第2話
和正はあんなものを見たせいで食欲がなかった。
和正は関宿城にやって来た。
関宿城は、千葉県野田市関宿三軒家にあった日本の城である。室町時代に簗田満助または簗田成助によって築かれたとされ、以降簗田氏嫡流の関宿簗田家の居城になったと伝わる。江戸時代には関宿藩の藩庁が置かれた。
江戸川をさえぎるような縄張りを持っていた。利根川水系等の要地であり、関東の水運を押さえる拠点であった。
戦国時代には関東の中心部における最重要拠点であった。関東の制圧を目論む北条氏康は「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評した。
戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられた(関宿合戦)。北条氏康・氏政・氏照父子が、上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城を、3度に渡り攻撃。最終的には北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点とした。
建造物としては(譜代大名クラスの城によくある事例だが)「御三階櫓」と呼ばれる天守状の櫓が代用として建築され、1671年に再建された際には江戸城の富士見櫓を模して再建されたという。現在千葉県立関宿城博物館に御三階櫓を模した模擬櫓があるが、この模擬櫓は1995年に建てられたもので、城跡とは無関係な場所に建てられている。藩政時代に御三階櫓が築かれた場所は河川改修により旧状をとどめていない。
河川改修および圃場整備のため遺構の保存状態は良くない。建造物に関しては、埋門と大手門と伝わる門が市内に、関宿城の城門と伝わる薬医門が逆井城に、それぞれ移築され現存する。
また、市内関宿台町にある元藩主久世家の菩提寺である実相寺の客殿は、文久2年(1862年)に坂下門外の変、また公武合体(または外交方針である航海遠略策)の失敗などの責任を問われ、失脚した前老中の久世広周が謹慎した関宿城本丸新御殿の一部を明治4年(1871年)に移築したものと伝わり、市の名所となっている。
簗田
簗田氏は桓武平氏の平惟茂あるいは平維盛の末裔であるともいわれ、後に子孫が下野国足利荘簗田郷に在住して足利氏に仕えたといわれている。また、足利氏の庶流である斯波氏に仕えて関東地方にあった同氏の所領の代官をしていたが、鎌倉府の勢力拡大に従ってその傘下に入る見返りに所領の押領を認められたとする説もある。 が 満助は長男ではなかったが、母親が名門那須氏の出身であったために簗田氏の家督を継いだという。これに対して、近年の研究では武蔵国太田荘にいた長男の直助の系統が嫡流で、下総国下河辺荘に移った次男の満助の系統は元々嫡流であったが、鎌倉公方の信頼を得た満助の系統が勢力を持って直助系に取って代わったとする。
満助は足利満兼とその子持氏に仕え、河内守を名乗って鎌倉公方奉公衆筆頭となる。満兼からは偏諱を賜り、満助を名乗る。以降晴助の代まで主君である歴代の鎌倉公方・古河公方から偏諱を賜った。足利持氏の長男・永寿王丸(後の古河公方足利成氏)の生母は簗田氏の出とされ、『古河公方系図』では春王丸(持氏の次男)の生母は「簗田河内守」の娘としている。
後に下河辺荘(下総国猿島郡・葛飾郡の一部)に所領を与えられたとされ、水海城(現在の茨城県古河市)はその根拠地であるといわれる。このため、簗田氏代々の当主からは「御家之鏡」と尊崇されたのである。
永享10年(1438年)、6代将軍・足利義教の命を受けた関東管領上杉憲実によって持氏が攻められると(永享の乱)、満助は一族郎党と共に抵抗するが敵わず、やがて子・持助に永寿王丸を託して落ち延びさせた後、良助らと共に自害したという。
簗田
簗田持助の子として誕生。古河公方・足利成氏から偏諱を賜り、成助を名乗る。
成氏とその子・政氏の2代にわたって仕えた。康正元年(1455年)に成氏が鎌倉を追われると、父・持助と共に簗田氏の根拠地である下河辺荘に近い下総国古河に迎え入れる。長禄元年(1457年)に関宿城を築城して城主となる。
晩年は一度は弟・政助に家督を譲って隠居するが、主君・足利政氏が嫡男・高基と争った時に、政助の嫡男・高助が高基に組したとして政助から廃嫡を言い渡されると、折りしも嫡男を失ったばかりの成助は高助を自分の養子として家督を継がせる事を決めたために、親子兄弟入り乱れての確執となったという。
永正9年(1512年)、死去。
和正は最近、空手を習い始めた。
型を本格的にマスターした。
型(形)とは、一人で演武する空手の練習形式である。各種の技を決まった順序で演武し、演武時間は型によって数十秒から数分間続く。修業者は型の練習を通じて、空手の基本的な技や姿勢を身につけるだけでなく、組手などへの実践応用に必要な空手独特の身体動作を身につけることができるとされる。
空手の型の数はすべて数えれば数十にもなり、すでに失伝した型もあれば、明治以降新たに創作された型(ピンアン等)もある。首里手、泊手、那覇手の各系統によって、習う型の種類には相違があり、また流派によっても相違がある。同じ型でも流派によって、また沖縄と本土によっても相違が存在する。
首里手の型には、ナイファンチ、バッサイ、クーサンクーなどがある。泊手の型には、ナイファンチ、ワンシュー、ローハイなどがある。那覇手の型には、サンチン、セイサン、スーパーリンペイなどがある。
今日では型の試合も実施され、型の演武それ自体が一つの競技とされるに至っている。試合化によって、型の完成度が高まると期待される一方、勝敗を意識して、難易度の高い型を選ぶ、同じ型でもより見栄えのするように演武する弊害、いわゆる「華手(ハナディー)」の問題なども指摘されている。
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