5-2 狩人の夜の始まり
ばくばくと心臓が緊張と不安、そして確かに感じる嫌な予感で早鐘を打っている。
緊張の面持ちで花理を見つめる璃羽の目の前で、ゆっくり振り返った花理は無言でこちらをじっと見つめてきている。
花理の目が璃羽を見つめ、すぐ傍にいる有護へと視線を向け――改めて璃羽を見つめ、ゆるりと目を細めて唇の端を持ち上げた。
「……璃羽だぁ。どうしたの? こんな時間に」
紡がれる声は、幼い頃から何度も耳にしてきた花理の声。
そのはずなのに――今まで一度も感じたことのない嫌な感覚が璃羽の全身を駆け抜け、ぞくりと悪寒がした。
幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた幼馴染と対峙しているはずなのに、同じ姿をした全くの別人と対峙しているかのような不気味な感覚。
図書室で冷たい目を真島野先輩と見知らぬ女子生徒へ向けている花理と、今の花理の様子が璃羽の頭の中で重なる。
反射的に有護と繋がれた手に力が込められ、有護が訝しげな顔をした。
「花理こそ……どうしたの、こんな時間に。夜遅くに出かけてたら、花理のお父さんもお母さんも心配するよ」
「それは璃羽もでしょ。あたしはちゃんと理由があってお出かけしてるもん。出かけてくるねっていう書き置きもしてるから大丈夫」
だから問題ないよ、大丈夫。
そう言葉を付け加えて笑顔を浮かべているが、向けられた笑顔からはやはり薄ら寒い何かを感じる。
心臓の音が耳元で聞こえているかのような感覚がし、璃羽の呼吸が緊張で浅くなっていく。
すぐ傍にいる璃羽の緊張を感じ取ったのだろう。有護の表情も次第に強ばっていき、璃羽と繋いだ手にわずかに力を込めた。
ちらり。思わず視線を向けた璃羽へ、有護は花理から視線をそらさずに小さな声で言う。
「できるだけ会話をして、時間を稼いで」
隣にいる璃羽にしか聞こえないほどの小さな声。
囁き声と表現してもいいくらいの声量で紡がれた言葉は、璃羽の耳に確かに届いた。
(……私が、頑張らなくちゃいけない)
ほんのわずかに頷いてから、璃羽は改めて花理へ視線を向けた。
「……書き置きしてるとはいえ、心配するでしょ。早く帰ったほうがいいよ」
「もう、心配性だなぁ。璃羽は。大丈夫だよ、用事が終わったらちゃんと帰るから」
璃羽と花理の声が、しんと静まり返った夜の町に響く。
いっそ不自然に感じられるくらいの静寂と緊張、そしてなんともいえない不気味さが入り混じった空気には覚えがあった。
この空気は――そう。業獣と出会った夜に感じた空気と、非常によく似ている。
璃羽と有護の視線の先で、花理がきょとんとした顔をする。けれど、すぐにまた笑顔を浮かべ、ゆっくりと唇を開いた。
「先輩と親しそうにしてたあの人。あの人をどうにかしたら、ちゃんと家に帰るから」
そう言葉を紡いだ花理の目はどこまでも冷たく、笑っていなかった。
ひゅ、と。璃羽の呼吸がわずかに詰まり、全身に冷水を浴びせかけられたかのように凍りつく。
図書室で姿を見かけた女子生徒――あの人に、目の前にいる花理は明確な悪意を向けている。
璃羽がよく知っている待雪花理という少女は、こんな目をしない。こんな表情をしない。
彼女も人間だ、誰かに悪感情を抱いたり愚痴をこぼすこともある。しかし、明確な悪意を持って他者を害そうとすることはしなかった。
「あの人が先輩から遠ざかれば、先輩もあたしを見てくれる。璃羽もそう思うでしょ?」
変わり果てた幼馴染の言動を目の前に、璃羽は浅い呼吸を繰り返す。
(……これが)
これが、業獣の宿主になってしまった人間の姿なのか。
見知った人物の行動ではなく、自身の中にある感情や欲望を抑えずに表へ出す振る舞いをするようになる――業獣の宿主になった人間の様子は事前に聞いていたが、ここまで変わるとは思っていなかった。
強い恐怖が璃羽の心の中で膨れ上がり、一瞬で全身を支配していこうと広がっていく。
しかし、璃羽の中で芽生えたのは恐怖や怯えだけではなかった。
「……先生」
はつり。とても小さな声で、璃羽が有護を呼ぶ。
「業獣の宿主って、業獣がいなくなれば元に戻りますか」
璃羽の唇からこぼれたのは、そんな一言だった。
ほんの数秒のわずかな時間。ちらりと一瞥する程度の、ほんの一瞬の時間。有護は璃羽を見てから、またすぐに花理へ視線を戻して答える。
「業獣と宿主の繋がりがなくなれば、また元通りの人物に戻るよ。今は特定の感情が増幅されて、コントロールができない状態に陥っているだけだから」
「その間の記憶は?」
「残るけど、悪い夢だったんだって言えばみんな信じてくれる。こんなの、表の世界しか知らない人たちからすれば夢としか思えないからね」
有護の返事を一つ一つ心に刻みつけ、璃羽は頷く。
業獣を狩ることでまた普段の花理に戻ってくれるのなら――これが花理の本性でないのなら、自分も勇気を出せる。
大きく息を吸って、吐いて、璃羽は花理へ呼びかけるために唇を開いた。
「駄目だよ、花理」
どこか凛とした声が不気味な静寂に満ちた空気を震わせる。
「その人を遠ざけても、真島野先輩が花理を見てくれる保証はどこにもないよ。むしろ、花理がその人に何かしたんだって知られたら、より遠くに行っちゃうかもしれない」
ぴくり。花理の指先がわずかに動いた。
みるみる間に表情から笑顔が抜け落ち、上がっていた口角が下がる。冷たさのある瞳からもさらに温度が消えていき、絶対零度の表情で璃羽を見つめてくる。
これまで一度も向けられたことのない花理の表情に思わず逃げたくなるが、勇気を振り絞り、璃羽はさらに言葉を重ねた。
「やめよう、花理。具体的に花理がどうするつもりなのか知らないけど、花理が今やろうとしてることは駄目なことっていうのは予想できる。今ならまだ間に合うからやめよう、そんなことしなくても花理はすごく素敵な女の子なんだから、真島野先輩にだって――」
「うるさい」
ぴしゃりと発された声は、ぞっとするほど冷え切っていた。
思わず肩を揺らして言葉を止めた璃羽へ、今度は花理が言葉を返す。
「璃羽にはわからないでしょ、あたしの気持ちなんて。おしゃれに気を使ったり、流行を追いかけたり、特別なことをしなくても人が自然と周囲に寄ってくる。そんな璃羽に、あたしの気持ちなんてわかるわけがない」
ぎらり、ぎらり。花理の目の中で、憎悪にも似た炎が揺れている。
「……あたしみたいに、飾らなくても十分可愛い。いろんな人が寄ってくる。そういうところ、すごく妬ましいんだよね」
言葉を紡ぎながら、花理は手に持っていた鞄に何やら手を入れた。
何を取り出すのかと静かに見守っていた璃羽だったが、花理の手が鞄から取り出したものを目にした瞬間、喉から引きつった呼吸音がこぼれた。
花理が鞄から取り出したものは、街灯の光を反射して冷たく銀色に輝くもの。
一本のナイフだ。
「悪いけど、璃羽もいなくなってくれない?」
冷たい声色でナイフを手に、花理がゆっくりとした歩調で璃羽と有護へ近づく。
璃羽は反射的に後ろへ一歩下がり、有護は繋いでいた手を離し、璃羽をかばうように一歩前へ出る。
一触触発の空気の中、黒い巨大な影が真上から璃羽と有護の前に降り立った。
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