1-3 狩人の夜に出会う

「う、わ。思ったよりも遅くなっちゃった……」


 行きつけのブックカフェでたっぷり時間を潰した頃には、夕暮れの色が混ざっていた空はすっかり夜闇の黒に染め上げられていた。

 数分前までは確かにあった太陽も隠れ、かわりに月が静かな光を地上へ注いでいる。真っ暗な空のキャンパスにはぽつぽつと白い星粒が浮かび、今の時間が夜であることを知らせていた。


 璃羽はわずかに表情を引きつらせ、鞄から愛用のスマートフォンを取り出す。ロック画面に表示されているデジタル時計が示している時間は十九時半。両親からの連絡がない辺り、二人はまだ帰ってきていないのかもしれないが――これ以上遅くなるのはさすがにまずい。


「早く帰らないと……お父さんもお母さんも、もしかしたらいつもより早く帰ってくるかもしれないし」


 スマートフォンを鞄の中に戻し、歩き出す。

 日中は人通りが多い道も、夜になると人通りが自然と減って静かになる。街路灯の明かりに照らされた道は何度も歩いてきた道だが、夜になるだけで異なる表情を璃羽へ見せた。


 かつり、こつり。ローファーの底がコンクリートの道を叩き、軽やかな足音を夜の空気へ伝える。

 一人分の足音を奏でながら歩く間、璃羽の頭の中には花理のことがちらついていた。


「……花理、ちゃんと図書部の見学に行けたかな」


 あの様子なら、見学後すぐに図書部へ入部届けを出しているかもしれないが。

 明日、また顔をあわせたら図書部の様子はどうだったか、ちゃんと入部届けを出せたかどうか、聞いてみてもいいかもしれない。

 もしかしたら恥ずかしがってごまかされてしまうかもしれないが、そのときはそのときだ。

 花理のことを思い出すとまだ少し寂しさが心を蝕んだが、ブックカフェで過ごすうちに心の整理がついたらしい。学校を出た直後のときよりも感じる寂しさは和らいでいた。


 ――……か、ちゃっ。


 ふと。

 璃羽の足元から奏でられる足音とは異なる音が夜の空気を震わせた。

 足を止めて周囲を見渡すも、明かりがついた街路灯がぽつぽつと並んでいるだけで璃羽以外に人の気配はない。

 気のせいだったのだろうか――首を傾げつつ止めていた足を踏み出した。


 か、ちゃっ。


 足音に混じり、先ほどと同じ音が空気を震わせる。

 璃羽が足を止めればその音も止み、璃羽が再び歩き始めると再び聞こえ始める。

 一度だけなら気のせいで片付けられる音も、さすがに何度も繰り返し響けば気のせいで済ませることはできない。


 ぞわり、と。夜闇の冷たさが璃羽へ這い寄り、なんともいえない不気味さが足元から全身へと登ってくる。

 璃羽の身体がこわばり、不安と緊張で心臓が早鐘を打ち始めた。


(早く、帰らなきゃ)


 具体的に何がといわれると答えられないが、何かがおかしい。何かが起きている。

 ゆったりとした歩調を早め、早歩きで自宅まで続いているはずの道を歩く。どこかから先ほどまで聞こえていた音が空気を震わせ始めれば、どんどん璃羽の足が早まり、最終的に走り出した。


 だが、走っても走っても、聞こえてくる音が遠ざかることはない。まるで璃羽のあとをぴったりくっついてきているかのように、かちゃかちゃと璃羽の鼓膜を震わせ続けた。

 硬いコンクリートに爪が触れて奏でられているかのような音が聞こえるたび、璃羽を苛む恐怖や緊張はどんどん強まっていった。


「は、は、は――!」


 早く、早く、帰らないと。

 とにかく早く、安心できる場所へ。


 呼吸がどんどん荒くなり、璃羽の足も前へ前へと進み続ける。

 振り切れない爪の音に加え、空気がどんどん生暖かくなってくる。生臭さや獣臭さも空気の中に混じりはじめれば、いよいよ璃羽の心を強い恐怖心が支配した。

 正体のわからない不安と恐怖が璃羽を内側からかき乱し、平常心を失わせていく。


 今、この状況でわかることは璃羽の身に正体不明の危険が迫っているということだけだ。


「ッ!」


 走り続けていた足がもつれ、視界が大きく揺れる。次の瞬間には転倒し、コンクリートの地面がざりざりと肌をなめた。

 衝撃とともに伝わってきた痛みが襲いかかり、涙で視界を滲ませる。

 唇を噛んで痛みに耐えながら、璃羽は地面に両手をついて起き上がる。追っ手との距離を確認しようとして、振り返った。


 街路灯の頼りない明かりに照らされ、璃羽を追い続けていた追跡者の姿が夜闇から浮かび上がる。

 夜闇をそのまま溶かし込んだかのような黒い毛並みをもつ巨大な獣だ。前足と後ろ足からは赤黒い汚れがこびりついた鋭い爪が伸びており、それが地面に触れるたびに音をたてている。人一人を簡単に飲み込めそうなほどに大きな口には鋭い牙がずらりと並んでいた。


 犬に近い姿をしているが犬よりもはるかに大きく、はるかに醜悪で、はるかに恐ろしい。

 黒い巨躯の獣は、どろりとまとわりつく嫌な気配を感じさせる緑色の瞳で璃羽を睨むように見つめていた。


 一歩、一歩。獣が璃羽へ近づいてくるたびに、空気に溶け込んだ獣臭が増していく。油断すると吐いてしまいそうなほどに強い獣臭の中、璃羽は手を口に当てた。

 理解が追いつかない現実を目の前にし、璃羽の喉が声にならない悲鳴をあげる。


 ――うぉう、うぉう、うぉう。


 恨みがましそうな、恐怖心を感じさせる低い声が空気を揺るがした。

 璃羽の呼吸が浅くなり、短い呼吸を繰り返す。危険を目の前にし、脳は警鐘を鳴らし続けるが、痛みと恐怖で縛られた身体は指一本も動いてくれなかった。

 狙いを定めた獣が地面を蹴り、璃羽へ飛びかかる。

 鋭い爪が皮膚を裂き、太い牙が身体を噛み砕くビジョンが脳裏に浮かび、璃羽は己の死を覚悟した。


 直後。


「見つけた」


 一言。短い言葉が璃羽の耳に届いた。

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