7-7 姫井璃羽と《緑眼の獣》

「食べます」


 凛、と。

 璃羽の声が調理室の空気を震わせた。

 特別大きな声で告げたわけではない。だが、静まり返ったこの場には、普段どおりの声量でもしっかりと全員の耳に届いた。

 璃羽が出した答えを耳にした途端、燎良の指先がかすかに動く。


「……それで、後悔はないのか? お前が生み出した業獣はすでに狩られた。お前はお前が無意識のうちにしていたことの責任を取っただろ」


 それは、璃羽が業獣『緑眼』に立ち向かうと決めたとき、燎良と有護へ告げた言葉だ。

 自分が二匹目の業獣を生み出したのなら、今回の事件は璃羽が引き起こした事件でもある。

 業獣の襲撃を受けた被害者であると同時に、自分自身の中でくすぶっていた嫉妬心から目をそらし続け、その結果、業獣を生み出して多くの人を傷つけた加害者でもある――だからこそ、自分の手で自分が生み出した獣を狩り、己が無意識のうちにしでかしたことの責任を取らなくてはならないのだ、と。


 確かに最初はそうだった。加害者でもあるのに被害者ぶって燎良と有護の影に隠れ続けるのは、璃羽自身が一番許せないのだと、そう叫んで業獣と戦うことを選んだ。

 璃羽が生み出した二匹目の業獣を狩ることで責任を果たせるのであれば、燎良の言うように、璃羽はもう己がやったことの責任を果たしている。

 これ以上、業獣と狩人の世界へとどまり続ける理由はない――おそらくだが、燎良はそう言いたいのだろう。


「……確かに、私が最初に業獣と戦おうと思った理由はそれでした」


 ――でも、今はもう違う。

 今はもう、それだけではない。


「最初は自分がしたことの責任を果たすためでした。……でも、業獣は今回私と花理が生み出した『緑眼』以外にも、いろんな種類のがいるんですよね?」

「そうだな。人がいる限り、業獣は生まれ続けるといっても過言じゃない」

「……なら、業獣の被害を受ける人はこれから先も現れるということでもありますよね」


 確認するかのように問えば、燎良が静かに頷いてそれを肯定した。

 璃羽と花理が生み出した業獣は狩猟――もとい、討伐された。この先、業獣『緑眼』の被害を受ける人は現れない。

 だが、業獣は緑眼一匹ではない。この先も新たな業獣は誕生し、誰かが被害を受ける。


 その『誰か』が璃羽の友人や家族になる可能性もゼロではない。


「……私は、今回の事件で業獣という人を襲う化け物がいることを知りました。業獣を狩って、影で人を守ってくれている狩人と呼ばれる人たちがいることを知りました。たとえ記憶を消してもらったとしても、私がこちら側の世界を知ったという事実が消えるわけではありません」


 自分はもう、こちら側の世界を知った。

 業獣と狩人たちの世界を知って、足を踏み入れた。

 たとえ、今回の事件の記憶を消してもらったとしても――何かの拍子にそれが揺らぐかもしれない。


 何も知らなかった頃の璃羽には、もう戻れない。


「狩人になれる才能があるのなら、その才能を活かしたい。燎良先輩が私を守ってくれたように、今度は私が私の大切な人を陰ながら守りたい」


 自分がしたことの責任を取るためではなく、今度は己が大切に思う人を守るために。

 それを実行するために必要な才能が宿っているのなら、それを活かしたい――それが、考えた結果、璃羽が導き出した答えだ。

 真っ直ぐに燎良を見つめて答えを口に出したあと、璃羽はへなりと笑う。


「……あとは、自分が生み出した業獣を食べることで、嫉妬心を抱いていた自分自身をちゃんと受け入れたいっていう思いもあるんですけど、ね」


 璃羽が生み出した業獣『緑眼』の片割れは、璃羽が抱いていた嫉妬心から生まれた。

 けれど、宿主である璃羽はそのことに気づかないふりをし、目をそらし、自分は誰にも嫉妬していないと思い込んで――嫉妬心を抱いていた自分自身を否定し続けていた。

 だから、嫉妬から生まれた業獣を食べることで、己の中で燃えていた嫉妬心をきちんと受け入れたいとも思ったのだ。


「……覚悟はできてます。こちら側の世界に飛び込んで後悔することも、きっとないと思います」


 それでも、もし。

 もし、この先璃羽が己の選択を後悔するときがあれば。


「そのときは、燎良先輩。思いっきり私の頬を叩いてくれませんか?」


 面倒な役割を押しつけてしまうので、ちょっと申し訳ないんですけど。

 そう言葉を付け加え、璃羽は燎良へ苦笑いを浮かべる。

 対する燎良は無言で璃羽を見つめていたが――やがて、唇をわずかに持ち上げると、くつくつ肩を揺らして笑った。


「……ったく。本当にお前は俺の予想を超えてくるな、璃羽」


 狩人としての才能を持つ璃羽に、できれば狩人になってほしいと考えていた。

 だが、璃羽は元々一般人だ。今回の事件で世界の『裏側』に触れてしまっただけで、最終的に表の世界に帰るとばかり思っていた――業獣の存在をかなり恐れているように見えていたのもあり、そうするとばかり思っていた。

 ところがどうだ。狩人になるかどうか改めて選択を突きつければ、彼女はこちら側の世界へ来ることを選んだ。

 怖い思いをたくさんしただろうに。

 その恐怖を飲み込み、身近なところにいる人たちを守るために狩人になる道を選んだ。


 姫井璃羽は、燎良の気づかないうちに成長していた。

 ただ精神的に成長するだけでなく――狩人としても成長していた。

 この場にいる姫井璃羽という少女は、もう燎良が守るべき表側の世界に属する人間ではない。

 まだ生まれたてで、弱々しい――新たな狩人だ。


「……ああ。そのときは思いっきりひっぱたいてやるよ。お前が選んだ道なんだろって」


 にんまりと唇の端を持ち上げ、猫のように目を細め、燎良は璃羽へそう返事をした。

 璃羽が狩人としての道を選択するのであれば、自分はこの生まれたばかりの狩人を育てよう。

 その身に宿す業獣の力をコントロールできるように。

 一人前の狩人として、一人で狩りを行うことができるように。

 ――そして、立藤燎良という狩人の後継者として。


「これからもよろしく頼む、璃羽」

「こちらこそ。頼りにしてますからね、燎良先輩」


 短く言葉を交わし、二人で顔を見合わせて笑い合う。

 その後、璃羽は手に持っていたフォークで軽くステーキ肉を押さえ、ナイフで食べやすい大きさに切り分けてから口に運んだ。


 これまでどの肉でも味わえない、野性味のある力強い肉の味が璃羽の舌に広がる。

 固いように見えた肉は柔らかく、ナイフで簡単に切り分けたり噛み切ったりすることができる。一つ噛むたびに旨味と肉汁が溢れ、一口でもかなりの満足感を楽しめた。


 あのとき口にしたジャーキーとは異なる味だが、腹の底から力が湧いてくるような――そんな感覚がするのは同じ。

 けれど、あのときに食べたジャーキーよりもうんと美味しく感じるのは、きっとこれが新たな『姫井璃羽』になる味だからだ。


 自分自身が生み出した嫉妬の獣を食らったその日。

 自分自身が気づかないふりをしていた嫉妬心に気づき、受け入れたその日。

 姫井璃羽は、狩人になった。

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