42:世界一可愛いワガママ
氷のように冷たい畳の上で、わたしはぱらぱらという雨音に怯えていた。雨を弾く窓ガラスの向こう側の景色が滲んでいく。
吸血鬼に襲われたあの日から、雨が嫌いな理由が増えてしまった。がぶりと首筋に噛みつかれた感覚を思い出して、身震いする。
昨夜から何も口にしていないのに、不思議と空腹は感じなかった。南向きの窓から射し込んでいた僅かな太陽の光もなくなってしまうと、どんどん気温が下がっていく。薄っぺらい毛布は身体を温めてはくれても、冷え切った心を温めてはくれない。
学校もバイトも休んでしまった。あんなことがあった直後だからか、休みの連絡を入れたときも、小早川先生も店長も快く受け入れてくれた。こっちは大丈夫だからゆっくり休むようにと、優しい言葉もかけてくれた。ありがたかったけれど、わたしの代わりはいくらでもいるんだな、と余計に虚しくなってしまった。
クラスメイトもバイト仲間も先生も伯母も、わたしのことを想ってくれているのに――どうしてわたしは、いつまでたったも満たされないんだろう。
空虚な気持ちで天井を見上げていたわたしは、気付けば苦しまずに死ぬ方法を考えていた。
今夜は今年一番の冷え込みになる、と先ほど見た検索サイトのトップニュースに表示されていた。このまま一夜を明かせば、めでたく凍死できるかもしれない。果たして凍死は苦しいんだろうか。眠っているあいだに死ねれば一番幸せだけれど、そんなに上手くはいかないかな。
――嫌だよ! そんなの当たり前だろ。
――一番ヶ瀬さんが怖い思いするの嫌だから。
――おれ、陽毬がいなくなったら困るよ。
いつか聞いた薙くんの声が、頭の中で響く。いつだって真剣に、わたしのことを心配してくれた人。わたしのことを、大事にしてくれた人。もしも今わたしが死んだら、薙くんは悲しんでくれるかな。そんなバカなことするなよって、怒ってくれるかな。
――最期に、薙くんに会いたいな。
首だけを回して、アパートの扉を見つめる。ぴたりと閉じたまま開く気配がない。十年前にも、似たようなことがあった。扉を開いて、ひとりぼっちのわたしを迎えにきてくれる人を待っていた。わたしの手を振り払ったあの人が、戻ってくることはない。
わたしが悪いんだ。約束を破って、他の人に血を飲まれたりしたから。わたしがいい子じゃなかったから、薙くんにも見捨てられてしまった。
気付けば目から涙がこぼれて、こめかみを伝って畳に落ちた。水さえほとんど飲んでいないのに、一体どこから水分が出てくるのだろう。もし薙くんがここにいたなら、わたしの涙も残さず飲み干してくれるだろうか。
薄暗い部屋の中に、雨の音だけが響いている。涙を拭う気力すらなくて、ゆっくりと目を閉じた、そのときだった。
「陽毬」
扉の向こうから、わたしを呼ぶ声が聞こえた。幻聴かと思った。さっきまで思い出していた声と、まったく同じだったから。
しばらくしてから、ドンドンドン、と扉を叩く音がする。ちょっとご近所迷惑になりそうなくらいに、大きな音だ。そういえばこの部屋のインターホンは、ずいぶん前から壊れていた。唖然としていると、再び「陽毬!」という声が響く。
わたしは起き上がると、震える手でドアノブを握って――十年前には開かなかった扉が、ゆっくりと開いた。
「陽毬……なんで、泣いてるの……」
そう言った彼はずぶ濡れで、息を切らしながら、怒ってるみたいな、泣いてるみたいな顔でこちらを見ている。
ずっとずっと待っていた人が、わたしのことを迎えにきてくれた。
思わずわたしは、薙くんの胸に飛び込んでいた。雨が染み込んで濡れたコートが驚くほど冷たい。でも、離れたくない。
彼の肩が戸惑ったように跳ねたけれど、躊躇いがちに伸びてきた手が背中を撫でてくれる。未だ部屋の中には不快な雨音が満ちていたけれど、もう恐ろしいとは思わなかった。
「薙くん、会いたかった……」
薙くんがわたしの頬を両手で包み込む。濡れた前髪が額に張りついている。流れる涙を冷たい指で拭われると、余計に泣きたくなってしまった。困らせたくはないのに、涙が止まらない。
ああ、こんなの全然いい子じゃない。
「……陽毬が一番怖いとき、そばにいてあげられなくてごめん」
薙くんの言葉に、わたしはぶんぶんと首を振る。
たしかに怖かったけれど、寂しかったけれど。そんなことよりも今は、こうして会いに来てくれたことが嬉しい。彼は辛そうに眉を寄せながら、続ける。
「……おれ、怖くて。おれもあいつと同じ、吸血鬼だから……おれも陽毬のこと、傷つけるんじゃないかと思って……」
「そ、そんな! な、薙くんはあの男とは違います。わたし、薙くんに血を飲まれるのは、全然嫌じゃないです……」
「……なんで?」
「わ、わたしが薙くんのことを、好きだから、です」
きっぱりと答えたわたしに、薙くんは心の底からほっとしたように頰を緩めた。久しぶりに見れた笑顔に、胸がきゅんと高鳴る。
――わたしはもうこの人のことを、絶対に手放したくない。
頰に当てられた手に、自分の手をそっと重ねる。ひんやりと冷たい手が、次第にわたしと同じ温度になっていく。
「……な、薙くんは……わたしのこと、もういらなくなりましたか? わたしがいい子じゃないから?」
「そんなことない!」
「血でもなんでも、薙くんの欲しいもの全部あげるから……だから、いらないなんて、言わないでください……」
みっともなくしゃくりあげながら、必死で縋りつくことしかできない。どれだけ自分が傷ついたっていい。自分の血を捧げること以外に、この人を繋ぎ止めるすべを、わたしは知らない。
下を向いてしまったわたしの頭を、薙くんが撫でてくれる。「陽毬」と、小さな子どもをたしなめるように名前を呼ばれて、わたしは顔を上げた。少し赤みがかった、優しい瞳にまっすぐ見据えられる。
「……おれさ。陽毬に一方的に与えてもらうだけじゃ、嫌なんだ」
「……え?」
「陽毬もおれのこと、ちゃんと欲しがってほしい。もっとワガママ言って甘えたっていい。陽毬が望むものなら、全部あげたい」
「でも……」
そんなこと、今まで誰にも言われたことがなかった。母に置いて行かれたあの日から、わたしはワガママを言えなくなってしまった。誰かに甘えることなんて、できなかった。
あのとき告げられた「いい子にしててね」という言葉は、今も呪いのようにわたしの心を雁字搦めにしている。
「……いい子じゃなくても……き、嫌いになったり、しませんか?」
おずおずと問いかけたわたしに、薙くんは優しく笑って頷いてくれた。
「優等生じゃなくても、いい子じゃなくても、おれは陽毬のことが大好きだよ」
しゅるりとリボンを解くみたいに、容易く。その言葉は、わたしにかけられた呪いを優しく解いてくれた。
もしかするとわたしは、誰かに「いい子じゃなくてもいいよ」って言ってほしかったのかもしれない。わたしはきっとずっと、こんな風に必要とされたかった。
「わ、わたし、ほんとは……薙くんに天使って言ってもらえるような女の子じゃないです」
「……うん」
「……薙くんが思ってるよりずーっと嫉妬深くてめんどくさいですよ」
「ヤキモチ妬きな陽毬も、おれは可愛いと思う」
「他人に優しくしてるのも、自分が気持ち良くなりたいがための偽善です」
「陽毬にとっては偽善でも、それに助けられてる奴はいっぱいいる。おれだってそうだよ」
トゲトゲ尖ったわたしの本性を、薙くんは真綿のような柔らかさで包み込んでくれる。薙くんと一緒にいると、自分の存在が許されたような気がする。
おそるおそる手を伸ばすと、彼はぎゅっとその手を握りしめてくれた。
――薙くんはきっと、わたしのことを見捨てたりしない。
「……じゃあ……わ、ワガママ、言います」
「ど、どうぞ!」
「……わ、わたし、襲われたときすごく怖かった。それなのに薙くんは全然会いに来てくれなくて、すごく悲しかった。一方的に拒絶するなんて、ひどいです」
「う……ほ、ほんとにごめん……」
「……悪いと思ってるなら、もう大丈夫だよって言って、いっぱい抱きしめてほしい。あの男に触られたところ全部、上書きしてほしい……」
「……うん、わかった」
「わ、わたしのこと、好きになってほしい。他の子のことなんて、目に入らないくらいに。わたしのことだけ、特別大好きでいてほしい」
「そんなの、いまさらだよ」
「それから、どこにも行かないで……ずっと、わたしのそばにいてほしい」
溜め込んでいた「ワガママ」を全部ぶちまけると、薙くんは肩を揺らしてくっくっと笑った。
どうして笑われたのか不思議で、わたしは「だめでしょうか……」と首を傾げる。彼は至極嬉しそうにわたしの頰を包み込んで、こつんと額を合わせてくれた。
「……世界一可愛いワガママだ」
そう言って薙くんは、繋いだままの手を引いた。彼の腕が、ぎこちなく背中に回される。
――からっぽだったわたしの心を満たすのは、いつだって薙くんのぬくもりだった。
首に残った忌まわしい傷を上書きするかのように、そっと唇が寄せられる。頰に触れる髪がくすぐったくて、身じろぎをした。
「……痛くない?」
「平気、です。……飲みますか?」
「ううん。今はやめとくよ」
断られて少し残念だったけれど、血を求められなくても、もう不安にはならなかった。優しい声が、頭の上から降ってくる。
「……おれも、吸血鬼だから。これから陽毬のこと、いっぱい傷つけるかも」
「薙くんにつけられる傷なら、全然痛くないです。わたし、薙くんにされて嫌なことなんて、ひとつもありませんから」
「……ほんとに? おれ、結構すごいこと考えてるけど……」
「すごいことって、何ですか?」
「…………」
口にできるような内容ではなかったのか、薙くんは押し黙った。いくつかの「すごいこと」を想像してみたけれど、相手が薙くんならば、よほどのアブノーマルプレイではない限り、受け入れられる気がする。
薙くんは気まずそうに目を泳がせていたけれど、「と、とにかく」とひとつ咳払いをした。
「したくなったら、言うから……陽毬が嫌なときは、ちゃんと断って」
「わかりました」
「だから陽毬も、陽毬がしたいこと全部言ってほしい」
「……では。お言葉に甘えて、もうひとつだけ」
わたしは薙くんの胸に顔を押しつけたまま、「もっとぎゅっとして」と小声で囁く。そんなわたしのワガママを、彼は笑って叶えてくれた。
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