3:天使みたいな女の子

 クラスメイトの一番ヶ瀬陽毬は、誰からも愛される天使みたいな女の子だ。

 教室の隅で陰気なオーラを放っているだけのおれとは違い、彼女はいつも笑顔で明るくフレンドリーで、優しく親切だ。物腰が柔らかく、同級生に対しても敬語で話す。成績も良いのに気取らず、よくクラスメイトに勉強を教えてあげている。生活態度も真面目で、教師からの信頼も厚い。

 顔立ちだって、派手ではないけれどかなり可愛い。にっこり笑うと目が垂れて、ほっぺたに小さなエクボができる。長い髪をポニーテールに結っていて、歩くたびに頭の後ろでぴょこぴょこ跳ねる。高嶺の花というより、親しみやすいアイドルという雰囲気だ。笑った顔が可愛いと、男どもがそんな風に彼女のことを噂しているのを聞いたことがある。結局のところ、近付き難い美人よりもこういうタイプが一番モテるのだ。

 そんな天使の血を飲んでしまったことがバレたら、おれはきっとクラス中から総スカンを食らうだろう。やっぱり吸血鬼ってやつは信用ならない、と侮蔑され恐れられるに違いない。今だっておれはクラスに友人の一人もいない純然たるぼっちだが、害虫のような扱いをされるのはさすがに辛い。

 ……とはいえ、自分がしでかしたことに関しては、きっちりと落とし前をつけなければならない。




 教室に入る前に、おれは大きく息を吸い込んだ。机の上にゴミがぶち撒けられていようが、黒板に自分の悪口が書かれていようが、クラスメイトから冷たい視線を向けられようが、気を確かに持たなければ。

 後ろの扉から、まるで犯罪者のようにこそこそと教室に入る。いつものように、誰一人おれに注目さえしなかった。机の上もきれいなままだし、黒板にも何も書かれていない。

 おれはほっと胸を撫で下ろした。おそらく一番ヶ瀬さんは、昨日の出来事を誰にも話さずにいてくれたのだろう。やはり彼女はよく出来た人間だ。せめてもの恩返しとして、今後一切彼女に関わらないようにしよう。

 着席しながら、教室の前方にちらりと視線を向ける。一番ヶ瀬さんは友人数人と何やら話しているらしく、くすくすと楽しげに肩を揺らしていた。首元に絆創膏が貼られているのが見えて、どうしたのかなと考えたところで、ハッとした。

 ――馬鹿野郎。おれが昨日噛んだからだろうが。

 彼女の白い首筋におれの牙の痕が残っているのだと思うと、なんだか居た堪れない気持ちになった。

 ふと一番ヶ瀬さんがこちらを向いて、ばちっと視線がぶつかる。しまった、と思い慌てて目を逸らす。

 怖がらせるつもりは微塵もない。別にじろじろ見ていたわけじゃないんだ、もう二度と血を飲もうだなんて思ってないから安心してくれ。


「薙くん、おはようございます!」


 俯いていたおれの頭上に、明るい声が降ってくる。ぎょっとして顔を上げると、にこやかな笑みを浮かべた一番ヶ瀬さんが立っていた。今日は血色も良く、頰は鮮やかな薔薇色に染まっている。

 聞き間違いでなければ、彼女は今おれのことを「薙くん」と呼んだ。動揺から、背中に冷たい汗が流れる。


「……お、はよう……」


 ボソボソと答えながら、キョロキョロと周りの様子を気にする。特に不審に思われてはいないらしく、誰もおれたちを気にしてはいなかった。

 そもそも一番ヶ瀬さんは誰にでも愛想良く声をかけるタイプだし、おれのようなぼっちに話しかけていても不思議ではないのだ。事実、挨拶だけならこれまでも何度か交わしたことがある。

 しかし彼女は挨拶だけではとどまらず、心配そうにおれの顔を覗き込んで言った。


「薙くん、昨日大丈夫でしたか?」

「えっ、あ、うん。おかげさまで。い、一番ヶ瀬さんは? もう平気?」

「わたしはすこぶる元気です! 薙くん、今日お昼ごはん一緒に食べませんか?」

「え」


 おれが固まっていると、一番ヶ瀬さんはにこやかにおれの両手を取る。柔らかな手にぎゅっと握り締められて、心臓がひっくり返るかと思った。


「わたし、もっと薙くんと仲良くなりたいなって思ってるんです」


 ……これはもしかして、遠回しに脅されているのか?

 昼休み、人目につかないところに連れて行かれて「例の件をバラされたくなければ」と脅迫されるのかもしれない。一番ヶ瀬さんに限ってそんなことは、と思うが、はっきり言い切れるほどおれは彼女と親しくない。


「……わかった」


 いずれにせよ、彼女に噛みついたおれに選択肢などないのだ。負い目だってあるし、もう一度きちんと謝りたいとは思っていた。


「わあ、嬉しいです」


 そう言っておれの手を握ったまま微笑んでいる彼女の顔からは、何の感情も読み取れなかった。笑っているはずなのに、なんだかちょっと怖い。




 うちの高校の理科室の隣には、現在は使われていない暗室がある。かつては写真部の部室だったらしいが、廃部になってからは完全に持て余しているみたいだ。

 真っ暗な暗室は、おれにとって昼休みの憩いの場だった。吸血鬼の習性なのかどうかはわからないが、基本的に暗くて静かな場所が好きなのだ。内側から扉を閉めると、まるで夜のような闇に包まれてほっとした。

 本当はおれ一人の秘密にしておきたかったのだが、一番ヶ瀬さんに「いつもどこでお昼食べてるんですか?」と尋ねられ、渋々白状した。制服のポケットから鍵を取り出したおれを見て、彼女は目を丸くする。


「その鍵、どうしたんですか?」

「……生物の信楽しがらき先生から借りてる。あの人も吸血鬼だから、おれに良くしてくれるんだ」

「わあ、仲良しなんですね」


 かなり年齢も離れているし、仲良し、というわけではないが。数の少ない吸血鬼のあいだには、妙な同族意識のようなものがある。覇気のない顔で校内をフラフラしているぼっちのおれを、信楽先生は心配してくれているのだろう。

 暗室の中はよくわからない機械が置いてあり、「故障中」の貼り紙がしたままになっている。部屋の奥に流し台があるが、水は出ないようだ。窓は分厚い暗幕カーテンに覆われており、少しの灯りもない。

 吸血鬼おれは夜目が効くから平気だけれど、一番ヶ瀬さんは何も見えないだろう。電気をつけると、周囲がぼんやりとした光に照らされた。

 中には誰かが持ち込んだ椅子がいくつかある。二人がけの長椅子に腰を下ろすと、一番ヶ瀬さんもいそいそと隣に座り込む。妙に距離感が近くてどきどきした。


「……く、暗くてごめん。カーテン開ける?」

「ううん、平気です。薙くん、暗い方が落ち着くんですよね」

「まあ……そうだけど」


 それはそうだが、薄暗い部屋で女の子と二人きりというシチュエーションの方が、ある意味落ち着かない気がする。

 おれはビニール袋から紙パックの牛乳を取り出すと、ごくごくと飲み始めた。昨日までのおれは、牛乳のことをこの世で一番美味い飲み物だと思っていたのだが、なんだか今は味気なく感じる。今目の前にいる女の子の血の味を知ってしまったせいだ。

 うっかり白い喉元に牙を立てる妄想をしてしまって、おれは舌を噛み切って死にたくなった。クラスメイトに対してそんなことを考えるなんて最低だ。

 にわかに空腹を感じて、おれは「いただきます」と手を合わせてから、持ってきたサンドイッチにかぶりついた。


「わたしもいただきます! 薙くん、パン派ですか? 美味しそうですね」

「うん、近所のパン屋の……一番ヶ瀬さんは弁当?」

「はい! 一応、自分で作ってるんです」


 そう言って見せてくれた弁当箱の中身は、なかなか立派なものだった。「ほとんど冷凍食品ですが」とはにかんでいるけれど、手作りらしい卵焼きも美味そうだ。おれは料理がまったくできないので、立派だと思う。

 それにしても高校に入学してから一年以上経つというのにろくに友人もできず、ぼっちライフを(しぶしぶ)満喫していたおれは、誰かとこうして昼休みを過ごすのは初めてだった。

 おれは基本的に自分から他人に話しかけるタイプではないし、周りの人間もおれに話しかけようとはしない。吸血鬼というだけで遠巻きにされがちなのは本当のことだが、吸血鬼でも友人がいる奴はたくさんいる。要するに、おれがぼっちなのはおれのせいである。

 そんな根っからのぼっちに、一番ヶ瀬さんは一体何の用なのだろうか。こんな薄暗い場所で陰気な男と昼飯を食べたところで、楽しくもなんともないだろうに。

 小さな口に箸を運ぶ横顔を、チラリと盗み見る。突然名前を呼んで距離を縮めてきて、本当にわけがわからない。可愛い女の子にニコニコしながら見つめられると、おれのような男はあらぬ勘違いをしてしまいそうになる。ぬか喜びはしたくないので、勘弁して欲しい。


「……一番ヶ瀬さん。友達と昼飯食わなくていいの」

「わたし、いつも決まったメンバーとお昼食べてるわけじゃないので……気まぐれにいろんなところにお邪魔させてもらってるから、大丈夫です」


 そう言われれば、そうかもしれない。彼女はクラスに友人は多いが、決まった人物といつもべったりというわけではなく、ジプシーのようにいろんな集団を転々としているように見える。派手で騒がしいグループから、真面目でおとなしいグループまで。どこにでも違和感なく溶け込めるのは、彼女の人徳のおかげなのだろう。


「ごちそうさまでした!」


 彼女がそう高らかに言うと同時に、おれもサンドイッチを食べ終わる。ごちそうさまを言う前に、一番ヶ瀬さんはこちらにすっと身を寄せてきた。


「……ねえ、薙くん。デザート、いりませんか?」

「…………は」


 ふわりと漂ってきた甘い香りは、香水やシャンプーのものなんだろうか。それとも、彼女自身から立ち上るものなんだろうか。

 軽く腕に触れられただけで身体中の血液が全身を勢いよく巡り出して、ドッドッと鳴り響く心臓の音がうるさい。


「はい。デザート、どうぞ」


 そう言って目を細めて微笑んだ彼女は、ぞっとするほど妖艶に見えた。

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