2:吸血鬼の本能

 ぐったりと気を失い、おれの胸に倒れ込んできたクラスメイトを両腕で支えながら、おれは「やってしまった」と絶望に打ちひしがれていた。


 吸血鬼の中には、とっかえひっかえいろんな女の子の血を吸っているような不届きな奴もいるが、おれは今まで人間の生き血を吸ったことはなかった。そもそも、そんなに飲みたいとも思わなかったのだ。人工血液よりも牛乳の方がよっぽど美味いし。

 ……しかしこれは、どうやら今までの認識を改めなければならないようだ。

 正直なところ、生まれて初めて飲んだ生き血は、驚くほどに美味だった。大袈裟ではなく、人生観が変わってしまいそうだ。信じられないくらいに甘くて、どろりと濃厚で、でもしつこくなくて、いくらでも飲めてしまいそうだった。「処女の生き血を飲んだことないなんて、人生損してるぞ」と言った友人の気持ちが、今ならわかる。


 ――わたしの血、飲んでください。


 真っ白い華奢な腕を差し出され、囁くようにそう言われた瞬間に、おれは正気を失ってしまった。勢いよく首に噛みついて、夢中になって血液を貪っていた。

 言うまでもなく、同意のない吸血行為は犯罪である。今回の場合、誘ってきたのは向こうとはいえ――相手が気を失うまで血を飲んでしまうなんて最低だ。


「……い、一番ヶ瀬さん」


 名前を呼んで、顔を覗き込んでみる。目を閉じた彼女の睫毛は驚くほど長い。普段は血色の良い頰と唇は青ざめていた。おそらく貧血を起こしているのだろう。

 彼女とは対照的に、先ほどまで日光に当てられフラフラしていたおれは、元気いっぱいになっていた。夜でもないのにこんなに気力に満ち溢れているのは珍しい。一体どれだけ彼女の血液を飲んでしまったのだろうか、と申し訳なくなる。

 もう一度「一番ヶ瀬さん」と声をかけてみると、彼女はおれの腕の中で僅かに身じろぎをした。よかった、生きてる。

 ……それにしても、彼女はどうしておれに血液を飲ませようとしたのだろうか。

 彼女――一番ヶ瀬陽毬ひまりとおれのあいだに接点はほとんどなく、四月に同じクラスになってから今日まで、ろくに会話をしたこともなかった。


 ――やまだくん、おいしいですか?


 もし見間違いでなければ、おれに向かってそう言った彼女は、心底幸せそうに笑っていた。うっとりと恍惚に目を細めて、愛おしむようにおれの髪を撫でて。


「山田くん、おまたせー! 人工血液買ってきたわ……よ……」


 そのとき、谷口先生が勢いよく保健室に戻ってきた。ベッドの上で抱き合っているおれたちを見て、かちんと固まる。数秒ののち、ギョッとしたように目を見開いて、おれの顔を凝視した。


「……山田くん。もしかして、一番ヶ瀬さんの血飲んだ?」

「……はい」


 何故だか状況を察知したらしい谷口先生の問いに、おれはおとなしく頷く。先生は額に手を当ててやれやれと首を振ると、咎めるような、厳しい視線をこちらに向けてきた。


「無理やりじゃないわよね?」

「……一番ヶ瀬さんに、飲んでいいよ、って言われました」


 たぶん信じてもらえないだろうな、と思いつつ答える。案の定、谷口先生は怪訝な表情でこちらを見ていた。

 おれはこれまでそれなりに真面目に生きてきたつもりだし、先生たちからも一定の信頼を得ていたはずだが、そんなもの壊れるのは一瞬だ。これだから吸血鬼は、とでも思われているのかもしれない。

 谷口先生はおれと一番ヶ瀬さんの顔を交互に見て、小さく溜息をついた。


「……わかったわ。どちらにせよ、こんな状況で二人きりにした私の管理不行届ね。ごめんなさい。あとで彼女からも直接話は聞くから。とりあえず、一番ヶ瀬さんのご家族に連絡を……」

「……しないでください」


 小さな声でそう答えたのは、おれの腕の中にいる一番ヶ瀬さんだった。ぐったりとこちらに身体を預けたまま、薄く目を開いて、「家族には、連絡しないで」と繰り返した。


「一番ヶ瀬さん、大丈夫? ごめん、おれ……」

「……ううん。山田くんは悪くないです。先生、すみません。わたしが無理やり山田くんに血を飲ませたんです」

「……どうしてそんなこと……とにかく、とりあえずこれ飲みなさい。一番ヶ瀬さんのぶんも買ってきてよかった」


 一番ヶ瀬さんは差し出されたオレンジジュースのペットボトルを受け取ると、二口ほど控えめに飲んだ。顔色は悪いけれど、大事にはなっていなさそうでホッとする。


「……山田くんは、元気になりました?」

「え? あ、うん……一番ヶ瀬さんの、血飲んだから……」

「よかった……生き血の効果ってすごいですね。美味しかったですか?」

「う、うん……」


 特に処女の生き血は、とはとても言えなかった。とんでもないセクハラだし、そもそも一番ヶ瀬さんが「そう」とは限らないではないか。


「……あの、ほんとにごめん……」

「ううん、いいの。山田くんの力になれたなら、よかったです」


 しょんぼりと詫びたおれに、一番ヶ瀬さんは首を横に振るとニコッと笑った。すると、小さなエクボが両頬に出現する。よく見ると、いやよく見なくても、一番ヶ瀬さんはかなり可愛いし、なんだか柔らかくていい匂いもする。なんだか無駄にドキドキしてきた。

 おれたちのやりとりを見ていた谷口先生は、やや怪訝そうに眉を寄せて言った。


「……なあに? もしかして二人、付き合ってるの?」

「ち、違います」


 とんでもない誤解だ。こんな可愛い女の子がおれの恋人だなんて、めっそうもない。

 おれの胸にもたれかかったままの一番ヶ瀬さんは、残っていたオレンジジュースをごくごくと勢いよく飲み干した。先生の方を見て、きっぱりと言った。


「先生、わたしもう大丈夫です。だから家族には連絡しないでください」

「ほんとに? もう五限だし、早退する?」

「いいえ。……でももう少しだけ、横になっててもいいですか?」

「ええ、もちろん。……山田くんも、もう少しここに居てもいいわよ」

「え。おれもう、元気ですけど」


 一番ヶ瀬さんのおかげで、いつもより元気いっぱいなぐらいだ。身体の内部から活力が湧いてきて、なんだかうずうずしている。もともと運動は苦手だが、今ならホームランだって打てそうな気がした。

 しかし谷口先生は、神妙な顔でかぶりを振った。


「そんな真っ赤な瞳で戻ったら、血飲んだのバレバレよ」


 先生の言葉に、おれは壁に掛けられた鏡に視線をやる。そこに映った自分の顔を見て、ぎょっとした。

 普段は茶に近いおれの瞳は、見たことがないくらいに赤くなっていた。吸血鬼の特徴である、燃えるような赤い瞳。それを見た瞬間、頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。

 おれはこれまで、自分のことを吸血鬼だと殊更に意識したことがなかった。母親に吸血鬼の血がちょっと入っているだけで父さんは人間だし、瞳だって茶色に近いし、牙だってごく小さい。ニンニクよりもパクチーの方が苦手だし、十字架だってちょっと蕁麻疹が出る程度で、普通に触れる。日光には弱いけれど、人間だって炎天下に三十分も突っ立ってたら倒れる奴だっているだろう。

 別に、そんなに特別なことじゃない。普通の人間と変わりがないと、そう思って生きてきた。

 ……それでも今のおれは。あろうことかクラスメイトの血を飲んで、しかもそれを美味しいと感じてしまった。


「血を飲んだ直後で、興奮してるんでしょ。三十分もすれば落ち着くはずだから、それまでここに居るといいわ」

「……わかりました」

「あと、二人とも。……そろそろ離れなさい」


 谷口先生はエヘンと咳払いをしたあと、気まずそうに目を泳がせた。

 そこでようやく、クラスメイトの女の子を抱きしめているという状況に思い至り、恥ずかしくなってきた。おれの人生の中で、こんなに女子と密着したことなんて一度もない。年頃の男女がベッドの上で抱き合っているなんて、不健全すぎる。

 おれが慌てて立ち上がると、一番ヶ瀬さんは入れ替わりのようにベッドに横になった。こちらを見上げる彼女の表情はやけに満足げで、わけがわからなくなる。


「山田くんの瞳、きれいですね」


 そう言った彼女には少しの恐れも見えない。さっきまで自分の血を美味そうに飲んでいた吸血鬼に対して、どうしてそんなに無防備でいられるんだ。

 彼女の首筋に、先ほど噛みついた痕が残っている。真っ白い肌に残った赤い痕に、おれはごくりと喉を鳴らした。今おれの目の前にいるのは、極上のご馳走だ。もっと飲ませろ、とおれの中にある吸血鬼の本能が叫んでいる。

 これまで知らなかった自分の凶暴な一面に、背筋がぞっと冷たくなった。

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