1-5 狩人の夜に出会う
「……璃羽、大丈夫?」
「へ?」
非日常に満ちた夜が明けて迎えた翌日。
いつもどおり迎えた放課後の教室で、花理にそう声をかけられて璃羽は目を丸くした。
陽の光が行き届く世界は、いたっていつもどおりで昨夜の非日常が嘘だったかのように穏やかだった。自宅で迎えた朝も、花理と一緒の登校も、クラスメイトたちに囲まれた学校での時間も何もかもが普段どおりだ。
その中で、心配そうに表情を曇らせてこちらを見つめる花理の姿だけは普段と異なっている。
「えっと……大丈夫って、何が?」
別に体調が悪いわけではないし、怪我をしているわけでもない。
授業中に何か大きな失敗をした記憶もない。今日も普段どおりの日常を送っていたはずだ。
首を傾げて問いかける璃羽とは対照的に、花理の表情はますます心配そうに曇っていく。
ほんのわずかな空白をおいたあと、花理はゆっくりと唇を動かした。
「その、あたしも上手くいえないんだけどさ……。今日の璃羽、いつもと何か違うというか……ぼんやりしてる感じだったから、何かあったのかなって」
「あー……」
花理が口にした言葉を耳にした瞬間、璃羽の顔に苦笑いが浮かんだ。
(多分、昨日のことを考えてたからだ)
璃羽の脳内に昨夜目撃した光景がよみがえる。
昨夜目撃した光景は、目覚めてからも璃羽の脳に焼きついたまま離れていない。
あの黒い獣は何だったのか。
あのとき助けてくれた青年は何者だったのか。
青年と一緒にいた虎のような姿をした獣は、一体何だったのか。
答えの出ない疑問は、朝を迎えてからもずっと璃羽の中で繰り返されており、そのたびにもやもやとした感覚が広がっている。
(でも、話しても信じてもらえないだろうしなぁ……)
人を飲み込めそうなほどに大きな黒い獣に襲われて。
同じ高校の制服を着た人が、大きな虎のような獣を呼び出して。
一人と一匹で黒い獣を追い払って助けてくれた――だなんて、いくら仲が良い花理だって信じてくれないだろう。
璃羽だって、まだ頭の片隅では悪い夢だったのかもしれないと淡い希望を願っているくらいなのだから。
頬をかき、璃羽は苦笑いを浮かべたまま花理へ答える。
「大丈夫、ちょっと怖い夢を見ちゃってさー……何度か思い出しちゃってただけだから」
悪い夢のような光景を目撃したのだから、嘘にはならない――と思いたい。
苦笑いを浮かべたまま答えた璃羽の様子をじっと見つめたのち、花理はわずかに首を傾げた。
「……そう? 本当にそれだけならいいんだけど」
「うんうん。それよりも、ほら、花理は部活あるんだから。早く行ってきたら?」
首を傾げた花理の表情は、まだあまり納得していなさそうなものだ。心配そうな表情にも大きな変化は見られないが、先ほどまでに比べると少々和らいだようにも見える。
気にするなとアピールするためにひらひらと手を振りながら、璃羽は教室にかけられた時計へと視線を向ける。
花理も同様に時計へ目を向けたあと、すぐに璃羽へと視線を戻し、小さく溜息をついた。
「とりあえず、今日はそういうことにしておいてあげるけど……何かあったら相談してよ。璃羽、昔っから何かあってもなかなか相談しないんだから」
「それは花理もでしょー。ほらほら、先輩のところに行った行った」
「またあとで連絡するからね! 全くもう」
そういいながら、璃羽は花理に後ろを向かせ、教室の出口へ向けて軽く背中を押した。
対する花理も苦笑いを浮かべて一言添えたのち、璃羽に促されるまま教室を出ていった。
元気よく駆けていく幼馴染であり、親友である彼女の背中を見送る。軽やかな足音も完全に遠ざかっていってから、璃羽は深い溜息をついた。
「……打ち明けられたらいいけど、打ち明けても信じてもらえないよね……やっぱり」
再度、璃羽の脳内で昨夜の光景が再生される。
吐きそうになるほどの獣臭も、そこに混じった鉄臭さも、まだはっきりと覚えている。早く忘れたいけれど、衝撃的すぎた光景は簡単には記憶から消えてくれそうにない。
思い出すたびに何ともいえない不安感ともやもやが胸の中に広がり、璃羽は一人で首を左右に振った。そして、気分を入れ替えようとするかのように自身の頬を軽く叩く。
「駄目だ、ずーっとあのときのこと考えちゃいそう。気分転換しよ、気分転換」
一人でぼんやりしているから、つい思い出してしまうんだ。
昨日は保留にした部活見学でもして、違うことを考えたら自然と忘れられるはず。
自身にそう言い聞かせ、璃羽も鞄を手に教室から離れる。迷いのない足取りで一階玄関付近に設置されている掲示板の前へ向かった。
ずらりと並んだ掲示物は大半が生徒に向けたお知らせで、試験や学校行事の日程を知らせるものだ。だが、今はその中に混じり、新入生へ向けた部活勧誘のチラシも一緒に貼られている。
サッカー部やテニス部といった代表的な運動部から始まり、演劇部や図書部といった文化部まで、さまざまな部活のチラシが並んでいる。
その中に一つ。あまり内容が想像できない部活動のチラシが璃羽の目にとまった。
「美食部……?」
思わず小さな声で呟き、璃羽は首を傾げた。
できるだけ目立つように貼られている他のチラシとは異なり、あまり目にとまらなさそうな端のほうに貼りつけられたチラシ。あまり目立たないその一枚には、美食部という部活動の名前が大きく記されていた。
「美食部って何をするんだろう……家庭科部とはまた別なんだよね?」
独り言を呟きながら、璃羽はもっと目立つ場所に貼られている部活勧誘のチラシへ目を向ける。
数多くの部活動名が並ぶ中には、家庭科部の名前もある。ということは、美食部と家庭科部は別の部活として存在しているということになる。
一体どんな部活なのだろうか――主な活動場所が調理実習室になっている辺り、調理実習に特化した部活なのだろうか。
「何、美食部に興味があるの?」
ふと。
ふと、璃羽の背後から声が聞こえた。
チラシへ向けられていた璃羽の目が大きく見開かれる。
低く、どこか気だるげにも聞こえる声は――昨夜、璃羽が耳にしたばかりの声だ。
背後に立つ誰かの姿を確認するために、璃羽は素早い動きで振り返る。
「……うん?」
「あ……」
璃羽の背後に立っていたのは、予想どおり、まだ記憶に新しい姿。
緩く結ばれた黒髪に赤い瞳。身にまとう男子制服には、あのどす黒い汚れは付着していない。
振り返った璃羽の顔を見つめ、青年もゆっくりと瞬きをし、首を傾げた。
「もしかして、昨日の奴か?」
背後から声をかけてきたのは――昨日、璃羽を謎の黒い獣から助けてくれたあの青年だった。
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