5-5 狩人の夜の始まり
「姫井さん」
「!」
すぐ傍で聞こえた有護の声が、ぼんやりと漂っていた璃羽の意識を引き戻した。
意識が戻ってくれば、先ほどまで自分が考えていたことに対し、恐怖に近い感情が湧き上がってくる。
(今、今、私、何を考えてた?)
あの子のことが――。
先ほど頭の中で考えていた言葉がよみがえり、すぐに首を左右に勢いよく振った。
そんなわけない。自分があの子に――花理に対して、そんな感情を向けたことなんてない。微笑ましい、可愛らしいと思ったことはあれど、あんなに狂気じみた感情なんて向けたことはない。
かたかたとわずかに震える自分の身体を抱きしめ、璃羽は浅い呼吸を繰り返す。
花理をそっと寝かせ、有護が璃羽の両肩に手を置いて呼びかけた。
「姫井さん、大丈夫。落ち着いて。息を吸って、吐き出して……そう、いい子だね」
有護の声に合わせ、何度も呼吸を繰り返す。
何度か深呼吸をするうちに動揺していた璃羽の心がだんだんと落ち着きを取り戻してきた。けれど、はっきりと感じた不気味さはいまだに璃羽の中に残り続けている。
最後にほうっと息を吐き出し、璃羽はこちらを心配そうに見つめている有護へ苦笑を浮かべてみせた。
「……すみません、先生。ありがとうございます。だいぶ落ち着いてきました」
璃羽の様子に、有護もほっと安堵の息をつく。
「よかった……こっちこそごめんね。君がそこまで影響を受けやすい人だとは思ってなかった」
そういって、有護は花理の様子を確認するかのようにちらりと視線を向ける。
璃羽も同じように花理へ視線を向け――気を失ったまま、静かに眠っている彼女の様子を目にし、小さく安堵の息をついた。
ゆっくりと視線を有護へ戻したのち、璃羽はおそるおそる口を開く。
「あの……影響を受けやすいってことは、今の……」
璃羽が言葉を発し終える前に、有護は燎良とグルマンディーズ、そして彼らが狩ろうとしている業獣へ目を向ける。
「こちら側に足を踏み入れた人の中に、たまにいるんだ。業獣が発する感情を感じ取ってしまう人が。……そういう人は、大体狩人になるんだけど」
璃羽も有護の視線を辿り、燎良とグルマンディーズ、そして業獣の姿を見つめる。
先ほど感じた狂気的なまでの感情が、業獣から発される感情だとしたら――あの業獣は、嫉妬の感情から生まれた個体なのだろうか。
身を焦がすほどに燃えるような、気が狂いそうになるほどの嫉妬。
(……あんな感情を、花理も感じてたのかな)
璃羽の脳裏に、様子がおかしくなっていたときの花理の姿がよみがえる。
自分にとって邪魔だと感じる対象を徹底的に排除したくなるほどの、狂おしいまでの嫉妬。いつも笑顔を浮かべ、元気いっぱいに振る舞っている幼馴染の心の裏では、あんな感情が渦巻いていたのだろうか。
一種の苦しさが胸を締めつけ、思わず璃羽の表情が暗くなる。
それを吹き飛ばしたのは、燎良の吠えるような大声だ。
「先生! 頼んだ!」
たった一言の短い言葉。
璃羽には何を伝えたいのか全くわからないが、有護には十分伝わったらしい。
燎良の呼びかけに合わせ、有護の手が再度動く。わずかに彼の指先が光を放ったかと思えば、次の瞬間、ほんの一瞬だけ彼の前に壁のような何かが構築されたかのように見えた。
璃羽が己の目を疑うよりも早く、業獣からの一撃を受けて燎良がこちらへ吹き飛ばされてくる。しかし、彼は空中で器用に体勢を整えると、有護が作り上げた壁を蹴って再度業獣へ飛びかかっていった。
燎良が手にしているナイフの刃が煌めき、もう片方の緑の目を一撫でする。
振り抜かれた鋭い刃はいともたやすく業獣の目を切り裂き、唯一残されていた視界もたやすく奪った。
再度、業獣の喉から溢れた咆哮が夜闇を切り裂き、静かな町へ響き渡る。けれど、その声に反応して姿を見せる一般人は一人もいなかった。
(……やっぱり)
やはり、聞こえていないのだろう――業獣と接触していない者には。
璃羽が改めて非日常を噛みしめている間も、燎良は攻撃の手を緩めずに業獣へ刃を振るい続けている。
人間離れしているようにしか感じない身体能力で化け物と渡り合う姿には、どうしても恐ろしさを感じてしまう。
だが、はじめて出会った日とは異なり、恐ろしさと同時に頼もしさも感じていた。
自分の味方だとわかった瞬間に手のひらを返したかのようで、我ながら自分自身に少しだけ呆れを感じてしまうけれど――今の燎良は、璃羽にとって頼りになる人物だ。
「……燎良先輩、大丈夫でしょうか」
今は燎良が押しているように見えるけれど、相手は人とは異なる化け物だ。
思わず不安が璃羽の唇からこぼれ落ちる。しかし、頭に触れた有護の手と彼の声が璃羽の心に芽生えたそれを吹き飛ばした。
「大丈夫」
とても短い一言。
ほんの短いその言葉が、璃羽にとってどれだけ安心するものになっているか。
「燎良は今活動している狩人の中でも、かなり腕が立つ。それに、あの業獣もパワーはあるけれど狙いがあまり正確ではない。まともに一撃を受けたらダメージが大きいけれど、今のところは防御できているし――うん、燎良とグルマンディーズが負けることはないと思う」
己よりも小柄な璃羽を安心させるため、有護は言葉を紡ぎながら彼女の頭を撫でる。
――そうだ。燎良が負けるはずがない。なんていったって、彼はこの町で活動している狩人たちの中で、特に優れた腕を持つ者だ。
業獣も何人かの人間を喰らっているが、燎良とグルマンディーズに比べたらうんと弱い。不意の一撃に気をつけなくてはならないという点はあるが、一人と一匹にかかれば問題なく狩ることができるだろう。
だが、同時に――なんともいえない違和感のようなものも覚えるのだ。
(……気のせいであればいいんだけど)
心の中でひっそり呟く有護の目の前で、グルマンディーズの一撃が業獣をコンクリートの上に沈めた。
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