2-1-6 緑眼の主は噂を知る
ぴしゃりと調理準備室の扉が閉まり、廊下と室内が完全に隔てられる。
完全に二人きりになった室内で、燎良はどさりと椅子に座り、深く息を吐きだした。
「悪い、助かった。璃羽」
「いえ……。こちらこそ、いきなり飛び込んでしまい、すみませんでした……」
「いや、本当に助かった。お前が来なかったら怒鳴りつけてたかもしれない」
そういって、燎良は肺の中にある空気を全て吐き出そうとするかのように、もう一度深くため息をついた。
そのままの姿勢で片腕で目元を覆い、天井を仰ぐ。
燎良が女子生徒とどれくらい話していたのかは不明だが、璃羽が来るまでの間だけでどっと疲れたかのようだ。
いや、実際に疲れたのだろう。その証拠に、今の燎良からは普段の活力がほとんど感じられなかった。
苦笑いを浮かべながら、璃羽はここへ来る前に買ってきたパックのコーヒーを燎良へ差し出した。
「先輩、ああいうグイグイ来るタイプの女の子は苦手なんですか?」
「業獣の宿主になる人間はいろんなタイプの奴がいるから、人の好き嫌いはあまり気にしないようにしてたけど、今わかった。苦手だ」
こっちの話を少しは聞いてくれ……。
か細い声で呟く姿を見ていると、浮かべた苦笑いがますます色濃いものになってしまう。
有護に渡そうと思って買ったパックのお茶を机に置き、璃羽はいつも自分が座っている席へ腰を下ろした。
「けど、珍しいお客さんでしたね。先輩のお知り合いですか?」
再度、璃羽はあの女子生徒の姿を思い浮かべる。
可愛らしく華やかな印象のある、甘ったるさを感じさせる声で話す彼女。
もし、彼女と燎良が知り合いであるのなら、花理からの頼み事も達成しやすくなるのだが――。
「いいや。全く知らない奴だ」
燎良から返された言葉は、その可能性を否定するものだ。
「……ただ、最近よく姿を見せる。確か、透石友理葉とか……そういう名前だったはずだ」
「え、名前もご存知なんですか?」
「向こうが勝手に名乗ってきた。俺は一言も知りたいと言ってなかったし、こちらからも名乗ってない」
燎良の手がようやく動き、目元を覆っていた片腕をどかした。
璃羽から受け取ったパックコーヒーのストローを取り外し、袋を破って伸ばしてから、先端が鋭いほうを下にパックの飲み口に刺す。
疲れ切った様子の燎良を眺めながら、璃羽は先ほど彼が口にした名前を頭の中で復唱した。
(……先輩、透石友理葉って言ってたよね)
先ほど燎良が口にした名前は、璃羽が花理から聞いていた名前と同じ。
事前に聞いていた特徴とも一致するため、彼女が噂の女子生徒で間違いない。
考える璃羽の目の前で、燎良は無言でパックコーヒーを飲んでから、ことりと一旦机にそれを置いた。
「これでこの話は終わりだ。思い出すだけでも疲れてくる」
「あ、す、すみません」
「来客自体が珍しい場所だから、お前が気になるのも当然といえば当然だから気にするな。それよりも、今回の料理だが――」
これでこの話は終わりだと言わんばかりに、燎良が部活動――もとい、本来ここで行おうと思っていたことへ話題を変えた。
自身の荷物を探り、用意してきてくれた魔獣料理が入っている大きめのタッパーを取り出す。
続いて、使い捨てのフォークや紙皿も並べ、食事の準備をしてくれているのを眺めながら、璃羽も野菜ジュースのパックからストローを取り外して飲み口に刺した。
一口飲んでから燎良に手伝うと声をかけようと、パックを机に置く。
ぞわり。
瞬間、どこかから突き刺すような視線が璃羽を貫いた。
呼吸がわずかに詰まり、足元から全身にかけて悪寒が駆け抜けていく。
まるで業獣と出くわしたときのような感覚に、璃羽は反射的に周囲へ視線を向けた。
だが、璃羽が頭に思い浮かべた化け物の姿はどこにも見当たらない。調理準備室の中にも、窓の外から見える景色の中にもない。
見えるのは、いたっていつもどおりの――日常の景色だ。
(……気のせい……だったのかな)
気のせい?
いや、気のせいではない。確かにはっきりと感じた。
業獣に睨まれたときと同じ、身の危険を目の前にし、頭の中で警鐘が鳴り響くかのような感覚。
あの感覚を忘れるはずがない。間違えるはずもない。
――けれど、璃羽の視界にはあの視線と同じものを放つ相手はどこにも見当たらない。
「璃羽? どうした、いきなり周囲を警戒しだして」
「あっ、いえ、その……」
一人で首を捻っていたが、燎良に声をかけられてはっと我に返った。
燎良は不思議そうな様子でこちらを見つめている。タッパーから中身を紙皿に移そうとしていたところだったらしく、開かれたタッパーから食欲を誘う良い匂いが漂っていた。
「さっき、何か視線を……」
そこまで言葉を紡いだが、璃羽は途中で唇を閉ざした。
燎良の様子を見るに、どうも彼は先ほどの視線を感じていないように見えた。
彼は璃羽よりも先に狩人になっていた人間で、業獣と戦ったことがある回数も一度や二度ではない現役の狩人だ。そんな燎良が業獣の視線に気づかないなんてことはありえない。
「……いえ、やっぱりなんでもありません」
……気のせいだったのかもしれない。
早く自分も燎良と肩を並べて業獣を狩りたいと思っていたから、過敏になりすぎているのかもしれない。
そう思い、気のせいではなかったと叫ぶ内なる自分を抑え込む。
明らかに何かを言いかけて、途中でやめた璃羽に対し、燎良が訝しげに眉をひそめる。
しかし、璃羽がふわりと柔らかく笑顔を浮かべてみせれば、何か言いたげな顔をしつつも深く息を吐くだけに留めた。
「……なんでもないなら別にいい。今から温めるから、早く食べろよ」
「はーい。いつもありがとうございます、先輩」
笑顔を浮かべたまま感謝の言葉を紡ぐ。
燎良はまだ少し璃羽を見ていたが、やがて視線を外し、紙皿に移した料理を持って壁際に置かれている電子レンジと向き合った。
調理準備室に響く電子レンジを操作する音を聞きながら、璃羽は再度ちらりと窓の外へ視線を向ける。
「……本当に、気のせいだったのかな……」
とても小さな声で呟かれた言葉に、答える者は誰もいなかった。
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