1-4 狩人の夜に出会う
獣の頭の後ろで、街路灯の光を反射して何かが銀色に煌めく。
次の瞬間、後ろから何者かが獣を斬りつけたのか、粘性を感じさせる液体が周囲に飛び散った。
獣臭の中に鉄臭さが入り混じり、巨躯の獣が悲鳴じみた声で咆哮する。
――ぉ、お、おお、おおお。
巨大な獣の喉から溢れた咆哮が空気をびりびりと激しく震わせた。
斬りつけられ、動きを止めた獣が振り返り、乱入者へ憎悪のこもった視線を向ける。
璃羽もその動きにつられ、ゆっくりとした動きでそちらへと目を向けた。
「ずいぶんと肥え太ってるな。すでに何人か喰らったか?」
獣の背後に立っていたのは、一人の青年だ。璃羽が通っている高校の男子制服に身を包んでいるが見覚えがない。クラス外の人間か、それとも同級生ではなく先輩にあたる生徒のどちらかだ。
長めの黒髪は首の後ろで緩く結び、簡単にまとめている。獣を見据える瞳は燃えるように赤い。手には食事で使われるような銀色のナイフが握られており、刃の部分にはどす黒い液体が付着していた。
璃羽に背を向けた獣の首元は一見わかりにくいが、てらてらと濡れている。
(あれで、攻撃したの?)
呆然とした気持ちのまま、璃羽は頭の片隅で考える。
いまだにわからないことだらけだが、新たに現れた青年は璃羽に危害を加えるものではなさそうだ。
手の中にあるナイフをぐるりと回転させたのちに握り直し、青年が獣へ刃を向ける。
「まあ、すでに人を喰らっているのなら安心して狩れるからいいけど」
青年を完全な敵と認識し、獣が怒りに満ちた声で咆哮した。
空気を低く、大きく揺るがす声は璃羽の心に強い恐怖を植えつけてくる。
だが、青年は怯えた様子を見せず、むしろどこか獰猛に笑ってみせた。
「来い、相手になってやる」
青年が発した言葉が引き金となり、獣が青年へ飛びかかった。
見た目に反して俊敏な動きでわずかに空いていた距離を詰め、青年へ鋭い爪を向ける。
「ッ危な……!」
はっと我に返り、璃羽が声をあげる。
だが、声を発するにはすでに遅い。獣はすでに青年の眼前におり、爪を振り下ろそうとしていた。
璃羽の頭に、獣の爪が青年の身体をあっけなく引き裂く瞬間が浮かぶ。
しかし、青年を引き裂こうとした爪が彼の身体に触れるよりも早く、青年の背後から黒い大きな影が飛び出し、黒い獣をいともたやすく横へ吹っ飛ばした。
びしゃり。嫌な音をたて、黒い獣の身体から溢れたどす黒い液体がコンクリートの地面を汚す。ずっと感じていた獣臭と鉄臭さがさらに強まり、璃羽は油断すると吐いてしまいそうなのをぐっと堪えた。
攻撃を受けた獣が体勢を整えるよりも早く、青年が獣の片目を狙って容赦なくナイフを振り下ろす。
銀色に磨かれた刃が獣の目を切り裂き、どす黒い液体が再び周囲に飛び散った。
――ぐお、ぉ、おお、おおぉぉ。
獣が苦悶の声をあげる。
だが、獣から戦意はまだ失われていない。片目の視界を失い、傷を負いながらも、近くにいる青年めがけてがむしゃらに爪を振るった。
青年がとっさに後ろへ下がるが、爪の切っ先が彼の肌をわずかに傷つけ、赤い血を滲ませる。
痛みを感じているはずだろうに、青年は涼しい顔のまま、自身の背後から現れた影へ視線を向けた。
彼の後ろから現れたのは、人一人を簡単に飲み込めそうなほどに大きな獣だ。璃羽を襲った獣と同じくらいの大きさをしているが、こちらは虎を思わせる姿をしている。黒い模様が浮かんだ白い毛並みには、コンクリートを汚すどす黒い液体が付着していた。爛々とした赤い瞳は青年ではなく、傷を負ってなお暴れまわる黒い獣へ向けられている。
「グルマンディーズ」
青年の呼びかけに反応し、虎が青年へ視線を向ける。
しかし、青年へ襲いかかることはなく、静かに次の言葉を待っていた。
「喰っていい」
青年の唇が短く言葉を紡ぐ。
その瞬間、虎が黒い獣を威嚇するかのように吠え、黒い獣へ飛びかかった。
鋭い牙が黒い獣の身体に食い込み、どす黒い液体を溢れさせる。
がき、ごり。獣の咆哮に混じる何かを噛み砕くかのような音が璃羽の耳の中で反響し、呼吸をさらに浅くさせた。
全部、全部これが悪い夢であったら――そう願うが、これは夢ではなく現実だ。
――ぉ、お、おお、おおお、おぉおお!
黒い獣が鋭い声で叫び、鋭い爪を虎に振るって抵抗する。
獣がみせた必死の抵抗に驚いたか、虎が牙を離して一度黒い獣から距離を取った。
その一瞬の隙をつき、黒い獣は地面を蹴って夜闇へ向かって駆け出し――まもなくして、夜闇の中へ溶け込むかのように姿を消した。
そうして、状況は今に戻る。
「……ねえ、本当に大丈夫?」
怪訝そうな青年の声に、は、と。回想に浸っていた璃羽の意識が引き戻された。
薄ぼんやりとしか見えていなかった視界が鮮明になり、青年の顔やその背後にいる巨虎の姿もはっきりと見えた。
瞬間、先ほどまで感じていた恐怖が璃羽の中でよみがえり、ひゅ、と喉が短く音をたてた。
「ッ!」
青年へまともに言葉を返さないまま、璃羽は素早く立ち上がる。
先ほどまで恐怖で動けなかったのが嘘だったかのように足を動かし、駆け出す。
とにかく一刻でも早く非日常に満ちた現場から逃げ出したくてたまらなかった。
「あ、おい――!」
背後で青年が声をあげているが、振り返る余裕も足を止める理由もない。
とにかく走って、走って、走って――見慣れた我が家が見えてくると、急いで玄関へ駆け寄った。
震える手で鍵を取り出し、自宅の中へ駆け込む。扉に鍵をかければ、ようやく璃羽がよく知る日常に戻ってこれたように感じる。
静寂と夜闇に包まれているが、鼻をくすぐるのは感じ慣れた自宅の匂い。周囲から感じる気配も過ごし慣れた我が家で感じるもので、急激に安堵感が璃羽の中で広がっていく。
緊張と恐怖の糸が途切れ、足から力が抜ける。その場にへたりと座り込んだ璃羽の目から、涙が遅れてぼろぼろとこぼれ落ちた。
「い、今、の」
今の、何だったの。
璃羽の唇からこぼれた一言に対し、答えてくれる声はどこからも聞こえなかった。
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