2-2-5 新たな獣の痕跡

 辺りに広がっていた緊迫感のある空気が少しずつ霧散していき、全身にじっとりとまとわりついていた視線も少しずつ消えていく。

 重くのしかかってくるかのようだった空気もすっかり軽くなり、業獣と対峙していたときよりも呼吸がしやすくなったようにすら感じられた。

 一つ一つの感覚が、業獣がこの場から離れて姿を消したのだと物語っている。


「……くそ、逃げたか。意外と逃げ足が速いな」


 グルマンディーズに戻るよう指示を出しながら、燎良が悔しげにそういった。

 ぱっと見た印象では、力関係はグルマンディーズのほうが上に見えた。反撃を受けて逃してしまったが、もし反撃を受けなければあのままグルマンディーズが業獣を仕留めることに成功していただろう。

 いや、璃羽が狩人としての力に目覚めていれば、二人で協力して仕留められていたかもしれない。仕方ないとはいえ、自分の無力さが恨めしい。


(……私が、狩人の力にさえ目覚めていれば……もしかしたら……)


 もしかしたら、逃がすこともなかったかもしれないのに。

 想像してもどうにもならない『もしも』が璃羽の脳裏をぐるぐると巡って離れない。

 考えても何もならないそれを振り払うため、肺の中の空気を深く吐き出し、璃羽は苦笑いを浮かべた。


「……でも、得られたものもありますよ。ほら、今回の業獣の見た目とかを肉眼で見れたこととか」


 目撃情報自体は、すでに暮星協会のほうにも集まってきているだろう。

 だが、ただ目撃情報を耳にするのと実際に自分の目で業獣の姿を見ておくのとでは大きく違う。相手の姿を一度自分たちの目で見ておけば、より正確に捉えられる。

 より正確に業獣の姿を捉えられるようになっていれば――この先、仮に新たな業獣が現れたとしても、自分たちが狙っているのがどれなのか、見失わずに済む。


「だから、悪いことばかりではない……んじゃないでしょうか……なんて……」


 最初は自信を持って言葉を紡いでいたが、本当にそうだろうかという不安が璃羽の心の中で顔を出し、だんだんと勢いが失われていく。

 ちらりと燎良へ目線を向ければ、燎良の影の中にグルマンディーズの大きな身体が沈んでいくのが見えた。

 主である燎良は足元の影を見つめて何やら考えていたが、やがて璃羽へ視線を向け、小さく頷いた。


「……そうだな。確かに、業獣の姿を事前に見ておけたのはよかった。いきなり襲いかかってきてくれたおかげで、ある程度のダメージは入れられたしな。これで傷跡を目印にできる」


 そういって、燎良は一人で納得したかのように小さく頷いた。

 ああ、確かに言われてみればそうだ。外見を実際に己の目で見れたという点ばかりに意識が向いていたが、軽く交戦したおかげで傷跡という目印をつけることにも成功している。

 業獣もどこかで傷を癒そうとするだろうが、そのために人間へ襲いかかるだろうから――今度は襲撃回数の増加という情報が新たな目印になるだろう。


(……こうして考えてみると、業獣からの襲撃を受けたのは驚いたけど……悪いことばかりじゃなかったのかも?)


 そう考え、璃羽は安堵の息をつく。

 燎良も悔しそうな表情からいつもどおりの表情に戻し、唇を開く。


「とりあえず、さっきのことは先生にも伝えよう。さすがにこれは共有しておいたほうがいい情報だろうから――」

「燎良! 姫井さん!」


 璃羽のものでも、燎良のものでもない声が空気を強く震わせた。

 途中まで紡がれていた燎良の言葉が止まり、声が聞こえてきた方角へ視線を向ける。

 璃羽も燎良につられてそちらへ目を向けた。

 視界に映るのは青い塗料で塗装された車と――それを運転する有護の姿だ。


「先生」

「石楠先生!」


 二人同時に有護を呼ぶ。

 有護は運転している車を二人の傍で停めると、少し慌てたような様子でシートベルトを外し、車から降りてくる。

 車の窓からもなんとなく感じ取っていたが、車から降りてくると、有護が表情に焦りを滲ませているのがよくわかった。


「燎良、姫井さん、さっきこの辺りから業獣の気配を感じたんだけど……二人とも無事? なんともなかったかい?」


 なるほど。有護も今は前線から退いたといえ、狩人の一人だ。業獣の気配はよく覚えているだろうし、今も感じ取ることができるのだろう。

 璃羽が心の中で納得している間に、燎良が有護へ答える。


「見たことがない業獣に璃羽が襲撃されて、そのまま交戦した。けど、このとおり二人とも無事だ。協会から業獣の目撃情報が入ったタイミングでの出現だったから、あれが例の業獣で間違いないはず」


 燎良の報告を受けた瞬間、有護が大きく目を見開いた。

 彼の喉がわずかにひゅっと音をたてた直後、素早い動きで璃羽のほうを見る。

 あまりの勢いのよさに驚き、思わず璃羽の両肩がびくりと跳ねた。

 その動きを押し留めようとするかのように、がしりと有護の大きな手が璃羽の両肩を掴んだ。


「姫井さん、怪我はないんだよね!? 大丈夫!?」

「は、はい。このとおり傷一つありません。燎良先輩が守ってくれたので……」


 そう答えると、有護が安心したかのように深く息を吐いた。

 璃羽の両肩を掴んでいた手から力が抜け、そのままするりと離れていく。


「それならよかった……新しい狩人の芽が摘まれることがなくて……」


 心底安心したという声で呟いてから、有護は気を取り直すかのように息を吸い込んだ。

 吸って、吐いて――背筋をしゃんと伸ばせば、先ほど取り乱していたのが嘘だったかのように、普段どおりの有護の姿に戻っていた。


「いろいろ気になるし聞きたいこともあるけど、とりあえず乗って。詳しいことは協会に向かいながら聞かせてほしい」


 その言葉とともに、有護が車の扉を開く。

 燎良と一度顔を見合わせてから有護へ頷いてみせ、璃羽は車の後部座席に乗り込んだ。

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