょう」

「……全く……年頃の娘とは思えぬほど夢のない……」

 自分の結婚の価値を苦笑交じりに冷静に並べ立てる十歳児に、ギュンターは苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「大丈夫。私、お母さまに似て、美しい姫になって見せるわ。”第二の傾国”なのでしょう?――きっと、皇族にとって、最高の家と結婚して、子供を産み、国家のために尽くしますから。……だから、”陛下”。あなたの愛しい娘の、最初で最後の我儘を、どうか聞いてくださいな」

 すっ……とミレニアはスカートを軽く持ち上げ、帝国式の貴婦人の完璧な礼を取って見せる。

 強かな野心を隠したまま、『お父様』と甘い声で後ろをついてきた、未来の女傑はもういない。

 今、この時をもって、今までの”神童”ミレニアは消滅し――新しい、”第二の傾国”ミレニアが誕生する。

「――――……わかった。今の言葉、必ず真とせよ」

「はい。勿論ですわ、お父様」

 顔を上げて、ふわり、と微笑む顔に、後悔はない。

 ギュンターは、肺の中のすべての空気を吐き出すかのようにこれ見よがしに大きなため息を吐いた。

「お前がそんな聞き分けのない我儘娘になったのは、このたった数刻だ。あの男の何がお前をそんなに惹きつけたのだ?……顔か?確かに、奴隷紋を入れられているにもかかわらず、かなり整った顔をしてはいたが――」

「ふふっ……お父様ったら」

「では、剣闘の強さか?あの武は確かに比類ないものだが――」

 ふるふる、とミレニアは緩く頭を振る。

「私にも、わからないの。でも、あの男を初めて見たとき――光が、見えたわ」

「光……?」

「えぇ。小さな小さな、光の粒。私を誘うようにして、彼の元へ連れて行ってくれた。――幸運を運ぶ妖精かしら?」

 くすくす、と笑うミレニアに、ギュンターが何とも言えない顔をする。――この少女ほど、非科学的なものを信じない幼子はいなかった。それが、”妖精”などという言葉を口にしたことが、心底奇妙だったのだろう。

「その光に導かれて――あの男と、出逢って。……まるで、縫い留められたように、あの男の前から離れられなかった。理屈ではなく、感情で、何もかもを捨てても、この男をこの鉄格子から解放したいと――もっと傍に来てほしいと、あの吸い込まれるような赤い瞳をずっとずっと見ていたいと、強く強く思ったのよ。……妖精に操られでもしたのかしらね?」

「……もしそうならば、私はその妖精とやらを叩き斬ってやろう。娘をたぶらかした元凶だ」

「あら、怖い。……でも、私は、とても嬉しいわ。あの光が、ひどく非科学的なものでも関係ない。何か不可思議な力に操られた結果だったとしても――あの男が、手に入るんですもの。感謝したいくらいよ」

 十年――他のものを全てそぎ落としてでも必ず手に入れると努力してきたその月日を、あっさりと手放したとしても、微塵も後悔などしていないように。

 ミレニアは、ひどく晴れ晴れとした顔を見せ、ギュンターへと微笑んだのだった。

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