番外編:薙くんの苦難と幸福に満ちた一日(前)

「ごめんなさい、本当にごめんなさい……わたしのせいで」


 陽毬は大きな瞳を潤ませながら、おれの左手をぎゅっと握りしめる。震える華奢な肩を、よっぽど抱き寄せてやりたかったけれど、肘から下をギプスで固められた腕は思うように動かせない。


「陽毬のせいじゃないよ。完全におれが悪いし……」

「でも、わたしのこと助けようとしてくれたんですよね」


 ごめんなさい、と陽毬が俯く。長い睫毛が白い頰に影を落とした。

 陽毬が謝れば謝るほど、おれは情けない気持ちになる。今回の件は全面的に、おれ一人のせいなのだ。

 全治二ヶ月ですね、という医者の言葉を思い出して、おれは深い溜息をついた。


 かなり情けない話だが、一応事の顛末を説明しておこう。

 三学期が始まってしばらくした、ある日の放課後。いつものように教師からの頼まれごとを引き受けた陽毬は、音楽室から荷物を運び出していた。

 巨大な段ボールを抱えたまま階段を下りようとする陽毬を目撃したおれは、彼女に向かって声をかけた。


「陽毬、危ないよ。おれも手伝う」

「へっちゃらです! これ、見た目ほど重くないんですよ」

「でも、足元見えてないだろ」


 今日はしとしとと冷たい雨が降っていて、校舎の床もやや濡れて滑りやすくなっていた。天候のせいか陽毬の体調もあまり良くなさそうで、なんだか空元気を出しているように見えた。

 やっぱりおれが持つ、と言おうとしたところで、階段を降りていた陽毬がバランスを崩した。危ないと思うと同時に、おれはその場から駆け出していた。

 次の瞬間、濡れた床に足を滑らせたおれは、盛大にその場ですっ転んだ。


「な、薙くん!」


 陽毬の悲鳴にも似た声が響く。転倒したおれは、反射的に床に手をついたけれど、ボキッ、という嫌な音が聞こえた。


「薙くん、薙くん。大丈夫ですか!?」


 段ボールを抱えたまま、陽毬が軽快に階段を駆け下りてくる。彼女は転倒せずに持ち堪えたらしく、完全に無傷だった。ほっとすると同時に、手首に激しい痛みが襲ってくる。


「……ってぇ……」

「な、薙くん。手、見せてください」


 おれは痛みに蹲りながらも、陽毬に向かって右手を見せた。パンパンに腫れたおれの手首を目の前にして、陽毬の顔がさあっと青ざめる。まるで自分が怪我をしたみたいに、今にも泣き出しそうな顔をしている。

 そのまま陽毬が保健の谷口先生を呼んできてくれて、おれは病院に連れて行かれた。診断は右手首骨折。牛乳をたらふく飲んでいた甲斐もなく、おれの骨はそれほど丈夫でなかったらしい。


 ……とまあ、つまり。ドジなおれは、陽毬を助けようとして一人で勝手に転んだだけだ。陽毬は少しも悪くないのに、責任を感じて落ち込んでいる。

 陽毬はこの世の終わりかのように打ちひしがれていたけれど、やがて顔を上げると、胸の前でぐっと拳を握りしめた。


「……決めました。わたし、薙くんの怪我が治るまで、全力で薙くんのお世話をします!」

「ええ? い、いいよそんなの。悪いよ」

「だって、おばあさまも今旅行中なんでしょう? その手で、一人で生活するのは大変ですよ」


 陽毬の言う通り。今バアちゃんは町内会の旅行でルーマニアに行っている。吸血鬼ドラキュラの居城であるブラン城に行くのだと、出発前からやけに張り切っていた。相変わらず元気なばあさんだ、まだまだ死にそうにない。


「このままではわたしの気が済みません! 薙くんのために、なんでもしますから!」


 メラメラとやる気に燃えている陽毬に、ありがたいと思いつつも、おれは正直困惑していた。彼女のことだから、やるからには本当に全力を尽くしてくれるに違いない。

 ……なんでもって、一体どこまでしてくれるんだろ。

 ついつい、いかがわしいことを考えそうになって、おれは慌てて煩悩を振り払った。




 全力でお世話します、という陽毬の言葉に嘘はなかった。

 怪我をした翌日、陽毬は朝からおれを迎えに来てくれた。制服に着替えるのを手伝ってくれて、眠たげに目を擦るおれの寝癖を直してくれた。荷物を持ちますという申し出は断ったが、おれのために日傘をさしてくれた。おれたちは相合傘で、仲睦まじく登校した。

 授業中はおれのぶんまでノートを取ってくれて、休み時間に喉が渇けば飲み物を差し出してくれて、移動教室の際は手を繋いでエスコートをしてくれた。昼休みには陽毬のお手製の弁当を「あーん」で食べさせてくれて、食後に歯磨きまでしてくれた。まさに至れり尽くせりだ。

 陽毬に甲斐甲斐しくお世話されているおれに向かって、隣の席の松永は冷ややかな目を向けてきた。


「……山田くんが骨を折ったと聞いたときは、気の毒だと思ったけれど。その姿を見ると、なんだか同情する気も失せるわね」


 おれのために牛乳パックのストローを刺している陽毬を横目に、松永は呆れ混じりに言う。

 陽毬はむっと唇を尖らせて、松永に言い返した。


「松永さん。わたし、無理やりやらされてるわけじゃないですよ。したくてしてるんです」

「それはわかってるわ。ただ、黙ってされるがままになってる山田くんにも、ちょっと問題があるわね」

「そんなこと言わないでください! されるがままになってるところがとっても可愛いんですから! 薙くんほどお世話のしがいがある男の子なんて、そうそういませんよ!」

「……陽毬。それ、褒め言葉?」

「もちろん!」


 おれの問いに、陽毬は自信満々で頷いた。

 彼女に悪気はないのだろうが、お世話しがいがある、と豪語されるのもかなり複雑だ。おれ、そんなに頼りないかなあ……一応、それなりにしっかり生きてきたつもりなんだけど。


「薙くん、牛乳どうぞ」


 陽毬はにっこり笑って、おれに牛乳を手ずから飲ませてくれようとする。うっかりそのままストローを咥えかけたが、松永の視線がビシビシと突き刺さった。

 しまった。二人きりでないのに、それはまずい。


「じ、自分で飲むよ……」


 さすがに恥ずかしかったので、おれは左手で牛乳パックを受け取った。陽毬は露骨に残念そうな顔をする。そんなおれたちを、松永はジト目で睨みつけてきた。


「……一応聞くけれど、介助行為なのよね?」

「も、もちろんです! やましい気持ちなんて、これっぽっちもありません!」


 松永の問いに答える陽毬の声は、ちょっとだけ裏返っていた。

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