2-4 世界の裏側に潜むもの

 とん、とん、とん。軽い足音をたてながら、階段を登っていく。

 あのあと、無事に帰宅してからというもの、璃羽の頭の中では燎良が口にした言葉が何度も繰り返し再生されていた。


 現実だと言われても簡単に信じるのが難しいこと。世界の裏側に存在する、人ならざるものがはびこる裏側の世界。

 実際にその断片を目にしているのだが、それでも素直にそういうものがあるのかと頷くには少々難しい部分があった。


 乾かしたとはいえ、まだ少し水分が残っている髪をタオルで拭きながら廊下を歩き、自室へと足を踏み入れた。

 窓の外から見える空はすっかり暗く、部屋にかけられた時計は今が夜であることを示している。

 入浴も済ませ、普段ならゆったりリラックスしている時間だが――今日は、あまりそのような気分にはなれなかった。


「業獣かぁ……」


 ベッドに腰かけ、首からさげている匂い袋へ視線を落とす。

 長めの紐が取り付けられた匂い袋からは、今も二種類の爽やかさを楽しめる香りが漂っており、璃羽の身体全体を優しく包み込んでいる。

 入浴中の間はさすがに外していたが、身につけるとはっきり楽しめるその香りは香水のように楽しむことができ、思わず表情が緩んだ。

 指先で匂い袋をつまみ上げ、己の目線に合わせた状態のまま後ろへ倒れ込む。ベッドのスプリングが柔らかく璃羽の身体を受け止め、ほんのわずかに軋んだ音をたてた。


「これがお守りって先輩は言ってたけど、本当なのかなぁ」


 どこからどう見ても、ただの匂い袋にしか見えない。楽しめる香りにも違和感はなく、何か特別なものという気配は一切感じられなかった。

 本当にお守りだったとしても業獣から守られるとしか聞かされていないため、匂い袋への疑問は深まるばかりだ。


「見た目は可愛いし、匂いも全然嫌なのじゃないから別にいいんだけど……」


 燎良から聞かされた業獣という存在は、非常に危険度が高い存在であるように感じられた。


 匂い袋一つで退けるのは難しそうに思えてしまうのだが、本当にこれが業獣から璃羽を守ってくれるのだろうか――?


 己の指先でゆらゆらと揺れる匂い袋を見つめたまま、璃羽は内心首を傾げる。


「……まあ、また明日。また明日、あの先輩に詳しく聞きにいってみようかな」


 ひとまず、今日は日常とはかけ離れた世界についてたくさん考えたのもあって疲れてしまった。

 匂い袋から手を離し、璃羽はリモコンで部屋の照明を落とすとベッドに潜り込んだ。


 ――かり。


 ふいに。

 ふいに、何かをひっかくような音が璃羽の耳に届いた。

 気のせいかと思ってしまうほどに小さな音。しかし、一度聞こえた音は気のせいではないと璃羽に知らせてくるかのように何度も繰り返し空気を震わせた。


 かり、かり、かり。

 ……かり、がり、がり。


 がり、がりがりがりがりがり。


 爪先で何かをひっかくような音だったそれは、次第に強く何かを繰り返しひっかく音に変化していく。

 執拗に、苛立ちに近い感情を込めて繰り返される音は、璃羽の自室に広がっていた夜の空気を急速に侵食していった。

 一種の緊張が胸の中に広がり、璃羽は飛び起きる。


 照明が落とされた暗い室内へ視線を行き渡らせ、音がどこから聞こえてくるのかを探った。

 部屋の中から聞こえてきている? 違う。部屋の中ではない。

 扉の向こう側から誰かがひっかいてきている? 違う。家族の中にそんなことをする人間はいない。

 では、どこから? どこから、何をひっかいている?

 思考を巡らせる間も聞こえてくる音に耳をすませて考えれば、答えは自然と導き出せた。


 壁だ。

 家の外から、何かが壁をひっかいてきている。


「っひ……!」


 璃羽が頭の中で答えを導き出した瞬間、ばんと大きな音が鳴り響いた。

 思わず悲鳴が喉から溢れそうになり、必死に飲み込む。

 ばん、ばん、ばんと家の外から何かが窓を繰り返し強い力で叩いてきている。それはまるで、部屋の中に入ることができなくて苛立っているかのようだった。


 今すぐにでも自室を飛び出して家族に助けを求めたいが、一度恐怖で凍りついた身体は思うように動いてくれない。

 首元にさげた匂い袋を強く握りしめ、璃羽は浅い呼吸を繰り返しながらカーテンが湿られた窓から目を離せなくなっていた。

 その間も、窓ガラスは自宅の外から何かにずっと叩かれている。


 ばん、ばん、ばん、ばん。


(――なんで)


 は、は、と浅く短い呼吸が璃羽の唇からこぼれる。

 こんなに繰り返し大きな音がしているというのに、璃羽の家族は誰もこの場に来ようとしない。璃羽一人だけが暗闇に支配された部屋の中に取り残されたかのようだ。

 これでは、これではまるで。


(私一人にしか、聞こえてないみたいな)


 ぞわり。足元から背筋まで、悪寒が一瞬で駆け抜けていく。

 気づいてはいけない恐怖に気づいた瞬間、歯の根が合わなくなり口元からカチカチと音が溢れる。浅かった呼吸がさらに浅くなり、湯で温まったはずの身体が急速に冷えていく。

 ここは自分の部屋だ。幼い頃からずっと過ごしてきた己のテリトリーだ。

 そのはずなのに、全く知らない場所に放り出されたかのような未知の恐怖が璃羽を支配している。

 日常の世界の中で、いつもどおりの夜を迎え、眠りにつこうとしていたはずだ。なのに、今璃羽がいる場所は明らかに日常から切り離された世界だ。


 そう、まるで――はじめて業獣を目にしたあの日の夜のような。


 窓ガラスが一層強く叩かれ、璃羽の両肩が大きく跳ねる。

 繰り返し強く叩かれているというのに、窓ガラスが外側から割られる気配はない。だが、あくまでも今のところというだけで、いつ割られるのかわからない。


 もし、割られたら何が室内に入ってくる?

 ――わからない。


 未知の恐怖が部屋中にはびこり、璃羽の思考をかき乱していく。


(助けて)


 ただそれだけを強く祈りながら、匂い袋を両手で強く握りしめて再びベッドの中へ潜り込んだ。少しでも己を恐怖に満ちた外界から切り離そうとするかのように布団の中で身を丸め、強く目を伏せる。

 握り込んだ手の中から感じられるベルガモットとミントの香りがわずかに璃羽の心を落ち着け、外から聞こえてくる窓ガラスを叩く音が再び恐怖で塗り替えていく。


(先輩)


 黒く暗く塗りつぶされた瞼の裏に、まだ知り合って間もない燎良の姿が浮かんだ。

 まだ彼のことをほとんど知らないのに、一度助けられたからか、彼に助けを求めたくて仕方がなかった。


(助けて、助けて、助けて、助けて――!)


 頭の中に何度も何度もエスオーエスのサインを思い浮かべるうちに、ずっと聞こえていた音が途切れる。

 先ほどまで何度も何度も聞こえていたのに、ぴたりと何も聞こえなくなった。


「……?」


 まだ震えが残る手で布団をどけ、そっと身を起こす。

 暗い部屋の中にはまだ恐怖の残滓が残っているが、主な恐怖の原因となっていた窓ガラスを叩く音はぴたりと止んで夜の静寂が戻ってきている。

 片手で匂い袋を握りしめたまま、璃羽はベッドから出て両足を床につける。一歩一歩慎重に足を踏み出し、カーテンが閉められたままの窓の前に立った。

 そして、そうっとカーテンをめくった。

 瞬間。


「――!」


 巨大な獣の目が窓ガラスいっぱいに映り、璃羽の喉から声にならない悲鳴があがった。

 身体がとっさに後退しようとし、足がもつれてその場に尻もちをつく。じんじんとする痛みに一瞬だけ目を伏せ、再び窓へ視線を向ける。

 しかし、確かに窓の向こう側に存在していたはずの獣の目はどこにもなく、いつもどおりの夜の町並みが広がっているだけだ。


 混乱する璃羽の視線の先で、いつもどおりの夜が戻りつつあった。

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