5-4 狩人の夜の始まり

 お、おぉ、おお、おおぉおお。

 宿主の怒りを代弁するかのように業獣が吠え、不気味さを感じさせる声が夜の空気を激しく震わせる。

 聞く者全てに強い恐怖を与えそうな声が響く中、先に動いたのは花理のほうだ。

 軽やかに道路を蹴り、憎悪に満ちた瞳で燎良へ接近する。迷わずにナイフを振り上げ、燎良を刺そうとする彼女の動きは、普段なら絶対に見せないものだ。


「ッせんぱ……!」


 璃羽の唇から悲鳴じみた声があがりそうになる。

 しかし、燎良は慌てふためくことなく、身体をわずかに横へずらして花理の刃を避けた。ナイフを持っている花理の手首を素早く握り、二撃目を繰り出せないよう制限する。ぎろりと花理が燎良と目を合わせた途端、彼の目がほんの一瞬赤く光った。


「――!」


 瞬間、花理の表情に強い恐怖の色が浮かぶ。

 かと思えば、花理の手からナイフが滑り落ち、かつんと高い音をたてて道路に転がる。手だけでなく花理の身体からも力が抜け、恐怖の色を宿した瞳が瞼の下に隠された。

 がくりとその場に崩れ落ちそうになった花理の身体を燎良が支える。


「せ、先輩……花理、大丈夫なんですか……?」


 燎良が花理に対して暴力を振るったようには見えなかった――だが、どうしても心配になってしまう。

 恐る恐る璃羽が燎良に問いかけると、燎良は気を失った花理の身体を抱き上げて有護へ差し出した。


「大丈夫、ちょっと気を失わせただけだから。先生、璃羽と一緒に安全なところに――」


 燎良が言葉を紡いでいた途中、業獣が燎良に向かって前足を振り上げた。

 だが、業獣が鋭い爪を燎良へ振り下ろすよりも早く、有護が動いた。

 指先が一瞬だけ燎良を指し示し、そのまま業獣へ向けられる。瞬間、ばぢりと大きな音がして燎良に振り下ろされるはずだった爪が弾かれた。まるで、突如出現した見えない壁に遮られるかのように。

 驚き、振り返った燎良へ有護が優しく微笑む。


「狩人としてだいぶ腕をあげたけれど、まだ甘いところもあるね。業獣はどう動くかわからないから、油断しないように」


 業獣は見えない壁に遮られているのが気に食わないのか、何度も壁に向かって爪を振り下ろしている。血走ったようにも見える目で燎良を、そして彼の腕の中で気を失っている花理を睨みつけている様子には一種の狂気を感じる。


「グルマンディーズもいるけど、グルマンディーズは基本的に君と一緒に動くものだ。そういう約束になっていただろう?」

「……わかった」


 燎良の表情が移り変わり、バツが悪そうに眉根を寄せて有護からわずかに視線をそらした。


「次は気をつける。だから、こいつと璃羽を頼んだ」


 小さな声で呟くようにそういい、燎良は改めて花理を有護へ差し出す。

 有護も優しい笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷いてから花理をそっと受け取った。いまだに気を失っている彼女の身体をしっかりと抱きかかえ、燎良へ言葉を向ける。


「任せて。あれくらいの業獣なら燎良が手間取ることはないと思うけど、気をつけて」


 その言葉の直後、業獣の攻撃を遮っていた不可視の壁がふっと消え去った。

 そう感じ取ることができたのは、業獣が何度目かになる爪を振り下ろしたときの反応だ。体重をかける先を失って大きくよろけた反応から、燎良を守るものがなくなったのだと璃羽にも理解することができた。

 業獣が体勢を崩した瞬間に燎良が動き、業獣の爪の下から抜け出してナイフの切っ先を業獣へ向ける。

 それを合図にグルマンディーズも動き、体勢を崩した業獣を殴りつけるかのように太く鋭い爪がついた前足で切り裂いた。


 ――お、おぉ、おお、おおぉおお。


 業獣が悲鳴と怒りが入り混じったかのような声で吠え、空気を震わせる。

 ぎろりと緑の目が動き、花理の姿を睨みつける。思わず花理の前に飛び出した璃羽だったが、グルマンディーズの前足が再度業獣へ叩きつけられた。

 業獣の身体がたやすく吹き飛び、街灯と衝突する。黒い毛並みに覆われた巨体がたやすく街灯をひん曲げ、夜の町から明かりが一つ失われた。


 業獣が素早く体勢を整えようとするが、燎良がそのわずかな隙を見逃すわけがない。

 道路を蹴り、素早く業獣との間にある距離を詰める。業獣が完全に体勢を整えるよりも先に、手に持っていた銀色の刃を緑色をした目へ突き立てた。

 嗅いだ覚えのある鉄臭さが空気に混ざり、夜闇の色とよく似た黒い液体が辺りに飛び散る。びしゃりと道路を汚したその液体は、璃羽がはじめて燎良と出会ったあの日の夜にも目にしたものだ。


 ――ぐお、お、おぉぉ、おおおおぉおお!!


 業獣の喉から怒りに満ちた声があがる。

 肌をびりびりとさせるほどに強い怒り、憎しみ。そして、その中に織り交ぜられた妬ましさ。さまざまな負の感情が入り混じった声が璃羽の鼓膜を強く揺らす。


 ――ああ、ああ! 憎い、憎い、憎い! よくも、よくもやってくれたな!

 ――妬ましい、お前たちが妬ましい! 私よりも優れた爪と牙で狩りをするお前たちが妬ましくて仕方がない!!


 ぎゅ、と璃羽は胸の前で強く手を握りしめる。

 実際に業獣があげたのは咆哮のみだ。しかし、夜闇を切り裂いた声は、彼らにしかわからない言葉でそう叫んでいるのではないかと思わせる不思議な力があった。

 握りしめた手の下で、心臓が普段よりも早く鼓動しているのを感じる。


 狂気を感じさせるほどの強い怒りと嫉妬。優れた相手を妬ましいと感じる気持ち。自分が持っていない何かを手にしている相手を羨ましいと思う気持ち。

 それら全ての感情は人間なら誰もが一度は抱えたことがある感情で――だからか、お前が妬ましいのだと叫びながら爪を振るう業獣の気持ちが、ほんの少し、ほんの少しだけわかるような気がしてしまう。


 だって、自分も。自分も、あの子のことが。


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