第五話 狩人の夜の始まり
5-1 狩人の夜の始まり
足音を極力たてないよう、慎重に一歩一歩足を階段に乗せていく。
いつも以上に静かに、そして慎重に階段を下り、一階の廊下に両足をつけると璃羽は息を吐き出した。
時刻は夜中。ちょうど日付が変わったばかりの時間。多くの生き物が眠りについているこの時間では、姫井家の中も眠りで満たされている。
ただ一人、その空気に抗っている璃羽は静かに玄関まで移動していき、真っ暗な室内を振り返った。
「……」
今から、璃羽は非日常の世界へ本格的に足を踏み入れる。
これまでも足を踏み入れていたといえるが、これまでが爪先程度なら、今夜は大きく片足を踏み入れる。一度踏み入れてしまえば、片足程度では済まされず、全身まで非日常の世界に染まることになるだろう。
燎良と有護のことを信じているし信頼もしているが、最悪の場合、ここに帰ってこれなくなる可能性だって考えられる――そう考えると、目をそらそうとしている恐怖が芽吹き、両足が凍りつきそうになった。
けれど、恐怖に負けて足を止めるわけにはいかない。
「……いってきます」
必ず、帰ってくるから。
とても小さな声で囁き、璃羽は靴をはいて静かに玄関の扉を開いて外へ出た。
季節は春とはいえ、夜になるとまだ少しの肌寒さが顔を出す。体温を奪われないよう、首に巻いた大判ストールをしっかり首に密着させ、自宅の扉に鍵をかけてから歩き出した。
普段は絶対に出歩かない真夜中に外を出歩くことに不安を感じないわけではない。しかし、今日はその不安を飲み込み、勇気を出して夜の世界に飛び出す必要がある。
誰もが眠る真夜中。今日、この時間帯に璃羽は狩人の業獣狩りを手伝うのだ。
家を出て、右へ曲がり、わずかに歩く。ほぼ自宅前といえる場所で塀にもたれて立っている男性の姿を見つけると璃羽は迷わず彼へ駆け寄った。
「石楠先生」
「姫井さん。こんばんは、無事に出てこれたみたいでよかった。わざわざありがとう」
手元のスマートフォンに向けられていた顔があがり、ぱっと璃羽へ向けられる。
学校で会ったときとは異なる格好をしているからか、それともこれから共に狩りへ向かうからか、こちらを見る有護の印象は昼間とは異なるように感じた。
緩く首を左右に振り、璃羽は声をかけてきた有護へ答える。
「いえ。私もお手伝いするって決めましたから。先生こそ、わざわざ家の近くまで迎えに来てくれてありがとうございます」
「どういたしまして。僕が言い出したことだし、何より女の子をこの時間に一人で歩かせるのも嫌だったしね。真夜中には不審者がいることもあるから」
そう答え、有護が璃羽へ片手を差し出す。
きょとんとして彼の手を見つめていると、次第に有護が苦笑を浮かべ、ひらひらと差し出した手を軽く振った。
「嫌かもしれないけど、手を繋いでくれるかな。暗くて危ないから念の為にね」
「あ……わ、わかりました。じゃあ、えっと……その……失礼します」
異性、それも自分よりも年上の人と手を繋いだ経験など家族くらいしかない。
少し緊張しつつ有護の手に自身の手を重ねると、有護の手が優しく璃羽の手を包み込んだ。
「ありがとう。それじゃあ行こうか」
一言告げ、有護が一歩を踏み出す。
小さく頷いて、璃羽も彼に手を引かれる形で止めていた足を再び動かし始めた。
街灯やカーテンの隙間から時折もれてくる住宅の明かりがあるとはいえ、夜闇に閉ざされた町はとても暗い。右を見ても左を見ても夜の闇で塗りつぶされており、知っている町のはずなのに知らない場所へ来てしまったかのようだった。
正直、一人だけで歩くには怖いし不安になる。
(先生が迎えに来てくれて本当によかった……)
ひっそりと安堵の息をつきながら、璃羽はちらりと有護を見上げた。
「あの……燎良先輩はどこに?」
部室で二人が交わしていた会話から考えて、どこかにいるのは間違いないだろうが、さてどこにいるのか。
夜闇の不安を紛らわすために問いかけると、有護が璃羽の手を引きながら答える。
「燎良なら一度協会に立ち寄ってから僕らと合流する予定。一般人の姫井さんに手伝ってもらうから、そのための準備が必要なんだ」
「協会……」
「そう」
小さな声で復唱した璃羽へ、有護は頷く。
「僕ら狩人は業獣を狩って、その肉を喰らうことで業獣の脅威から昼間の世界を守ってる。業獣を食べることは、狩人が業獣と戦う力を維持するためにも必要なんだ」
そういえば、燎良もはじめて出会ったときに巨大な獣とともに戦っていた。
(……あれが、燎良先輩が持ってる狩人としての力なのかな)
考える璃羽のすぐ傍で、有護がさらに説明のための言葉を重ねる。
「でも、業獣と狩人の世界を知っている人間は少ない。表の世界――日常の世界から隠されているから、同じ狩人と巡り会うこともめったにない。他の狩人に助けてもらえたら教えてもらえるけれど、その可能性も低いだろう?」
「そう……です、ね。私もはじめて業獣に襲われたとき、何がなんだかわからなかったですし……」
どのような人物が狩人になれるのか、璃羽にはわからない。
だが、何も知らない自分が業獣に襲われたとき、何が起きているのか全くわからなかった。狩人たちだって、最初は何もわからなかったはずだ。狩人としての力を維持するために業獣の肉が必要だということも、すぐにわかる人なんていない。
思わず頷いた璃羽へ微笑みかけ、有護はさらに言葉を続ける。
「でしょう? だから、狩人として十分活躍できずに命を落としてしまう人も多かった。それを防ぎ、狩人たちの間で情報交換や協力ができるように組織が作られた。それが、僕が言っていた協会。正式名称は、
「暮星協会……」
協会という呼ばれ方をしていたが、そういう名前の組織だったらしい。
璃羽が有護から狩人たちを支える協会の話を聞いている間も、二人の足はどんどん前へ進んでいる。
「暮星協会ができたおかげで、狩人たちは狩りをしやすくなった。狩人同士助け合うことで命を落とす狩人も減ったし、業獣が出現した際も見つけやすくなった。そのうち決め事もいくつかできて、一般人を狩りに巻き込むときは必ず連絡するようにっていう決まり事もできたんだ」
ああ、だから燎良は協会に立ち寄ってから合流するのか。
どうして燎良のみ単独行動をとっているのか疑問に感じていたが、それが解消され、璃羽は一人で納得したように頷いた。
「なるほど、だから先輩だけが――……」
一人で行動しているんですね、と。
そう続くはずだった璃羽の言葉が途切れ、思わず足を止める。
璃羽の様子に気づいた有護も同様に足を止め、ぱっと璃羽へと視線を向けた。
「姫井さん?」
不思議そうな声色で有護が問いかけてくるが、璃羽の視線は前方に向けたまま動かない。
真っ直ぐ見つめる先。街灯に照らされた同年代の少女の背中を目にした途端、璃羽の足はぴたりと止まってしまった。
ふらふらと頼りない足取りで少女が一歩を踏み出すたび、長いミルクティー色の髪が軽やかに揺れる。
ふわふわとした長い髪も、身にまとう年頃の少女らしい可愛らしい衣服も、璃羽にとって見覚えがあるものだ――けれど、その姿を真夜中の町で見かけるのはおかしい。
普段の璃羽と同じで、彼女もこの時間には眠りに落ちているはずなのだ。
「……なんで、起きてるの?」
一度飲み込んだはずの不安が急速に膨れ上がり、璃羽の心拍数を上げていく。
思わず繋がれた手に力を込めれば、璃羽の様子を見ていた有護の表情が険しくなった。
「花理」
今回のターゲットである業獣。通称、緑眼。
その宿主である少女は璃羽の声に反応して足を止め、ゆっくりと振り返った。
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