24:鬼が来たりて
夏休みが終わり、二学期が始まった。一ヶ月半ですっかり夜型になってしまった生活リズムを戻すのには苦心したが、おれは遅刻することもなくきちんと通学している。保健室に行く頻度も、うんと少なくなった。
学校に行けば、一番ヶ瀬さんに会える。血を飲まなくても、彼女の笑顔を見るだけで力が湧いてくるのは何故だろう。一番ヶ瀬さんは、やっぱり不思議な女の子だ。
毎日好きな女の子の血を飲んでいるおれは、心身ともに元気だったけれど、良いことばかりではなかった。隣の席から、わざとらしい大きなため息が聞こえてくる。
「はあ、最悪の気分だわ……」
聞こえよがしに呟かれた声に、おれは素知らぬふりで教科書をめくる。次の授業はリーディングだから、きちんと予習をしておかなければ。
せっせとノートに英訳をメモしていると、再び隣から大きな溜息が聞こえてきた。
「なんであなたが隣なのよ」
ギロリと睨みつけてくる松永に、おれは心の中で「こっちのせりふだ」と言い返す。もちろん、口に出すことはできない。
彼女と隣の席になって一週間で、おれはようやく「無視を貫くのが一番精神衛生上まし」と気がついた。とはいえ、ネチネチと嫌味を言われるストレスがなくなるわけではないのだけれど。
二学期が始まってすぐ、席替えが行われた。
クラスメイトはくじを引くたびに一喜一憂し大騒ぎしていたが、友人のほぼいないおれにとっては、どの席になっても大勢に影響はない。
軽い気持ちでくじを引くと、廊下側の一番後ろだった。太陽の光も当たらないし、授業中に居眠りをしてもバレにくい。かなり当たりの部類だ。
と、思っていたのだが……おれの隣に机を移動させて来たのは、松永あいさだった。
松永は露骨に嫌な顔をして、「なんで吸血鬼と並んで授業受けなきゃいけないの」と不服そうにしていた。おれも不服だったが、顔に出さないよう努力はした。
一番ヶ瀬さんに「松永さん、わたしが席代わりましょうか」と言われていたけれど、「一番ヶ瀬さんがそんな危険を冒すことはないわ」と断っていた。おれのことを何だと思ってるんだろう。というか、おれは一番ヶ瀬さんの隣がよかった……。
一番ヶ瀬さんの席は、窓際の前の方だ。教師に何か用事を言いつけられたのか、笑顔で頷いて立ち上がる。教室を出る寸前、こちらを向いて手を振ってくれた。おれはノートで顔を隠しながら、こっそり手を振り返す。
「なにデレデレしてるの?」
松永がギロリとこちらを睨みつけた。いや、別にデレデレは……ちょっとしてたかもしれないけど。
おれが無視を貫いているのが気に入らないのか、松永は腕組みをして眉根を寄せる。
「あなた、ちょっと一番ヶ瀬さんに優しくしてもらってるからっていい気なってるんじゃないの? 言っとくけど、あの子は誰にでも優しいんだからね」
「……知ってるよ、そんなこと……」
一番ヶ瀬さんの話を持ち出されたので、思わず反応してしまった。
松永に言われるまでもなく、一番ヶ瀬さんがみんなに優しいことなんてわかっている。自分を必要としてくれる人なら、誰でもいいってことも。
「どうして一番ヶ瀬さんは、やたらとあなたに構うのかしら」
松永が心底不思議そうに首を捻る。おれはその理由を知っていたけれど、答えなかった。代わりに、別の質問を投げかける。
「……なんで松永……さんは、そんなにおれに突っかかってくるの」
夏休みが明けてから、こいつのおれへの態度はますます酷くなった気がする。松永はふんと鼻を鳴らした。
「私、一番ヶ瀬さんのことが心配なのよ。あなたたち、最近距離が近すぎるわ」
「そ、そうかな」
第三者の目からは、そういう風に見えるのだろうか。血を飲むために抱きついたり噛みついたりしているせいで、クラスメイトとしての適切な距離感を見失っているのかもしれない。
……いや、おれにとっては役得なんだけどさ。
「……一番ヶ瀬さんが吸血鬼の毒牙にかかったらと思うと……ああおぞましい……」
松永はそう言って、大袈裟なぐらいに身を震わせた。
彼女にとって、零児の吸血現場はよほど大きなトラウマだったらしい。吸血鬼が血を飲む光景を実際に目撃したら、嫌悪感も抱いても仕方がないだろう。ということは、やっぱり全部零児が悪い。
「よ、ナギ」
そんなことを考えていると、廊下側の窓が開いて零児が現れた。なんというタイミングの良さ……いや、悪さだ。
「げっ、如月くん! 何しに来たの!?」
案の定、松永は血相を変えて立ち上がると、ツカツカと零児のもとに歩み寄った。零児の方も彼女に冷たい目線を向け、不快感を露わにする。
「だーかーらーおまえに用事はねえっての。いちいちでしゃばってくんなよ。何、もしかして俺のこと好きなの?」
「馬鹿なこと言わないで。不愉快だから私の前に顔を見せないで。同じ空気も吸いたくないから息も止めて」
「……れ、零児、何の用?」
一触即発の雰囲気に、おれは慌てて二人の間に割り込んだ。零児は気を取り直したように、「あ、そうそう」とこちらに向き直る。
「陽毬ちゃんいる?」
「……は?」
「なに気安く一番ヶ瀬さんの名前呼んでんのよ!」
おれの後ろで松永さんがギャーギャーとうるさく騒ぎ立てた。いつもは鬱陶しい奴だが、今回ばかりはおれも彼女に同意である。
夏祭りの日に静奈が「ひまりちゃん」と呼んでいたけれど、まさか零児まで便乗するとは。おれはまだ、彼女のことを名前で呼んだことは一度もないのに。
内心のモヤモヤを悟られないよう、平坦な声で「一番ヶ瀬さんなら、今いないよ」と答える。意図したわけではないけれど、ちょっとそっけない言い方になってしまった。
「そっかー。じゃあ、昼休み一緒にメシ食おうって伝えといて」
「……え」
「行かないわよ、そんなの!」
「おまえに言ってねーよ! じゃあなナギ、よろしくー」
零児は松永に向かって舌打ちをしてから、ひらひらと手を振って去っていった。松永はその場で地団駄でも踏みそうな勢いで「なんなのよ! あいつ!」と憤っている。
もしかすると零児は、一番ヶ瀬さんに目をつけたのかもしれない。あいつは女に対して節操がないし、一番ヶ瀬さんはとびきり可愛い(しかも処女)からありえることだ。
――どうしよう。あんな全身が下半身でできてるような奴に迫られたら、一番ヶ瀬さんはひとたまりもないぞ。
おれはその場に立ちすくんだまま、ぞわぞわと迫り来る嫌な予感に身を震わせる。
そのとき、ほぼ零児と入れ違いで、一番ヶ瀬さんが教室に戻ってきた。気が進まないが、伝言は伝えなければならない。
おれはしぶしぶ、彼女の元へと向かう。陽毬ちゃん、と気軽に口にする零児のことを思い出して、またむかっ腹が立ってきた。
「……ひ……一番ヶ瀬さん」
「あっ、薙くん! どうしたんですか?」
みんなのいる教室で、おれの方から一番ヶ瀬さんに話しかけることは珍しい。おれはやや周囲の目を気にしつつ続ける。
「……さっき零児が一番ヶ瀬さんに会いに来てて。今日昼一緒に食べないかって言ってた」
「そうなんですね。わかりました! いいですよ」
一番ヶ瀬さんは少しの迷いもなく、ふたつ返事で答えた。
彼女が他人からの頼みを断らないことは知っていたのに、どうしようもなく悲しくなる。
本当は断ってほしかった。でも、おれにそんなこと言う権利なんてない。
仕方ない、今日は一人寂しく昼飯を食うことにしよう……。
「一番ヶ瀬さん、そんなの行かなくていいわよ! あんな奴と二人だなんて危ないわ!」
勢いよく駆け寄って来た松永が、甲高い声で叫ぶ。
今日は珍しく、松永と気が合う日だ。一番ヶ瀬さんは松永の剣幕にも気圧された様子はなく、いつもの笑顔で受け流す。
「大丈夫ですよ。だって、薙くんも一緒ですから」
「へ」
「……え、違うんですか?」
きょとんと呆けているおれに、一番ヶ瀬さんは目を丸くする。おれはぶんぶんと首を横に振った。
「……違わない。おれも一緒に行く」
「よかったです」
おれの答えに、安心したように一番ヶ瀬さんが頰を緩める。守りたい、この笑顔。なんとしてでも零児の毒牙から一番ヶ瀬さんを守らなければ……。
「危険なことに変わりはない気がするけど、如月くんと二人きりよりはマシかしら。くれぐれも気をつけてね、一番ヶ瀬さん」
松永はひとまず納得したのか、「山田くんもおかしな真似はしないように」と釘を刺してから、自分の席へと帰っていった。
おれも戻ろうとしたところで、ぐいと軽く袖を引かれる。振り向くと、一番ヶ瀬さんはおれの耳元に唇を寄せて小声で囁いてきた。
「……お昼休みは飲ませてあげられないので、今日は夜にしましょう。ねっ」
「う、うん……」
……こういうところが「距離が近い」と言われるゆえんなのだろう。おれはにやけそうになるのを必死でこらえながら、無言で頷く。
そのとき、ぞくりという寒気を感じて反射的に振り向く。松永が鬼のような形相でこちらを睨みつけ「距離が近い!」と叫んだ。
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