7-6 姫井璃羽と《緑眼の獣》
「わ、あ……」
璃羽の唇から驚いたような、ぽかんとしたような声がこぼれた。
料理人の一人が置いた皿の上には、瑞々しいレタスとトマトが中心に使われたサラダが盛り付けられている。
食べやすい大きさにカットされたレタスと、サイコロ状にカットされたトマト。そこにオリーブオイルがかけられ、シンプルながら見る者の食欲を駆り立てる力がある。
ずっと璃羽を蝕んでいる空腹感がより強くなり、口の中に分泌されてきた唾液をごくりと飲み込んだ。
今すぐにでも食べたいが、まだサラダしか並んでいない。
(メインになる料理が出てきてからのほうがいいよね)
あまり空腹が長引くと苦しさが増すが、サラダのみを先に食べるのもあまり好ましくない。
そう判断し、今すぐにでも食べたいと叫ぶ自分を必死になだめ、食べたい気持ちをぐっと堪える。
やがて、先ほどとは異なる料理人がこちらへ近づいてきて、サラダの隣に新たな料理を置いた。
「おまたせしました。こちら、メインディッシュの一つになります」
その言葉とともにテーブルへ置かれた大皿には、暖かな湯気を漂わせるステーキが載せられている。
分厚くカットされ、両面ともしっかり焼かれたステーキ肉。傍には付け合せのマッシュポテトと人参のグラッセが盛り付けられており、美しいブラウン色をしたソースが肉をより美味しそうに彩っていた。
続いて、朱鳥が作っていた揚げ焼きも新たに運ばれてきて、ステーキが載った皿の傍に置かれる。
真っ白な大皿に盛り付けられた業獣の揚げ焼きは、こんがりと狐色に揚がっている。璃羽や燎良たち食べる側の人間がスムーズに食べられるようにカットされており、美味しそうに火が通った断面が見える。
口に入れたらザクザクとした食感が楽しめるのだろうと見るだけでわかり、璃羽の空腹感がさらに強く刺激された。
「……燎良先輩」
これ、食べてもいいですか。
言葉には出さずに、璃羽は燎良へ目線で問いかける。
対する燎良はきょとんとした顔で璃羽を見つめていたが、何を言いたいのかピンときたのだろう。わずかに笑みを浮かべ、ナイフとフォークを指先で軽く叩いた。
「……!」
食べてもいいんだ。
そう判断し、璃羽はぱっとナイフとフォークへ手を伸ばした。
しかし、燎良が次の瞬間に見せた表情を見て、ナイフとフォークを持った手の動きはぴたりと止まった。
こちらを見る燎良の顔は、先ほど見せた笑顔から一変し――業獣と対峙していた際に見せていたものに近い真剣なものに移り変わっていた。
(……燎良先輩、どうしたんだろう)
さっきまでは笑顔を見せてくれていたのに。
なんともいえない緊張感を覚え、あれだけ璃羽を悩ませていた空腹感がわずかに遠ざかる。
表情にも緊張感を滲ませる璃羽の目線の先で、燎良の唇がゆっくりと動いた。
「食べても構わないが、璃羽。料理ができる前に俺が言ったこと、覚えてるか?」
「料理ができる前に、燎良先輩が言ってたこと……?」
燎良とはさまざまな言葉を交わしてきたが、なんだっただろうか――。
わずかに視線をさまよわせ、璃羽は己の記憶を探る。
一つ一つの記憶を思い出し、遡り、燎良が口にしていた言葉をなんとか頭の中にもう一度響かせていく。
『料理ができたら、お前に一つの問いをすると思う。それなりの覚悟をしておいてくれ』
「……あ……」
その中の一つ。朱鳥が料理を作り始める前に、燎良が言っていた言葉。
あのとき耳にした彼の声が脳裏で蘇り、璃羽の目が大きく見開かれた。
燎良はそのわずかな変化を見逃さず、静かに一つ頷いてから言葉を続ける。
「どうやらちゃんと覚えてくれてたようだな。よかった」
そう呟いた燎良へ、今度は璃羽が言葉を投げかける。
「……あの、燎良先輩。あのとき言ってた問いって……何ですか?」
あのときの話を出してきたのなら――燎良が言っていた問いかけがされるタイミングが今なのだろう。
わざわざ事前に言ってきたのだ、何か重要な問いであることは間違いない。
璃羽の表情だけでなく、声にも緊張が滲み出る。
何を問われるのか想像ができず、璃羽の中に疑問ばかりが生まれては膨れ上がっていく。
ほんのわずかな時間を置いたのち、燎良の唇から答えが紡がれた。
「姫井璃羽。お前はこれを食べるのか、食べないのか。それを選び、答えを聞かせてほしい」
これを――業獣を使った料理を食べるのか食べないのか選んでほしい、とは。
燎良の口から紡がれた言葉を前に、璃羽はぽかんとした顔をした。
璃羽は、もうすっかり食べる気でいた。燎良に許可を求めたのもそれが理由だし、何より食べないという選択肢そのものが頭の中になかった。
(……でも、燎良先輩がわざわざこんなことを聞いてくるのなら、何かあるんだ)
真っ直ぐに燎良を見つめながら、璃羽は次の言葉を待つ。
「お前ももうわかってると思うが、これは業獣の肉。狩人たちが食べる料理だ。……そして、これを口にするということは、本格的に狩人としての道を歩むことになるってことでもある」
「……でも、私、もうジャーキーを食べてますよ?」
業獣『緑眼』の狩りを手伝う際に味わったものを思い出す。
あれも業獣の肉を使った料理の一種だ。すでにあのジャーキーを食べているのだから、今さら改めて選択をする必要はないのではと思ってしまう。
首を傾げる璃羽へ、燎良が静かに首を左右に振る。
「あれぐらいの量、食べても何も変わらない。けど、さすがに一皿分の肉を食べれば、普通の人間から道を踏み外すことになる」
一度言葉を切り、燎良が続ける。
「前にも言っただろ。多くの人は業獣に喰われて終わるが、ほんの一握りの人間は業獣を従えて奴らの力も自由に使えるって」
確かに――璃羽が業獣も狩人も知らなかった頃、燎良はそのように説明してくれた。
そういう存在があるのだと受け入れていたが、よく考えれば狩人たちはどうやって業獣の力を手に入れるのかは考えていなかった。
……もしかして、いや、もしかしなくても。
「狩人の皆さんは、業獣の肉を食べることで力を手に入れている……んですか?」
狩人は狩人の力――業獣を従え、その力を自由に使うことができる。
狩人になることができる人間はほんの一握り。狩人になれる才能を持っている人間のみ。
そして、業獣の肉を使った料理を食べるか食べないか、選択してほしいという燎良の問い。
一つ一つの情報を璃羽の中で組み合わさっていき、一つの答えが導き出される。
業獣は普通の生き物ではない――肉に何か特別な力が宿っており、それを口にすることで狩人たちは力を手に入れているのではないか。
心に浮かんだ問いを燎良へぶつければ、燎良の首が縦にゆっくりと振られた。
「狩人になれる才能を持つ人間は、業獣の力を身につけることができる。肉を食べることでその力を身につけることができ、奴らの肉を食べ続けて一度身につけた力の強化やコントロールを行う。……つまり、狩人になった人間は定期的に業獣の肉を食べなければならない」
ああ、だから――燎良は改めて問いかけてきたのか。業獣の肉を食べるのか否か。
璃羽はすっかり食べるものだと思っていたが、業獣の肉を食べるということは本格的に狩人としての道を歩むということ。これまで璃羽が過ごしてきた『日常』を捨て、『非日常』の世界に飛び込むということだから。
一度、本格的に業獣と狩人たちが織りなす世界に飛び込めば――もう、後戻りはできない。
「一度狩人として覚醒すれば、お前がこれまで過ごしていた日常には戻れない。だから、よく考えて選んでほしい」
狩人としての道を選ぶのなら食べ、もし選ばないのであればナイフとフォークを置いてくれ。
「……」
付け加えられた燎良の声を心に刻み、璃羽はずらりと並んでいる料理を見つめる。
しんとした沈黙が場を支配し、誰もが璃羽がどの選択をするのか見守っている。
ほんの数分、けれど体感ではもっと長い時間が流れたかのような感覚。
並んでいる料理を見つめながら考えたのち――璃羽は燎良へ視線を戻し、ゆっくりと唇を開いた。
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