4-2 獣の瞳

 普段は守っている廊下を走らないというルールを無視し、教師から注意を受ける可能性からも目をそらし、ただただ足を前へ進める。

 前へ、前へ。少しでも早く。少しでも短い時間で燎良の下へ。

 その一心で廊下を駆け続け――やがて見えてきた美食部の部室の扉へ手をかけ、璃羽は勢いよく室内に飛び込んだ。


「っ燎良先輩!」


 扉が開く音と切羽詰まった璃羽の声に反応し、室内にいた燎良がこちらを振り向く。

 だが、今日は燎良だけでなく見知らぬ男性教師も室内におり、彼の隣で同じように璃羽へ視線を向けた。

 てっきり燎良一人だけかと思っていたため、璃羽も先ほどまで感じていた焦りを忘れ、思わず目を丸くした。


「……璃羽、どうしたんだ?」


 なんともいえない空気の中、燎良が口を開く。

 燎良の声を耳にした瞬間、璃羽もはっと我に返る。


「あ、ええと、前にお話したことについて新しくわかったかもしれないことがあるので……お伝えしたいんですけど……」


 一度言葉を切り、璃羽はちらりと男性教師へ視線を向けた。

 できればストレートに業獣に関する話だと言いたいが、男性教師がいる前で話していいのか判断ができない。燎良のように非日常に身を置く者や璃羽のように非日常の世界に触れてしまった者なら理解できるが、そうでない者からすると業獣たちの話は理解できないものになる。

 言っていいものか、それとも日を改めるべきか。

 静かに考える璃羽だったが、燎良が小さく声をこぼし、片手で男性教師を示した。


「この人なら大丈夫。一応こっち側の人間だから」


 こっち側――ということは、非日常の世界を知る側の人間だろうか。

 ゆっくりと璃羽が改めて男性教師を見やると、彼も何やら納得したような顔をし、ぱっと表情を明るくさせた。


「ああ! なら、君が新しく美食部に興味を持ってくれた子で、こっち側の世界を見ちゃった子なのか。ようこそ、美食部へ!」

「あ、えと……は、はい……」


 わずかな戸惑いを感じながらも、璃羽は小さく頷いた。

 まだ若い教師である。黒に近い焦げ茶色の髪は短いが毛先があちらこちらに跳ねており、ふわふわとした印象を与える。眼鏡のレンズ越しに璃羽を見つめる目も柔らかい茶色をしている――が、よく見ると片目は白く濁っているように見えた。

 どこか冷たい印象のある燎良と並ぶと、男性教師が持つ柔らかで優しそうな印象が特に際立つように感じた。

 猫のように目を細め、男性教師は穏やかに笑う。


「はじめまして。僕は石楠有護せきだん ゆうご。美食部の顧問をやらせてもらってるんだ。よろしく」


 有護の唇から紡がれた一言を耳にし、璃羽は内心納得した。

 美食部は部活動の一つとして存在している。ならば、顧問を務めている教師がいてもおかしくはない。むしろ、顧問の教師がいないほうがおかしいといえる。

 数分前に燎良が口にしていた言葉を思い出し、己の予想と今持っている知識を繋ぎ合わせていく。

 燎良は有護について説明するとき、一応こっち側の人間と説明していた。

 ということは、やはり彼も。


「……先生も、知ってるんですか?」


 とても小さな声で呟くように、璃羽は有護へ問いかける。

 何を聞きたいのか、何を言いたいのか、読み取りにくい言葉だ。多くの人間が首を傾げてもおかしくはない。

 しかし、対する有護はきょとんとした顔を見せたあと、再び柔らかく笑みを浮かべた。


「業獣のことなら僕も知ってるから、安心してくれていいよ。僕も昔は燎良と同じで狩人として業獣狩りをしていた身だしね」


 有護の唇から紡がれた答えに、璃羽は思わず目を丸くした。

 他の誰でもない有護本人から業獣と狩人が織りなす非日常の世界を知っているというのを知れたのはとても嬉しい。だが、それ以上に有護も昔は狩人として活動していたという事実にとても驚いた。

 璃羽が思わず燎良へ視線を向けると、燎良はゆっくり頷いてから口を開いた。


「事実だぞ。石楠先生は昔、狩人として活動してた実力者だ。俺も業獣と狩人の存在を知る前は先生に助けてもらった」

「狩りの中で片目を潰しちゃったから、今はもう引退したけどね。かわりに業獣がいた痕跡を探って狩人に伝えてサポートする役割を引き受けてるよ」


 そういって、有護は白く濁ったほうの片目を指差した。

 白く濁っているように見えたのは、どうやら気のせいではなかったらしい。よくよく観察してみれば、白く濁った彼の目には縦に切り裂かれたかのような傷跡がうっすら残っているのも見えた。


「そっか、先生も……」


 なら、場所を変えなくても問題ないはずだ。

 心の中で一人静かに判断して頷いていると、燎良も小さく頷いてから言葉を続けた。


「で、璃羽。何があったのか教えてくれないか? あんなに急いで駆け込んできたってことは何かあったんだろ」


 その一言で、璃羽の脳裏に図書室で目にした光景がよみがえる。


 普段と違うように見えた花理の姿。

 真島野先輩と、彼と親しそうにする女子生徒の姿を見つめていた花理の横顔。

 そして、業獣の瞳を思い出させる花理の瞳。


 ぞわぞわとした不気味さと不安が再度思い起こされ、璃羽の表情が一気にこわばる。

 璃羽の反応を目にした燎良はもちろん、二人のやりとりを見つめていた有護の表情も自然と真剣さを帯びたものへと移り変わった。


「詳しい話を聞かせてくれるな?」


 わざわざ椅子を引いてくれた燎良に、首を左右に振る理由はどこにもない。

 無言で頷き、璃羽は燎良が用意してくれた席へ腰をおろして口を開いた。

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