第三話 与えられた救いに手を伸ばす

3-1 与えられた救いに手を伸ばす

 かつ、かつ。こつ、こつ。足早な足音が廊下に響く。

 無事に朝を迎え、一日を過ごした璃羽の足は、迷うことなく美食部の部室に向かった。

 まさかこんなに早く美食部をもう一度訪れることになるとは思っていなかったが、今回の件で頼れるのは燎良一人しか思い浮かばない。

 走り出したくなるのを堪えながら、前へ前へ足を動かし続ける。

 放課後を迎えた廊下にはほとんど人がおらず、璃羽が美食部の部室となっているあの部屋まで向かうのを妨害する者はどこにも存在しなかった。


「先輩!」


 美食部の扉を勢いよく開きながら、璃羽は中にいるであろう人物を呼んだ。

 部室の中は、昨日璃羽が訪れたときと何一つ変わらない。机や椅子に始まり、古くなった食器や調理器具が入れられた段ボール箱があちこちに置かれたままになっている。室内を照らす照明の光は相変わらず弱く、薄暗さが部室内を満たしていた。

 室内で一人佇んでいた燎良の目が、ゆっくりと璃羽へ向けられる。

 突然の来訪にも関わらず、彼は璃羽が今日ここに来るのを確信していたかのように薄く笑みを浮かべた。


「昨日ぶりだな、姫井」


 ひらりひらり。片手を振りながら、燎良が璃羽へ声をかけてくる。

 すでに名前を覚えられていることに一瞬驚き、目を見開くが、即座に真剣な表情へ切り替えると璃羽は口を開いた。


「あの、昨日の今日で大変申し訳ないんですが、先輩にお願い事があるんです」

「予想どおり出たか、業獣が」


 璃羽が告げた言葉はまだ本題に入っていない、前置きの段階だ。

 だが、燎良はその先を見通しているかのように本題へと切り込んできた。

 再び目を見開いて驚く璃羽だったが、よく考えれば業獣の情報と匂い袋を璃羽へ渡したのは燎良だ。昨晩、業獣が璃羽を再び襲撃すると確信していたから、あの匂い袋を渡してくれたのかもしれない。

 ぽかんと開きかけた口を引き締め、璃羽は燎良の問いかけに対し、小さく頷いて答えた。


「姿は見たか」


 続いた問いかけには、静かに首を横に振ってみせてから口を開く。


「姿全体を、見たわけでは。……大きな獣の目だけは、見ましたけど」

「目だけを?」

「窓から覗き込まれていたので」


 そう答える璃羽の脳裏に浮かぶのは、窓から外の様子を伺おうとした際に見た巨大な目。

 肌にまとわりつくような、どろりとした気配を感じさせる緑色の目をぎょろぎょろ動かし、恨みがましそうにこちらを睨んできたあの目は、思い出すだけで璃羽の心に強い恐怖を与える。


 昨夜と異なり、恐怖に呑まれずに済んでいるのは目の前に燎良の姿があるからだろう。

 璃羽の返事を耳にし、燎良は数回ほど相槌を打つように頷いてから部室にある椅子の一つを引っ張ってきた。

 机を挟んで向かい合うようにその椅子を設置し、彼は指先でとんと机を叩く。


「もう少し詳しい話を聞かせて」


 彼の唇が紡いだ一言に、璃羽がどれだけ救われた気持ちになったか。

 不安や恐怖で揺れていた心が一気に晴れ、安堵感が心の中にどんどん広がっていく。

 もう一度小さく頷いてから、璃羽は燎良が用意してくれた椅子に座る。

 燎良も目の前にある椅子に座り、璃羽と向かい合うのを待ってから、昨夜何があったのかを語るために口を開いた。


「私が昨日、業獣と会ったのは……はじめて先輩に助けてもらったときと同じで、夜でした。時間は確か十時くらいだったと思います」


 休日はずれるときもあるが、璃羽の家は基本的に規則正しく日々の時間を過ごしている。

 夕食を食べるのは九時頃。疲れている父や母に譲るため、入浴は大体遅めの十時頃。もう少し早い時間に両親が入り、最後に璃羽が入るというのがいつのまにかできた流れだ。

 昨日も毎日を過ごすうちに完成したルーティンワークに従い、十時頃にぱぱっと入浴し、自室へ戻ってきたところだった。


「二階にある自分の部屋に戻って、先輩からもらったお守りを眺めてから寝ようと思ったんですけど……そのとき、何かが壁をひっかくような音が聞こえて」

「壁をひっかく音?」

「はい。こう、爪の先で家の外から、かりかりって」


 璃羽は机に爪をたて、かりかりとひっかいてみせる。

 奏でられる音も壁をひっかいていたであろう爪も異なるが、説明のための動作だ。同じである必要はない。

 燎良は静かに璃羽の言葉に耳を傾けたのち、相槌を打つように頷いた。


「続けて」


 一言、続きを促され、璃羽は素直に従う。


「気のせいかなって思ってたんですけど、だんだん強くひっかいてるような……がりがりって音になっていって。最終的に窓ガラスが強く叩かれたんです、ばんばんって」


 何かが壁をひっかいていると理解した瞬間に切り替わった音は、今も璃羽の耳の奥に残っている。

 あのときは気づかなかったが、今思うと、あれは部屋の中に入れない苛立ちをぶつけていたようにも思える。


 もし、部屋の中に入られていたら。

 もし、自分が窓を開けて壁をひっかいている正体を確認しようとしていたら。

 その先に惨劇が待ち受けていたであろうことは、簡単に想像できる。


「……窓ガラスを叩いてきていた奴は、部屋の中には入れなかった?」

「入ってこなかった、です。窓ガラス、あれだけ強く叩かれてたら割れそうなのに、全然割れなくて。それどころか、ヒビ一つ入ってなかったです」

「そう。なら、そのお守りがちゃんと姫井を守ったってわけだ」


 そういって、燎良の指が璃羽の首元で揺れる匂い袋を指差した。

 爽やかな香りを漂わせるそれに視線を落とし、璃羽は片手で匂い袋をきゅっと握りしめた。


 これが璃羽を守った――ということは、もし璃羽が匂い袋を受け取っていなかったら。もしくは匂い袋をちゃんと手元に置いていなかったら。もしかしたら、あのとき壁の向こう側にいた何かは璃羽の部屋に入り込んできていたのかもしれない。


 頭の片隅でそんな想像をし、ひやりとしたものが璃羽の背筋を駆け上っていく。


「獣の目を見たのはどのタイミング?」


 燎良からの問いかけが再び璃羽の耳に届き、璃羽はそっと答えた。


「窓ガラスを叩く音が落ち着いたあとです。しばらく叩かれてたんですけど、静かになって……外がどうなってるのか確認しようと思って、カーテンをめくったら、そのときに」


 今思えば、あれは窓ガラスを破るのを諦めてこちらが姿を覗かせるか窓を覗き込んで待っていたようにも思える。

 考えれば考えるほど、嫌な方向へ思考が傾いて小さく身震いをする。


「なるほど、わかった。話してくれてありがと。大体どんな感じだったのか想像できた」


 そういってから、燎良は小さく頷いて璃羽の目の前に紙コップを置いた。

 紙コップの中では香ばしい色合いの水面が揺れており、香りをかげば一種の懐かしさを思い起こさせる麦茶の香りが璃羽の鼻をくすぐった。

 ずっと話していたのもあるからか、それとも恐怖や緊張も心の片隅で感じているからか。飲み慣れた香りと想像のできる味を目の前にして、璃羽は喉の渇きを一気に自覚した。一言感謝の言葉を告げてから口にすると、想像どおりの味わいが喉を駆け抜けていく。

 紙コップ一杯の麦茶を飲み終える頃には、璃羽の心もほんのわずかに落ち着いていた。


「脅かすようで悪いけど、一度出たならこの先何度も出てくる。業獣が宿主や宿主周辺の人間を捕食しようとするのは、奴らにとってそれが『栄養価の高い』食べ物だからだ」


 燎良の唇から語られた言葉が、話の内容が、璃羽の心にひやりとした恐怖を流し込んでいく。

 なんとかパニックにならず耳を傾けていられたのは、璃羽もあれが今まで知らなかっただけで世界に実在しているものだと受け入れつつあるからだ。

 さすがに二度も襲われて命の恐怖を感じれば、業獣や狩人たちが織りなす裏側の世界を受け入れるしかない。


「姫井の周囲に現れてる業獣は一度俺が傷つけてる。負傷した業獣は傷を治すため、無傷の個体よりも栄養価が高い人間を狙う。あいつは姫井を喰らうまで、ずっと追いかけてくる」


 つまり、業獣をなんとかしない限り――璃羽は延々と業獣に命を狙われ続ける。

 匂い袋を握りしめている手に自然と力がこもり、表情がこわばるのを感じた。


「先輩なら」


 燎良が何か言うよりも早く、璃羽が口を開く。


「……先輩なら、どうにかできますか。あの業獣を」


 じ、と。璃羽が見つめる先で、燎良の唇がゆっくりと開いた。


「できる」


 はっきり告げられた言葉が璃羽の鼓膜を震わせ、恐怖に浸かった心に響き渡った。

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