2-3 世界の裏側に潜むもの

 美食部の部室に沈黙が下りる。なんと言葉を口にすればいいのかわからず、璃羽は燎良を見つめたまま黙り込んでいた。

 昨夜、自分が目にしたものは何だったのか知りたいと望んだのは璃羽だ。他の誰でもない璃羽本人が望み、燎良がそれを叶えてくれた。

 だが、燎良の口から紡がれた話は、その断片を見ていても信じられないと思ってしまうような――そんな非日常に満ちた話だった。


 信じられない、嘘をつくなと叫ぶ自分と、嘘ではなくてきっと本当のことなんだと叫ぶ自分。異なる意見を叫ぶ内なる自分の声に耳を傾けながら、璃羽はおそるおそる唇を開いた。

 しかし、璃羽が何か言うよりも早く、燎良が言葉をかぶせる。


「すぐに信じられなくても仕方ない。俺だって、はじめて業獣と遭遇したときは信じられなかったんだから」


 びくり、と璃羽の肩が揺れた。

 図星だった。素直に信じられるわけがないと内なる自分がずっと叫んでいたから。

 だが、かつての燎良も同じだったと聞き、そう感じたのは己一人ではなかったのだと少しだけ安心する――燎良本人はもうすでに裏側の世界を受け入れているが。


「……俺が話せるのはここまで。信じるか信じないかは、あとはお前の自由」


 話は終わりだと言わんばかりに、燎良が立ち上がる。

 戸惑う璃羽の視線の先で棚から何かを取り出し、座ったままの璃羽へ歩み寄る。

 彼から感じられる威圧感に一種の恐怖を感じ、璃羽は椅子から立ち上がった。少しでも燎良から距離をとろうと椅子の傍を離れれば、燎良はどんどん距離をつめてくる。


 燎良が一歩近づくたび、璃羽が一歩下がる。何度もそれを繰り返していくうちに璃羽はどんどん追い込まれ、背中に部室の扉が触れた。

 ゆっくりとした動作で燎良が部室の扉を開き、支えるものを失った璃羽の身体が後ろへ傾く。

 とっさに片足を後ろに引いて身体を支えれば、どこかひやりとした廊下の空気が璃羽の肌を撫でた。


「でも、お前が業獣と遭遇したのは確かだから、これ、渡しておく」


 その言葉とともに、燎良はずっと片手に持っていたらしいものを璃羽へ放り投げた。

 慌てながらも放り投げられたそれを両手で受け止め、恐る恐る確認した。


 璃羽へ投げてよこされたのは、小さな匂い袋だ。お守り袋を思わせる形状になっており、首からさげて身につけられるように長い紐が通されている。柔らかく璃羽の鼻をくすぐっていくのは、ベルガモットのすっきりとした香りとミントを思わせる爽やかな香りだ。


 嗅いでいると背筋が伸びそうな香りを楽しめるそれを見つめたあと、璃羽は改めて目の前に立つ燎良へ視線を向ける。


「お守り。今日はそれ、肌身離さず必ず持っておくこと。寝るときも必ず身につけてろ。それが手元にあれば、お前は業獣から守られるから」


 信じるのも信じないのも、お前次第だけど。

 最後に一言そう呟くように付け加え、燎良は部室の扉をぴしゃりと閉めた。

 燎良の姿が扉に遮られ、完全に見えなくなる。しんと静まり返った廊下にぽつんと立ちながら、璃羽はもう一度己の手の中にある匂い袋を見た。


 お守り袋を思わせる、薄紫の匂い袋。柑橘系と清涼感のある香りを楽しめるそれは、お守りといわれてもあまりピンとくるものはない。

 ぎゅ、と。匂い袋を握りしめ、璃羽は緊張をほぐすために息を深く吐き出す。

 しばしの間、その場で立ち尽くしていたが――やがて、璃羽は美食部の部室の前から離れるために足を動かした。


 夕暮れが近づくとともに冷やされた空気が、ふわりと璃羽の肌を撫でていく。

 先ほどまで非日常の空気を感じていたのが嘘だったかのように、璃羽を取り巻く空気はとても軽いものに戻っていた。

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