2-2-4 新たな獣の痕跡

「璃羽!」


 燎良が鋭い声をあげる。

 彼が叫ぶように名を呼ぶのとほぼ同時に、璃羽も足元の地面を蹴って後ろへ大きく跳んだ。

 直後。


 ばくん、と。


 先ほどまで璃羽が立っていた地面から、巨大な獣の口が飛び出してきた。

 否、地面から飛び出してきたのではない。つい先ほどまで地面に落ちていた璃羽の影から飛び出してきたのだ。

 足元から璃羽を丸呑みにしようと飛び出してきたそれは、けれど飲み込む対象に逃げられ、勢いよく空を噛むだけで終わった。


「……ッな、何、これ……」


 数歩後ろに着地し、璃羽はついさっきまで立っていた場所に現れた獣の口を見つめた。

 唾液に濡れ、てらてらとした鋭い牙が並ぶ口だった。人間など簡単に飲み込んでしまえそうなほどに大きい獣の口だった。

 燎良がわずかでも気づくのが遅れていたら。

 璃羽の反応が少しでも遅れていたら――訪れなかった『もしも』を、あの牙が璃羽の身体を噛み砕いた瞬間を想像し、ぞわりとした恐怖が全身を走った。


 ――め、え、ぇええぇえぉおおぉお。

 

 低く、聞く者に不気味な恐怖を植えつける声がびりびりと空気を強く震わせた。

 ヤギの鳴き声のようにも聞こえるが、狼の遠吠えのようにも聞こえる咆哮。飛び出してきた獣の口が狼を連想させるものだっただけに、鳴き声とイメージが一致せず、それが余計に不気味に感じられた。

 ひゅ、と璃羽の喉が短く音をたて、呼吸がわずかに詰まる。

 璃羽も狩人になったとはいえ、こうして業獣と対峙するのはまだ二回目。はじめて業獣と出会った日のことを鮮明に思い出させ、そのときの恐怖が璃羽の身体を縛りつけようとした。


「グルマンディーズ!」

「!」


 だが、鋭く空気を裂いた燎良の声が、璃羽に忍び寄った恐怖を切り裂いた。

 燎良の呼び声に反応し、虎を思わせる姿をした、白い毛並みに黒い模様を持つ獣が――彼の相棒であるグルマンディーズが燎良の影から巨大な姿を現した。

 グルマンディーズが赤い目で獣の口を映したかと思えば、ぐありと大きく口を開く。

 そして、地面に潜って逃げようとする獣の口を逃さないとするかのように、その鼻先へ噛みついた。


 ――め、え、ぇええぇえぉおおぉお。


 所々が赤黒く汚れたグルマンディーズの牙が、相手の身体に強く食い込む。

 赤黒い液体が噛みついた箇所から溢れ出し、獣の口から大きな悲鳴があがった。

 今度は恐怖や悲痛さを感じさせるトーンの鳴き声が空気を震わせ、びりびりとした振動を璃羽や燎良の肌に伝えた。

 だが、相手が悲鳴をあげてもグルマンディーズが攻撃の手を緩めることはない。

 悲鳴に驚くどころか、逆に顎へ力を込めて、より深く牙を相手の身体に食い込ませていく。そして、力任せにぐいと引っ張り、影の中に隠れていた獣の身体を引きずり出した。


 影から引きずり出された獣は、巨大なヤギのような姿をしていた。

 だが、ヤギというにはあまりにも不自然だ。姿形はヤギに近いが、口元だけは狼のようだ。頭部には鋭利な光を放つ角が生えており、先端部分のみが赤黒く汚れている。上半身は黒、下半身は白い被毛で覆われており、グルマンディーズの牙から逃れようと暴れるたびに蹄がコンクリートの地面を叩いた。

 ヤギをベースに、一部分にのみ狼の身体のパーツを縫い合わせたような、歪で不気味な化け物――紫色の目をした、日の当たる世界ではまず目にしない巨大な獣。

 業獣。今回報告された敵が、そこにいた。


「……ずいぶんと好戦的な業獣だな。……これは、何人か食ったあとで確定になりそうだな」


 ヤギの業獣を睨みつけたまま、燎良が小さく呟いた。眉間にシワが寄り、険しい顔をする。

 璃羽は紫の目をした業獣を見つめたまま、朝に見たニュースをもう一度思い出す。

 確か、ニュースによれば連続して人が行方不明になっているそうだ――その行方不明者が、目の前の業獣に食われているのだとしたら。

 この獣は、すでに――数人の人間へ襲いかかり、腹の中に収めている。


「できれば協会から情報を得てからにしたかったけど……こうなったら仕方ないな」


 燎良が浅くため息をつく。

 だが、次の瞬間にはふっと表情を消し、グルマンディーズへちらりと目を向けた。


「グルマンディーズ。一切の手加減はしなくていい」


 ぴる、とグルマンディーズの耳が動く。


「食っていい」


 燎良がそう指示を出した途端、グルマンディーズがにんまりと笑ったように見えた。

 力任せに影から引き出した業獣をコンクリートに叩きつけ、鼻先から一度牙を離す。間髪入れずにぐありと再度大口を開け、今度は業獣の喉元を噛み切ろうと牙をむいた。

 だが、業獣もただ一方的にやられているわけではない。


 ――め、おぉおおぉお。


 ヤギのような狼の唸り声のような、奇妙な鳴き声をあげて業獣がグルマンディーズの身体を強く蹴りつけた。

 突然の反撃に今度こそ怯み、グルマンディーズがわずかに後ろへ下がる。

 業獣はその隙を見逃さず、素早く体勢を整えると、こちらに背を向けて走り出した。


「ッ追え! グルマンディーズ!」


 燎良がわずかに焦りを滲ませた声で叫んだ。

 グルマンディーズも相棒の指示に反応し、即座に遠ざかっていく業獣の背を追いかける。

 けれど、グルマンディーズが追いつくよりも早く業獣の姿は夕闇の中に溶け――見えなくなってしまった。

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