5-3 狩人の夜の始まり
璃羽と有護の目の前に降り立った影には、見覚えがあった。
黒い模様が浮かんだ白い毛並み。鋭い爪が生えた太い四肢。所々がどす黒い液体で汚れているが、白い毛並みは夜闇の中でもはっきりと視認できる。
人一人を簡単に飲み込めそうなほどの大きさがある、虎を思わせるこの獣は――燎良とはじめて出会ったあの日、彼とともに璃羽を襲った業獣と戦っていた獣だ。
確か、燎良はあのとき。
「……グルマンディーズ……?」
記憶を探り、燎良が口にしていた名前と思われる単語を口にする。
すると、グルマンディーズと呼ばれた瞬間、大虎の尻尾がぴくりとわずかに反応した。ほんのかすかに頭を動かし、赤い瞳で璃羽を見たあと、またすぐに花理へ目を向ける。
ほう、と。有護が安堵の息をつき、口元に緩やかな笑みを浮かべた。
「……よかった、間に合って」
ぽつり。深い安堵の色を溶かした声で呟き、有護が大虎の背中へ目を向ける。
「燎良」
有護の唇からその言葉が紡がれた瞬間、大虎の背の上から璃羽が待ち望んでいた人が降り立った。
首の後ろで結われた長めの黒髪。
大虎と同じ赤い瞳。
高校の制服ではなくフードがついた黒いロングコートを身にまとっているけれど――大虎とともにこの場へ駆けつけてくれたのは、璃羽がずっと待っていた狩人だ。
「燎良先輩!」
璃羽の喉から発された声は、自分でもわかるくらいに歓喜に満ち溢れていた。
「悪い、ちょっと遅くなった。二人とも無事か? ……無事だな。よし」
燎良の赤い目が璃羽と有護、それぞれへ向けられて頭の先から爪先まで視線を動かしてからほっと息を吐いた。
「どうして……」
どうしてここに。
璃羽が思わず呟きそうになったとき、ふと数分前の有護とのやり取りが頭に浮かんだ。
そういえば、花理と出会ったときに有護は璃羽へ時間稼ぎをお願いしてきていた。できるだけ会話をして、時間を稼いでほしいと。
何かあるのだろうと思って頷いていたが、あのとき、もしかして。
もしかして、燎良を呼ぼうとしてくれていたのではないか?
ぱ、と隣にいる有護を見上げる。
璃羽の視線に気づいた有護が璃羽へきょとんとした顔を見せたが、すぐに笑顔を浮かべ、ずっと背中に回していたらしい片手を璃羽に見せた。
「時間稼ぎしてくれてありがとう。おかげでこの状況を作り出せたよ」
有護の手の中にあったのは、通話画面が表示されたスマートフォンだ。
なるほど、璃羽が時間稼ぎをしている間――もとい、璃羽が花理の注意を引いている間、有護が後ろ手に持ったスマートフォンで燎良に電話をかけて呼んだのだろう。
ぽかんとした顔で数回ほど瞬きをしたあと、こわばっていた璃羽の表情がようやく緩んだ。
「……ありがとうございます、先生」
「こちらこそ。頑張ってくれてありがとう、姫井さん」
有護がスマートフォンをしまい、持っていた手で璃羽の頭をくしゃくしゃと撫でる。
たったそれだけのこと。たったそれだけの行動だが、璃羽の涙腺を緩ませるには十分すぎた。
ずっと怖かった。幼い頃からずっと親しくしていた花理が別人になってしまったかのようで。
ずっと不安だった。業獣を退け、本来の花理を取り戻すことができるのか。
だが、有護だけでなく燎良もこの場に駆けつけてきてくれた姿を見た瞬間、胸の中にあった不安も恐怖も一瞬で吹き飛ばされたのだ。
あの日、業獣から守ってくれたこの人が来てくれたなら、もう大丈夫だと――そう思えて。
こぼれそうになる涙を繰り返し拭う璃羽の傍で、燎良が有護へ視線を向ける。
「状況は」
凛とした燎良の声に、有護がすかさず言葉を返す。
「通話をつけっぱなしにしてたから、なんとなく伝わってるかとは思うけど。宿主と接触、姫井さんに時間稼ぎをしてもらった結果、業獣による精神汚染がかなり進んでる。……できるだけ早く狩ったほうがいい」
有護が簡単に情報を伝えたあと、燎良へ問いかける。
「そっちは? 協会で何かわかったことはある?」
有護の言葉を聞きながら、燎良はロングコートの裏側に取り付けられたホルダーからナイフを取り出す。
食事用に使われていそうなデザインをした銀色に輝くナイフは、璃羽がはじめて燎良と出会った日にも持っていたものだ。
「業獣『緑眼』の気配が動いた。他の人間ではなく、宿主を喰らいにくる可能性が高い。精神汚染が進んでるのなら、奴からすれば宿主がどこにいるのか簡単に感じ取れるだろうから」
二人の会話に耳を傾けながら、わからないなりに璃羽も考える。
花理のあの異常行動は精神汚染なる現象からくるもの――そして、精神汚染が進んでいると業獣が宿主の位置を簡単に感じ取れるようになる。ということは、精神汚染が進んだ状態は業獣からすると一種の目印になるのだろう。
考える璃羽の耳に、花理の声が届く。
「……何、その人たち」
呟くかのように紡がれた言葉に反応し、璃羽はそっと大虎――グルマンディーズの後ろから顔を出した。
花理は相変わらず、ひどく冷えた視線を璃羽たちへ向けてきている。
「なんで邪魔が入るの、なんで邪魔するの、邪魔だと思った人を遠ざけることの何が悪いの」
「ただ遠ざけるだけなら問題ないかもしれないけど、お前の場合は方法に問題があるんだよ。言ってもわからないだろうけどな」
そういって、燎良が一歩前に出る。
その瞬間――。
ぞわり。
辺りに満ちていた空気の中に、鉄臭さと強い獣臭さが混ざった。
息を吸い込むたびに肺へ溜まる獣臭を感じ取った瞬間、璃羽の身体が緊張で固くなる。
鋭い何かがコンクリートの道路と触れ合う音が夜闇から染み出してくるかのように聞こえてくれば、いよいよ璃羽の身体がかすかに震え始めた。
知っている。璃羽は嫌というほど知っている。この匂いも、聞こえてくる音も。
燎良と有護も感じ取ったのだろう。二人の表情も一瞬でより険しいものへ切り替わり、花理を――正確には、彼女の背後に広がっている夜闇を睨むかのように見つめていた。
明らかに異常が起きている中、花理だけが小さな声でぶつぶつと小さな声で何かを呟き続けている。
「なんで、なんで、なんで。みんな邪魔ばっかり……ああもう、もう、いいや、いいよね。だって邪魔するほうが悪いんだもの。もうこれしかないのに、あたしの邪魔をするから……」
ぎろり。花理が璃羽たちを憎悪に満ちた顔で睨みつける。
こちらを見据える彼女の両目は見慣れた色ではなく、業獣と同じ緑色に染まっていた。
「邪魔するなら、全部壊れてしまえ!」
花理が叫ぶと同時に、彼女の背後に広がっていた夜闇が大きく揺れた。
宿主の叫びに反応したかのように、花理の背後に黒い毛並みをした巨大な獣が現れる。夜闇を溶かし込んだかのような毛並みに爛々と輝く緑色の瞳は、璃羽にとって見覚えしかないものだ。
業獣、緑眼。
「……やっぱり来たな」
ぽつり。小さな声で燎良が呟き、手の中にある銀色のナイフを握りしめる。
燎良が構えたのに反応し、グルマンディーズもわずかに姿勢を低くした。まるで、いつでも業獣へ飛びかかれるようにするかのように。
緊迫する空気の中、燎良の唇から音が紡がれた。
「――業獣『緑眼』と接触。宿主の存在を確認」
ざり、とコンクリートと靴底が擦れ合う音が空気を震わせる。
「ハントナイトを開始する」
狩人と業獣が織りなす夜の舞台が、幕を開けた。
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