第二話 世界の裏側に潜むもの
2-1 世界の裏側に潜むもの
「やっぱり……あのときの先輩、ですよね」
目の前に立つ青年を真っ直ぐに見つめ、璃羽は静かな声で問いかけた。
部活勧誘のチラシを見つめている間に大体の人の流れが落ち着いたのか、周囲にいた生徒たちの数はとても少なくなっている。今、一階玄関付近にいる生徒は璃羽と眼前の青年だけだ。
運動部の活動に精を出す声がどこか遠くから聞こえてくる。ここだけが妙に静まり返っているかのような空気が、その場に広がっていた。
どこか緊張した顔をしている璃羽とは対照的に、青年はゆったりとした動きで首を傾げた。
「……そういうお前は、やっぱり昨日の奴だよな。見覚えがある」
観察するような視線で璃羽を頭のてっぺんから爪先まで眺めたのち、青年が呟くような声量でそういった。
互いに昨夜出会った相手だと確認する言葉を交わしたあと、再び静かな沈黙が二人の間に広がる。
(どうしよう……あのときのこと、何だったのか聞きたいけれど……)
聞いても大丈夫なのだろうか。
あの夜のことを聞いても、目の前の彼は本当に答えてくれるだろうか。
そもそも、あれは本当に現実に起きたことなのだろうか――?
さまざまな疑問が不安とともに璃羽の頭に浮かんでは消えていき、胸の中にずっと存在しているもやもやをさらに強めていく。
答えの見えない疑問に頭を抱える璃羽の前で、青年がゆっくりと口を開いた。
「あのときは見た感じ、怪我とかしてなさそうだったけど……大丈夫か? 無傷のままならいいんだが」
彼の声を耳にした瞬間、は、と璃羽の意識が引き戻された。
目の前に立つ青年の顔は、どこか気だるそうなものだ。璃羽を見つめる瞳の中にはどこか心配そうな光がちらついており、わかりにくいがこちらを心配しているのが読み取れる。
正直、彼についてはわからないことが多く、恐怖も多い。
けれど、あのとき璃羽を助けてくれたのは確かで、今、璃羽を心配してくれているのも確かだ。
……もしかしたら、思っているよりも怖くない人なのかもしれない。
ささやかな希望を胸に、璃羽は軽く深呼吸をしてから唇を開いた。
「ええ、と……あの黒いのから逃げてる途中で一回こけたんですけど……黒いのに襲われて怪我はしてない、です」
「そう。ならよかった。あいつに傷つけられたら後々まで面倒になるところだったから」
発された言葉は、明らかにあの黒い獣について何か知っているものだ。
(この人は、知ってるんだ)
あの黒い獣が一体何なのか。
はっきりと確信し、璃羽の喉がわずかに上下する。
己の中で答えが出ていないものについて知れるチャンスが、璃羽の目の前にある。手を伸ばせば届く範囲に、答えがある。
一回、二回――と数回ほど唇を開閉させたのち、璃羽はゆっくりと口を開いた。
「あの……昨日は助けてくれてありがとうございました。その、助けてもらったのにお礼も言わずに逃げ出して、本当にごめんなさい」
まずは、あのとき感謝もせずに逃げ出してしまったことへの謝罪を一つ。
青年は何も言わず、じっと璃羽を見つめている――まるで、その先にある言葉を待っているかのように。
大きく深呼吸をし、ばくばく音をたてている心臓を落ち着かせる。緊張が全身に広がり、指先から体温が失われて冷えていくかのような感覚が璃羽を襲った。
真っ直ぐに青年の目を見つめ、おそるおそる問いかけた。
「……昨日の、なんだったんですか? 先輩、何か知ってませんか?」
璃羽の言葉を聞いた瞬間、青年が猫のように目を細めた。
まとう雰囲気がほんのかすかに先ほどまでと変わったような気がし、璃羽の肩が小さく跳ねた。
聞こえてくる運動部の声が、先ほどまでより遠のいて聞こえる。
問いかけるまではなかった独特の緊張感がある空気の中、青年はゆるりとした動きで唇を動かした。
「……知らないかと聞いてるけど、ほぼ確信してるだろ。俺が何か知ってるって」
まあ、昨日あんなことしてるの見られてるから確信しててもおかしくないけど。
がしがし頭をかき、青年が呟くような声量で付け加える。
緊張をにじませた表情でじっと返事を待つ璃羽の目の前で、青年はゆるりとした動きで周囲を見渡してから再度唇を開いた。
「別に、お前が望むなら答えてもいいけど、場所を変えようか」
「場所を……?」
「無関係の奴らに聞かれて、変な噂が広がるのを避けたい。あれは、基本的に隠されているべきものなんだ。存在が公に知られると混乱が広がる」
青年が告げた言葉を前に、璃羽は固唾をのんだ。
脳裏に、突然襲いかかってきたあの黒い獣の姿がよみがえる。
なんとなく予想はできたが――あの獣は、よくないもののようだ。それも、人々からは存在を隠されるような。
しかし、黒い獣がそのような存在であるならば。どうして、目の前の青年はその存在を知っているのだろうか。
(この人は)
この先輩は――一体、何者なのだろう。
一般の人々には隠されていることを知っている辺り、ただ者ではないのは確定している。
強い緊張を噛みしめる璃羽へ、青年は親指で自分の背後を示した。
「とりあえず、ついてきて。部室なら比較的安全に話せると思うし、万が一誰か入ってきても部活見学だって言い訳ができる」
そういって、青年は璃羽の返事を待たずに歩き出す。
少しの間だけ掲示板前で立ち尽くしていた璃羽だったが、やがて小走りで遠ざかっていく青年の背中を追いかけた。
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