1-2 狩人の夜に出会う

「璃羽ー!」


 青い空に少しの夕暮れの色が混じり始めた時間帯。

 幼い頃からずっと耳にしてきた声に名前を呼ばれ、璃羽は振り向いた。

 多くの生徒にとって、待ちに待った放課後。全ての授業を終え、ようやく手にした自由な時間。ある者は友人と語らいながら昇降口へ向かい、またある者は部活動に勤しむためにそれぞれの部活へと向かっている。

 多くの生徒が行き交う廊下で、璃羽を呼んだ声の主は真っ直ぐこちらへ駆け寄ってきていた。


「花理。どうしたの?」


 幼い頃からずっと一緒だった彼女の名前を口にし、璃羽は柔らかく表情を緩ませた。

 待雪花理まつゆき はなり。それが璃羽に声をかけてきた彼女の名前だ。

 ふわふわとした長いミルクティー色の髪にヘーゼルの瞳が特徴的な花理は、幼い頃からともに育ってきたいわゆる幼馴染だ。家が近所ということに加え、同じ学校に通い続けたのもあり、まるで姉妹か何かのように仲が良い。


 ずいぶんと急いでいた様子だが、どうかしたのだろうか――内心首を傾げる璃羽だったが、その答えは顔の前で両手をあわせた花理によってすぐに明らかになった。


「ごめん! 今日、放課後に部活見学に行く約束だったけど……気になる部活見つけちゃって。一人でゆっくり見学したいなって思ってて……」

「あ、なるほど。慌てて駆け寄ってきたからどうしたんだろうって思ったけど、そのことだったんだ」


 花理の口から告げられた言葉に、璃羽は納得したような声色でそういった。

 璃羽と花理は、ここ、月ヶ瀬高校へ新たに入学してきた一年生だ。入学してからすでにそれなりの時間が経っているが、二人とも所属する部活をまだ見つけられておらず、授業が終われば真っ直ぐ自宅へ帰る生活を送っていた。


 せっかくの高校生になったのにこれではもったいない――と二人揃って考え、今日の放課後、部活見学に向かう約束をしたのが昨日のことだ。

 申し訳なさそうな顔をしている花理とは対照的に、璃羽は柔らかな笑顔のまま、彼女の両肩をぽんぽんと叩いた。


「別にいいよ。花理が見学したいって思える部活を見つけられたのなら良いことだと思うし。私のことは気にせずに、ゆっくり見学してきて」

「うう……約束してたのに本当にごめんね。でも、ありがとう。璃羽」


 申し訳なさそうだった花理の表情が少しずつ和らぎ、ほっとしたようなものへと移り変わっていく。

 大事な幼馴染から不安を取り除けたことに、内心璃羽もほっと息をついたあと、彼女の耳元へ唇を寄せた。


「ところで……その気になる部活って、真島野ましまの先輩が入ってる部活?」

「えっ……!?」


 ぼ、と音が聞こえそうな勢いで花理の頬が赤く染まる。

 非常にわかりやすい彼女の反応を前に、璃羽は思わずくすくすと笑った。


(ああ、やっぱり)


 微笑ましさと少しの寂しさが璃羽の胸をよぎる。


「ま、待って璃羽、いつから気づいてたの!?」


 真っ赤な顔のまま、花理が慌てたような声色で璃羽へ問いかける。


「んー、つい最近。花理、真島野先輩の名前が聞こえたら視線をそっちに向けることが多かったし。部活に入るなら一緒のところ入りそうだなーって思ってたから」


 真島野先輩――そう呼ばれる三年生に花理がよく目を向けていることに気づいたのは、本当につい最近のことだ。

 真島野友哉ましまの ゆうや。図書部に参加している三年生で、璃羽たち一年生からすると二学年上の先輩だ。長すぎない黒髪に眼鏡をかけている一見すると地味な印象がある男子生徒だが、どこにどんな本があるかわからずに困っていた璃羽たちをわかりやすい説明で助けてくれた優しい人だ。


 思えば、真島野先輩に助けてもらった日、花理がどこかぼんやりとした目で彼の背中を見つめていた。あのときにはすでに心を奪われていたのかもしれない。

 璃羽の返事を耳にし、両手で真っ赤になった己の頬を押さえる花理の様子は、まさに恋する乙女だ。


「ふふ、応援してるよ! 花理。頑張ってね」


 もう一度ぽんぽんと幼馴染の両肩を叩き、璃羽は笑う。

 まさか璃羽に自身が抱えている想いがバレているとは思っておらず慌てふためいていた花理も、だんだん落ち着きを取り戻してきたらしく、気恥ずかしそうに笑った。


「もー……でも、ありがと。璃羽。あたし頑張るね!」

「ん、その調子。ほら、図書部の見学行くなら早く行っておいで」

「本当にごめんね、でもありがと! この埋め合わせは必ずするから!」


 そういって、花理は気恥ずかしそうな――けれど、どこか嬉しそうな笑みを見せ、璃羽の傍を離れる。軽やかな足音をたてて来た道を戻ったあと、一度だけこちらを振り返り大きく手を振ってから、今度こそ走り去っていった。

 璃羽も花理へ向かって手を振り返し、彼女の背中が完全に見えなくなるまで見送る。

 やがてゆっくりと手を下ろし、璃羽は小さく息を吐いた。


「……うーん、喜んで送り出したけど。やっぱりちょっと寂しいなぁ」


 違う人間なのだから、いつまでも一緒にはいられないとわかっていたつもりだけれど。

 なんともいえない寂しさを噛みしめながら、璃羽は昇降口へと向かう生徒たちに混じり、自分も昇降口へと足を進めた。

 一人で部活見学に行ってもいいのだが、なんだかあまりそんな気分にはなれない。二人で部活見学に行く予定もなくなってしまったし、部活見学は後日に回し、今日は好きなことに時間を使いたい気分だ。


(お気に入りのブックカフェに寄り道して帰ろうかな)


 この先の予定を考えながら、璃羽は自分の靴箱からローファーを取り出して上履きから履き替える。

 夕暮れの色が混じり始めた空をちらりと見てから、ゆるりとした足取りで校舎から外へ出た。


「……?」


 その瞬間。

 どこかから視線を感じたような気がし、足を止める。

 振り返ってみても、周囲を見渡してみても――そして念の為に校舎を見上げてみても、璃羽のほうを見ている人物の姿はどこにも見当たらない。


「……気のせいだったのかな」


 それにしては、はっきり感じたような気もするけれど――。

 内心首を傾げながら、璃羽は今度こそブックカフェに続く道を歩き始めた。


 校舎から伸びる影の中。どろりとした感情を込めた瞳が、校舎からどんどん離れていく璃羽の背中を見つめていた。

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