第四話 獣の瞳

4-1 獣の瞳

 美食部に仮入部し、非日常の世界に触れるようになってから、璃羽の生活は激変するのかと考えていた。

 しかし、美食部の仮部員となってからも璃羽の生活ががらりと変わることはなかった。

 いつもどおりの日常の延長線上に業獣と狩人たちが織りなす夜の世界へ触れる時間がある状態になっただけで、璃羽が過ごしていた日常が大きく変化するわけではなかった。

 もし、これまで過ごしていた日常が大きく変わってしまったら――そう考えると適応できるか自信がないと感じたため、これにはほっとした。

 太陽の光が降り注ぐ下、璃羽はすっかり見慣れた学校の景色を眺めながらほうっと息を吐いた。


「宿主になってる人の特徴を教えてもらったけど、なかなか難しいなぁ……」


 燎良から依頼された宿主探しは、一言で言うのなら難航していた。

 彼から業獣の宿主になっている人間にどのような変化があらわれるのか教えてもらっているし、璃羽の身の回りにいる人というヒントももらっている。

 だが、その特徴を適用して人を探すのは難易度が高く、なかなかそれらしい人を見つけ出すことができない。


 燎良の助けになれるように頑張ると決めているだけに、成果があげられずに日数だけが経過しているのは正直焦る。焦っても仕方ないとわかってはいるつもりなのだが。

 どんよりとした気持ちと一緒に、肺の中に溜まった空気を吐き出す。焦りも空気と一緒に吐き出せればよかったのだが、それだけは璃羽の胸に溜まったままだった。


(落ち込んでても何もならないし、切り替えないと)


 自身の頬を軽く叩けば、乾いた音とともに衝撃が璃羽の両頬に走る。

 よし、と大きく頷いて図書室の扉を開けると、本が多く集められている場所特有の香りが璃羽の鼻をくすぐったような気がした。


 開かれた扉の向こう側に広がっている図書室は、他の教室よりも落ち着いた空気に満たされている。図書室という場所のため、奥のほうにはずらりと背の高い本棚が並び、手前のほうには背が低めの本棚が並んでいる。

 それぞれの本棚には豊富な本がずらりと詰め込まれており、さまざまな本を読むことができるようになっている。手前には貸し出しの際に利用するカウンターがあり、カウンターの向こう側には図書部と思われる生徒が何やら本を読んでいた。

 だが、扉が開く音に反応し、カウンターの前に座っている生徒が璃羽のほうを見る。


「あれ。図書部に何かご用ですか? それとも、本の貸し出しでしょうか?」

「えっと……ちょっと人を探してて。一年生の待雪花理っていう子なんですけど……」


 全ての授業を今日も無事に終えた放課後。璃羽が図書室を訪れた理由はそれだった。

 璃羽の手の中には花理の名前が書かれたノートがある。教室を出た直後、廊下で出会った担任の教師に届けてほしいと頼まれたものだ。

 璃羽自身も本が好きなため、ゆっくり読書の時間を過ごしたいという気持ちもある。だが、今は教師から頼まれたことを優先したかった。それに、学校にいる間は己の身の回りで宿主になっていそうな人物がいないかチェックするほうに時間を使いたいという思いもある。

 図書部の部員らしき生徒は、璃羽が花理の名前を出した瞬間、ああと納得したような顔になった。


「花理ちゃんなら今、奥の本棚を整理してるはずですよ。奥のほうの本棚の前に行けば会えるはずです」

「わかりました。ありがとうございます」


 丁寧に教えてくれた部員へ頭を下げたあと、璃羽は図書室の中へ足を踏み入れた。

 図書部の主な活動場所がここのため、図書室には部員らしき生徒の姿が他にも見える。だが、その中には純粋に本を読みに来たと思われる生徒の姿もあり、思い思いの本を読んで過ごしていた。

 彼ら、彼女らの邪魔にならないよう、璃羽は静かに室内を進んでいく。

 やがて奥の本棚の前へ辿り着き、ずらりと並んでいる本棚の前を一つ一つチェックしていくと目的の人物の姿を見つけた。

 璃羽は表情を輝かせ、本棚の前で作業をしている花理へ声をかける。


「花理――」


 しかし、花理の様子に気づいた瞬間、発した声は璃羽の喉奥へと戻ってしまった。

 確かに本棚の前に花理がいる。腕に本を抱えた状態で立っている。

 だが、彼女の視線は本棚ではなく、離れた場所にいる真島野先輩と彼の傍にいる見知らぬ女子生徒へと向けられている。花理から離れた本棚の前で小さな声で談笑する二人の姿は、とても仲が良さそうに見える。


 そんな二人を見つめる花理の目は冷え切っていた。長い付き合いの璃羽でも見たことがないと感じるほど。普段見せる可愛らしい表情も消え去り、今の彼女にあるのは能面のような無表情だ。

 それに加え、ぞっとするほどの重い空気をまとっている。何かへ強く怒りを向けるとき、何かを強く憎むときに人がまとう空気に近い。

 普段なら璃羽が声をかけたらすぐに気づくはずだが、花理は璃羽へ視線を向けることなく、ただひたすらに真島野先輩と女子生徒のほうを見つめていた。


 その横顔が、まるで。


「……花理……?」


 璃羽の唇から、弱々しい声で花理の名前が改めて紡がれる。

 その瞬間、はっと我に返ったかのように、花理が璃羽のほうを見た。


「璃羽? どうしたの?」


 そういった花理の目や雰囲気は、璃羽がよく知るものに戻っていた。

 普段どおりの彼女の姿に少しほっとする璃羽だったが、心臓は今もばくばくと嫌な音を立て続けている。

 普段と異なる花理の姿。

 璃羽もはじめて目にする、憎悪に満ちた彼女の瞳。


 あれでは――あれでは、まるで。窓ガラスごしに目にした業獣の目のようだ。


「先生から頼まれて、花理のノートを持ってきたの。ほら、これ。みんなより遅れて提出してたでしょ?」


 己が感じたことを押し隠し、璃羽はずっと腕に抱えていたノートを花理へ差し出した。

 きょとんとした顔をしていた花理だったが、ノートを目にした瞬間、はっとした顔になる。教師に遅れて提出していたのをようやく思い出したのだろう。


「え、わざわざ持ってきてくれたの? ごめん璃羽! でもありがと!」


 一瞬目を丸くして、すぐに申し訳なさそうに笑って、花理は璃羽からノートを受け取る。

 くるくると移り変わる花理の表情も、璃羽がずっと昔から知っているもので少しだけ安心する。

 ――しかし、普段どおりに戻った花理の様子は、璃羽の中で一つの疑惑を確信に近づけていく。


「璃羽はこれからどうするの? もう帰っちゃう?」

「ううん。私もちょっと見ていきたい部活があるから、そこを見学してくるつもり」


 そういって、花理へ柔らかな笑顔を向ける間も璃羽の心臓は早鐘を打ち続けている。

 早く、早く。少しでも早く燎良の下へ。

 焦りにも近い感情が璃羽の耳元で燎良の名前を叫び続け、璃羽の背中を押し続ける。

 璃羽が焦っているからこそ、そう感じてしまったのかもしれない。もしかしたら、花理は業獣と無関係なのかもしれない。

 そう囁く自分自身もいたが、幼い頃から待雪花理という少女を知っているからこそ気づいてしまった。


 先ほどの花理の様子は、異常だと。


 璃羽の内心に全く気づく様子なく、花理はぱっと表情を明るくさせる。


「本当? 璃羽も気になる部活が見つかったんだ! どんな部活?」

「内緒ー。正式に入部することになったら改めて伝えるね」

「えー気になるなぁ。入部するって決めたらちゃんと教えてよー」

「わかったわかった。じゃあ、行ってくるね。花理も図書部のお仕事頑張ってね」


 じゃれ合うような言葉を交わし、最後に花理を応援する言葉を口にしてから、璃羽は彼女の傍を離れた。

 来た道を戻り、カウンターにいた図書部員に会釈をし、図書室を出る。

 廊下に出た瞬間、璃羽は己の中で騒ぎ続ける焦燥感に強く背中を押されるまま、美食部の部室を目指して駆け出した。

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