金曜日

 夜に一睡もできなかったせいで、学校に到着した途端、強烈な眠気に襲われた。

 朦朧とした意識の中、子ども時代の夢を見た。

 雨上がりの公園で、俺たちは遊んでいた。誰かが水鉄砲をたくさん持ってきたので、みんなで戦争ごっこをして遊んだ。走るたびに泥が跳ねて、そんなこと気にせず一心不乱に撃ち合っている。

 誰かが放った水を避けようとして、俺は跳躍したが、着地の瞬間足が泥にとられてしまい、後頭部を地面に打ちつけてしまった。

 痛くて動きたくない。気が遠くなる。みんな大騒ぎになってしまい、誰か助けてくれる大人を探しに走り去ってしまった。

 ひとりの女の子が俺の傍に残っていた。体育座りしながら、かわいい大きな目で俺を見下ろしている。次第に痛みが退いてくると、俺は泥まみれの身体を起こした。

「お前さ、手伝えよな」

「ごめんね、てっきり死んじゃったのかと思って」女の子はすきっ歯を見せて笑った。

 予鈴が鳴った。そろそろ朝のホームルームが始まる。

「毎日毎日雨ばっかりでうぜえな」佐々木がバッグについた水滴を拭きながら、俺に愚痴を言った。「梅雨ってマジ嫌いだわ」

「ああ、昨日も降ってたしな」俺は答える。

「一昨日もだっけ?」

「そうだな」

「その前は?」

「降ってたろ」

「やっぱうぜえなあ」佐々木は伸びをした。「天気も人も、じめじめしたやつって本当に嫌いなんだよ俺」

 佐々木は濡れたティッシュをゴミ箱に放り込んだ。バッグに白いクズがたくさん付着しているが、彼にとっては特に問題ないらしい。

「なあ、この学校ってなんかじめじめしてね?」佐々木は言った。「入学して何ヶ月か経つけどさ、この学校つまんねえやつばっか」

「ああ、つまんないやつばっかだな」

「こんな学校行かなきゃよかったな。別のところ行った俺の友達はみんな楽しそうだし」

「絶対そのほうが楽しかっただろうな」

「このクラスも全然可愛い子いないしさ」佐々木は遠くの席にいる相川志保をみた。「そういや知ってるか? 相川って付き合ってる男子いるらしいよ」

「らしいな」

「あーあ、中学のほうが楽しかったなあ」

 昼休みになるとともに、俺は地下室へ向かった。

 途中、中庭の真ん中あたりに、なぜか置き去りにされた犬の糞(人間という線もある)が雨にふやけて、そこら中に散らかっていた。誰かが踏んづけた跡もある。今頃そいつは森羅万象を全身全霊で呪っているだろう。

 合い言葉のノックをして勝手に扉を開けると、いつものように囲いの上からミミズを眺める冴子の後ろ姿が見えた。

「……よう」

「呼んでもないのに来るなんて、珍しいわね」彼女が振り向く。

「なんとなく、気になってな」俺は後ろ手で扉をそっと閉める。「昨日の今日だし、さ」

「そう」冴子は再びミミズに目線を戻した。「でも今日来たのは不運だったかもね」

「は?」俺は塀に登りながら、彼女の言葉に困惑した。

 その疑問も、塀の向こうの惨状を目の当たりにするまでのことである。

 ミミズを見下ろした瞬間、強烈な臭いが鼻にぶつかってきた。

 こいつはこの数日間で小動物から人間に至るまで、結構な量の肉を食べた。当然生き物ならば、体に何かを取り込めば、代わりに何かを外に出さなければならない。原因と結果。それが自然の摂理というものだ。

「ウンコか」

「ウンコよ」

 ミミズのすぐ近くに、緑色の土塊のようなものが敷き詰められていた。人間や他の動物の糞とは様相が異なるし、臭いもかけ離れている。土臭さと生臭さが熱い抱擁を交わしながら結婚して、さらに汗まみれになりながら得体のしれない赤子を出産したような悪臭だ。あまりの臭いに涙が出てきた。

「見てて。そろそろ第二波が来るわよ」

 ミミズは微動だにしないまま静かに脱糞した。なんてことだ。こいつは口が肛門を兼ねているのだ。さんざん物を食べた口から、歯磨き粉を絞り出すように糞をひりだしている。たっぷり数分かけて、緑色のねっとりした山が築かれた。

 出す物を出し切った後、ミミズはわずかにぶるっと震えた。さぞかしすっきりしたことだろう。釘のような歯と歯の間に、緑色のペーストが挟まっているままだった。

「どうすんだよ。こいつをずっと飼ってたら部屋がウンコで溢れるぞ」

 地下室にミミズを隠すどころではなくなる。

「ちょっと考えてみるわ」冴子はハンカチで鼻を覆いながら答えた。

 昼休みが終わり、一旦教室に戻る。

 副担任の先生が教室に入ってきた。

「坂川先生は本日お休みです。今日の数学の授業は一旦自習になりますので、皆さん騒がないように」

 あの緑色の山のどこかに、俺たちの担任もいるはずだ。かき回せば、髪の毛くらいは探せるかもしれませんよ。そう教えてやりたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る