7-4 姫井璃羽と《緑眼の獣》

「はじめまして、お嬢さん。あたしは苺原朱鳥まいはら すとり。暮星協会に所属して、魔獣の肉を調理する役目を請け負っている。よろしく頼むよ」


「あ……は、はい。その……私は姫井璃羽といいます。燎良先輩とは業獣に襲われてたところを助けてもらう形で知り合って……その、今回の業獣の宿主の一人でした」


 よろしくお願いしますと言葉を添えて、おそるおそる差し出された手を握る。

 戸惑っている璃羽に対し、朱鳥は迷いのない様子で璃羽の手を握り返し、にんまりと笑顔で軽く上下に揺らした。

 朱鳥の目が興味深そうに煌めき、璃羽を頭の先から爪先までじっくりと観察する。


「へぇ? 今回の業獣、実は二匹いたと報告があったらしいが……君が宿主の一人だったのか。宿主だった人間がここに来るなんて珍しい」

「……えっ。そうなんですか?」

「ああ。多くの人間には業獣の存在は隠されている。宿主になっていた人間も例外ではない。自分が危険な化け物を生み出していたなんて知ったら、普通の人間は耐えられないだろう?」


 それは――冷静に考えてみたら、そうかもしれない。

 業獣と狩人たちの世界は、ほとんどの人間が知ることのない世界だ。

 璃羽は業獣に遭遇したから知ることになったが、もし業獣に襲われていなかったら――業獣『緑眼』の宿主になっていなかったら、今もその存在を知らなかったはずだ。


 人は未知の存在に対し、恐怖を覚える。自分自身が危険な化け物を生み出したと知れば、恐怖のあまりパニックに陥るおそれもある。

 もしそうなれば、事態を落ち着かせるにはかなりの労力が必要になる。

 納得したような顔をした璃羽の様子を見つめ、口元に薄く笑みを浮かべた朱鳥が言葉を続ける。


「だから、宿主となった人間には悪い夢を見ていたと思い込ませ、業獣の存在を忘れさせるようにしている。……だから珍しいんだ、姫井璃羽さん。君のように、業獣の記憶を忘れることなく、狩人とともに暮星協会に現れるのは」


 君は非常に珍しい。レアケースと言っても間違いではないだろう。

 そう付け加えられた言葉を耳にし、璃羽は丸く目を見開いた。

 暮星協会の一員である朱鳥がそういうのなら、きっとそうなのだろう。だとすると、彼女の言うとおり、璃羽は非常に珍しいケースだ。

 ぽかんとする璃羽の目の前で、朱鳥はさらに言葉を重ねる。


「おまけに、あたしが作ったあの保存食を問題なく食べることができたのだろう? 業獣の宿主であっただけでなく、狩人が口にする業獣の肉を食べても平然としていられる……非常に珍しいな。興味深い」

「……えっ、もしかしてあのジャーキーの原材料って……」


 思い出すのは、燎良の狩りを手伝うときに食べたジャーキー。

 深く考えず、言われるままに食べたが、あのときのジャーキーは今までに食べたことのない不思議な味がした。

 ビーフジャーキーに近いようで違う、噛みしめるたびに力が湧いてくるような不思議な味わい。

 あのとき食べた肉は、もしかして。


「ああ。業獣の肉を加工し、いつでも食べられるようにしたものだ。あたしが作った」

「……あれが、業獣の肉なんだ……」


 呟きながら、璃羽は自分の口元に触れた。

 知らないうちに化け物の肉を食べていただなんて、ぞっとしそうな話だ。普通の人間の感覚なら恐怖し、混乱するはずだ。

 しかし、自分が食べたものの正体を知っても、不思議と璃羽の心は落ち着いていた。

 恐怖することもぞっとすることもなく、一つの事実として胸の中へ情報が落ちてくる。

 自分の口元を撫でながら考えたのち、璃羽は朱鳥を見上げる。


「……業獣の肉って、全部の人が食べられるものではないんですか?」

「そうだよ。業獣の肉を口にしても平然としていられるのは狩人のみ。普通の人間が口にしても受け付けられず、吐き出してしまう。だから、業獣の肉を食べられるかどうかで狩人になる才能があるかどうかわかるといえるね」


 ああ、だから燎良は朱鳥へ彼女が作った保存食を食べても平気だったと説明し、朱鳥もそこに反応したのか。

 取り乱さずに落ち着いたまま、一人で納得した顔をする。

 そんな璃羽の様子をじっと見つめたのち、朱鳥はにんまりと笑みを浮かべた。


「……自分が化け物の肉を食べたと知っても落ち着いているとは。燎良君、もしかして君がこの子を連れてきた理由はこれかい?」

「ああ。しかもこいつ、自分から俺の狩りを手伝うとか言い出したんだ。業獣の肉を食べても平気で、自ら狩人の手伝いをすると言い出すことができて、業獣の肉を食べさせられたんだと知っても落ち着いていられる。理想的な人材だろ」


 そういって、燎良も朱鳥の笑みにつられるかのように、かすかに笑みを浮かべた。

 だが、それもほんの一瞬のこと。璃羽が瞬きをした次の瞬間には、また先ほどまでと同じ表情に戻っていた。


「……とはいえ、最終的にどうするか決めるのは璃羽だから、あまり強く言いたくないが」


 燎良の視線がちらりと璃羽へ向けられる。

 朱鳥も璃羽をじっと見つめたまま、ゆったりとした動作で深く頷いた。


「まあ、それはそうだろう。いくら理想的な人材だとしても決めるのは本人だ。どれだけ才能に満ちた人間でも無理強いをしてしまえば最終的に行き着くのは破滅だ」

「……え、と、その……。あの、燎良先輩も苺原さんも何の話を……」


 二人が一体どのような会話をしているのか、璃羽にはよくわからない。

 とにかく璃羽は燎良たちにとって理想的な人材で才能に満ちているということはなんとなく読み取れたが――それが何を意味しているのかまではわからない。

 いや、なんとなく予想はできているが、ついていけていないという表現のほうが正しいだろうか。

 とにかく戸惑い、自分がついていく前に何らかの話が進んでしまっていることに焦り、璃羽は声をあげる。

 しかし、璃羽の言葉が最後まで紡がれるよりも先に、調理室の外で物音がした。


「おっと。話している間に到着したようだな」


 その音に反応し、朱鳥が会話を中断し、ぱっと調理室の出入り口へ視線を向けた。

 燎良も同様にそちらへ目を向け、璃羽もまた、反射的に音が聞こえたほうを振り返る。

 開け放たれたままになっていた扉の向こう側に見えたのは、布でくるまれた何かを乗せた大きめの台車と、それを押している有護の姿だ。

 その後ろにはエプロンや調理服に身を包んだ男性や女性の姿がある。彼ら、彼女らが朱鳥以外の料理人であると簡単に予想ができた。


「やあ、苺原さん。燎良と姫井さんもちょうどここに来てたんだね」


 そういって、有護はふわりと柔らかく笑う。

 朱鳥も有護へ快活な笑みを返し、ひらひらと片手を振って言葉を返した。


「やあ、石楠。今回はなかなかに収穫が多かったようじゃないか。その分、燎良も少々手こずったようだが」

「一匹だけかと思っていた業獣、それも同じ姿をした個体が二匹いたっていう想定外が発生したからね。まあ、このとおり無事に戻ってこれたから安心してほしいな」


 朱鳥と有護の間でかわされる言葉は、燎良との間でかわされていたものとはまた異なっている。

 まるで古くからの友達であるかのような雰囲気で言葉をかわす様子は、一種の親しさのようなものを感じさせた。


「燎良も、それから姫井さんも頑張ってくれたんだ。今回も最高の一皿を頼んだよ」

「言われなくても。君たちが持ってきてくれる食材はどれも上質だからね、あたしも張り切らせてもらおう。――ほら、調理に入るぞ! 急げ急げ!」

「はい!」


 朱鳥が手を叩き、凛とした声で有護と一緒に入ってきた料理人たちへ声をかける。

 料理人たちも元気よく返事をし、有護が押してきた台車を押して調理室の奥へ移動していった。

 それに続き、朱鳥も腕まくりをしながら調理室の奥へ向かっていく。

 そんな彼女の背中をぼんやり眺めている璃羽へ、燎良が声をかけた。


「璃羽」

「先輩?」


 呼び声に反応し、璃羽が燎良へ振り返る。

 燎良の赤い目と璃羽の目が合う。

 こちらを見る燎良の表情は、とても真剣なもので――どうかしたのかと問いかけようとした璃羽の声は喉の奥へ飲み込まれた。


「……料理ができたら、お前に一つの問いをすると思う。それなりの覚悟をしておいてくれ」

「は……はい」


 こちらへ向けて紡がれた燎良の声も真剣なもので、璃羽もその雰囲気に呑まれて小さく頷いた。

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