木曜日

 昼休み、今度は俺が冴子の教室を訪ねた。

 毎日毎日彼女が俺の教室に訪れるので、周囲の目が気になるのも理由のひとつだが、前日の人喰わせる発言が気になったのだ。あいつが本当にそんな大それたことを考えているのか、確かめたくて仕方ない。

 冴子は後ろの方の席で、読書に没頭していた。彼女の半径1メートルから腐臭でも漂ってくるわけでもないだろうが、その席の周りには誰も近寄ろうとしない。そこへ殊勝にも歩み寄る俺の姿は、ビリー・アイリッシュが駅前の商店街を歩くよりも目立つ。

 冴子は俺が近づいてもまったく気づかないほど、読書に集中していた。まん丸の目を小刻みに上下させて文字を追っている。古本屋の値段シールが貼られたままの黄ばんだ文庫本。背表紙に書かれた書名は、友成純一著『凌辱の魔界』。さぞや上品な本なのだろう。

「お前さあ、その本にカバーでもかけろよ」

「あら、来たの」声音は冷静そのものだが、俺から出向いたことに驚いているのか、見上げた眼がいつもより大きく開かれている。

「話がある。例の場所行くぞ」

 俺たちは廊下を並んで歩きながら、地下室へ向かった。二人とも無言だった。ミミズ関連のことはあまり廊下で話したくないから、俺たちに共通の話題はまったくない。

 途中、相川志保が別のクラスの男子と連れ立って歩いているところを目撃した。

 俺はわけもなく廊下の窓を眺めた。あいかわらず今日も重たげな雲しか見えない。

「失恋?」俺を横目で見ていた冴子は、犬よりも敏感な嗅覚を発揮した。「あなたから明らかに落胆の臭いがしたわ」

「……何が?」

「今歩いてた女子、同じクラスの女でしょ。あの男子とやたら仲良さそうだったわね。あのハゲ頭から察するに野球部かしら。スポーツ系のたくましい男子がお好みみたいね。その点あなたじゃ系統が全然違うわ。きっと彼女の眼中にもなかったわよ。残念だった? 残念だったでしょ?」

「うるせえよ」

「黙らないわ」この女は他人の不幸で活力を得るらしく、目が爛々と輝いている。「あの女のどこが気に入ってたの? 顔? 話しかけたら優しく接してくれたからコロッと騙された? あなたがシケた放課後や休日を過ごしている間、あの二人はさぞかし楽しかったでしょうね。そうよ、今日もお昼ご飯を食べ終わったら、次の授業が始まるまでトイレとか校舎の陰にこっそり行ってズッコンバッコン……」

 進行方向で、ひとりの男子と鉢合わせた。道を譲り合うという発想を彼はまったく持ち合わせていないらしく、俺と冴子に強めにぶつかったが、謝りもせず立ち去っていく。

「将来の夢がまたひとつ増えたわ」冴子の声から喜悦が消え、冷たい炎が燃え始めた。「あいつの墓の上であいつの娘をレイプしてやる」

 こいつの人生は夢いっぱいで羨ましい。

 そうこうしているうちに、地下室に到着した。

「で、話ってなによ」

「お前さ、昨日、ええと、最後に言ってたろ」

「何を」

「喰わせる。あのミミズに、人を」

「ああ、あれね」

「冗談だよな」

「本気よ」顔面がねちゃりと歪んだが、これは彼女なりの笑顔なのだ。「冗談だと思ったかしら?」

 俺は言葉に窮した。猫やハムスターを殺したこと、今回の発言、それらを考慮するに、冴子の狂気は手のつけられない段階に達しているかもしれない。そのことに慄然としたのだ。

 ノックもなく、入り口の扉が開いた。

「お前ら、こんなところで何やってんだ」

 俺たちが驚いて振り向くと、外の光を背にして立っている坂川先生の姿が見えた。

「まさかここで――」と言い、冴子の顔をちらりと見る。「まあ、それはないか。とにかくこんな部屋を使う許可は出してないぞ。何をしてるんだ」

 俺が口をぱくぱくさせていると、答えたのは冴子だった。

「生き物の観察を」

「生き物?」坂川先生は怪訝な顔をした。「こんなところにか?」

 冴子はミミズについて詳しく伝えた。

「本当です。そこに囲いをつくって捕まえているんです」冴子は堀を指さした。「先生も見てみてください」

「なんだそりゃ」

 坂上先生は塀をよじ登り始めた。後ろから眺めていると、大人がそんなことをやっている姿は滑稽に感じた。

「登ったぞ」坂川先生は四つん這いになって下を見下ろした。「何もないじゃないか」

 俺も冴子も驚いた。先生と並んで見下ろしてみると、確かに何もいない。まるで俺たちにしか見えなかった悪夢のように、ミミズの姿は影も形もなくなっていた。

「お前ら、でたらめ言ってるな」

「こんなはずじゃ。本当に昨日までは」俺はしどろもどろになった。

「じゃあもっと詳しく確認してやろうか」先生は囲いの中に飛び降りた。「うわっ、床が何かぬるぬるしてるな」

 そうやって先生がしゃがむ瞬間を、ミミズはずっと待っていたのだ。

 ちょうど塀の上からでは死角になる位置、塀の一番下側の隙間に、ミミズは巧妙に身を隠していた。先生の顔に向けて、尾をバネにして飛びかかる。

 細長い身体が胴にぐるぐると巻き付けられると、まるで折りたたみの傘が開くように、口が信じられないほど大きく拡げられた。先生が人生最後に見た光景は、ピンク色の肉傘と、剣山のような無数の歯だったに違いない。ミミズは先生の顔にかぶりついた。まるで薄いゴムが被さるように、先生の顔をすっぽり覆い尽くした。

 ぼあー、ぼあー、と言葉にならないくぐもった悲鳴が聞こえる。

 若い数学教師は、顔面を犯されて絶命した。

 ブツリ、と音をたててミミズは先生の首を噛み切り、残った胴体も次々に囓っていく。俺たちが呆気にとられている間、自分よりも遙かに大きい人体を、驚異的な速度で咀嚼する。もはや服すら残さない貪欲さで、人間一人の存在を完全に消してしまった。

 ミミズは全身を苦しげに脈打たせ、変態を開始した。透明な粘液を滴らせながら古い皮を脱ぎ捨てていく。

 針のようだった歯は、いまや釘のように太く変わった。

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