火曜日
全身が総毛立つような叫びが、校舎中に響いた。
怪物が突如現れたのだ。
校庭は阿鼻叫喚の地獄と化している。黒く巨大な怪物は、辺り構わず生徒たちを捕食しているのだ。鋭い牙が人体を噛みちぎり、禍々しい爪が鮮血を散らす。まさに殺意のみを燃料とする機械だった。その恐ろしい咆哮によって、逃げる者たちの闘志や生きる望みさえ萎えさせてしまう。
怪物がひとりの女子生徒に目を留めた。膝を震わせて立ち竦む相川志保だ。黒く筋骨隆々の殺戮生物と、それと対比を成すように白く弱々しい夏服の少女。その次の瞬間、どんな残酷な光景が展開されるかは明白だ。
誰もが絶望した次の瞬間、怪物の目の前にひとりの男子生徒が立ちはだかった。無粋な邪魔をされた怪物は怒りの雄叫びをあげる。しかし少女を守るようにして立つ少年は、その威圧にも全く動じる様子がない。熱くて臭い息が吹き付けてくる。喰い殺そうと迫り来る怪物の牙を前にして少年は
視界が爆発し、鼻にワサビ丸ごと一本ぶち込んだような痛みが襲ってくる。
怪物の代わりに俺の顔面へ飛んできたのは、バスケットボールだった。
体育の時間、佐々木がパスし損なったボールによって、俺の心地よい白昼夢は終わりを告げた。授業終了し、体育着から着替え終わっても尚止まらない鼻血に悶々としていると、栗山冴子が、また教室の入り口にやって来た。雨が強まって雷が轟き、生徒たちは人生でもっとも不幸な瞬間を思い出し、どこか遠くで車と車が正面衝突して運転手が死んだ。
「よお、お前の彼女が呼んでるぞ」ボールをぶつけたことを全く謝らない佐々木が、俺をちゃかしながら教える。
「彼女じゃないって」
そう言ってから、俺は冴子の前に向かった。
冴子は、ティッシュを鼻に詰めた俺の顔をまじまじと眺める。
「無様な顔ね」挨拶一番、言うことがそれか。「もちろん、例の場所に来るわよね。あのミミズをいろいろと観察したいのだけど」
なぜ俺が冴子に付き合っているか、不思議に思う人もいるかもしれない。普通に考えて、こんな陰気で気味悪い女についていくメリットはないだろう。それでも渋々ながら一緒に地下室へ行くには、俺の抱く罪悪感が多分に関係していた。
栗山冴子の人生のピークは、小学生時代を最後にとっくに過ぎ去っている。
あの頃は、分け隔てなくみんなと仲良くできていた。驚くなかれ、なかなか快活なやつだったのだ。俺の記憶では、女子よりも男子の友達が多かったようだ。昼休みや放課後に校庭や公園に行くと、いつものメンバーの中に大抵彼女がいたものだ。元気なわんぱく坊主たちと同じように、自転車を乗り回し、駄菓子を買って、カードゲームやなにやらで楽しそうに遊んでいた。
しかしそれも、子ども時代の「魔法」が消えてしまうまでのことだ。せいぜい中学一年までは、彼女の人生にも陽光の残り香があった。中学時代とは、「自分がどのようなタイプの人間であるか」をおぼろげながらにも認識していく年頃である。次第に彼女の立ち位置は、教室の中心から、陽の差さない隅っこへと移動していくことになる。
くりくりと元気に動いていた大きな目は、ぎょろりと不気味なものになり、短くボーイッシュな黒髪は、腰まで届く幽霊然としたものに変わる。背丈だけはまったく伸びなかった。
話し声はどんどん小さくなり、何に影響されたのか言葉遣いは変になっていく。今の時代、語尾に「だわ」「のよ」なんてつける女子はいない。他人と交わる時間はどんどん減っていき、席に座りながら、黙々と本を読んで閉じ籠もることが多くなっていく。
ある日、クラスの中心部にいる女子のひとりが冴子に声をかけた。
「栗山さん、なに読んでるの?」
一見、孤立したクラスメイトへ親しげに接しているように見えるが、おもしろ半分であることは明白だ。その口調や態度からは、軽蔑の調子を隠すことはできない。
遠くには、くすくす笑いながら見守る彼女の友人たちがたむろしている。
対する冴子は本から目も上げずに、何も答えない。
「ねえ見せてよ」女子は冴子から文庫本を取り上げると、表紙を見た。「げっ」
クライブ・バーカーとかいう作家の『真夜中の人肉列車』という本だった。爬虫類みたいにごつごつした肌の不気味な男が、血走った目を爛々と見開き、鋭い歯をむき出しにしている強烈な表紙だった。題名を鑑みれば、この男が何を食べるのか、どんな淑女でも察しが付く。それ以来、ただでさえ冷たかった周囲による冴子への扱いは、苛烈さの妙を加味されて、生ゴミに対する態度と同様になった。
そんな女に近づくことはメリットがないどころか、リスクすら考えられた。中学二年生になって間もないある日、俺はクラスメイトたちと別れて、ひとりで家に帰る途中だった。昔よく遊んでいた公園の近くにさしかかった頃、前方を歩く冴子の後ろ姿を見つけてしまった。ぼさぼさの髪、野暮ったい長いスカート、猫背のせいで背丈が余計に小さく見える。
振り向くな、こっちに気づくな、そう全力で念じる俺の心も無力だった。冴子は振り向いて俺を見つけてしまった。曇ったような瞳が、俺を見つけたことで喜びの光を帯びた。
彼女は立ち止まって、俺が追いつくのを待つ。
俺は追いつき、追い越し、何も言わずに歩き去った。
それから中学を卒業するまで、俺と冴子はまったく口をきかなかったばかりか、顔も合わせることがなかった。俺はそこそこの数のクラスメイトたちと上手く付き合って、冴子は一切のクラスメイトとも接することなく、歩く生ゴミとして残りの学校生活を送った。
胸をちくりと刺す思い出だ。
気がつけば、地下室の扉に辿り着いていた。特殊なリズムでノックする。扉が開き、白い顔がぬっと突きだしてきた。
「来たわね」
「だからさあ、怖いんだよそれ」
高校で再会した彼女は、無視した件がまるで嘘のように、問題なく接してくる。こいつはあのことを忘れているのだろうか。恨んでいないのだろうか。
「鼻血は止まったのね」
「おかげさまで」
昨日と同じ要領で塀をよじ登って中をのぞき込むと、やはりミミズがいた。床に残った粘液の銀色に光る跡から考えるに、あまり動いていないようだ。ずっと同じ場所に留まって、たまに身体を蠕動させてゆっくりと這いずる。
「なんか覇気のない生き物だな」
「お腹が減ってるのかも。何か食べさせてみましょう」
冴子は手に持っていた茶色の紙袋から、ドーナツをひとつ取り出した。
ミミズに向けて放り投げた。床に落ちてコロコロ転がって、ミミズの顔の正面で止まる。しかし食べる素振りは全くない。
「お昼ご飯。今日の私のお昼ご飯なのに」彼女の瞳に怨念の火が灯る。「せっかくあげたのに、興味示さないなんて許せないわ」
「食いたくないなら仕方ないだろ。飼うって言ったのお前なんだから、理不尽に怒るなよ」
「じゃあ何を食べるのかしら」
「さあ。ミミズって枯れ葉とか食うんじゃなかったっけ」
自分で枯れ葉と提案しておいてあれだが、あれほど鋭い歯の持ち主が、そんなつまらないものを食べるとは思えない。
そのとき、俺は鼻の奥にむず痒さを感じた。鼻血がするりと流れ出る。見下ろす先の床に、一滴の血が落ちた。
ミミズは激しい反応を見せた。
今までの鈍重さが嘘のように、赤い一点に向けて、ガチガチと歯を鳴らし、すばやく躍りかかる。ほんのわずかな血を舐め取り、それでも足りないとばかりにコンクリートの床に噛みついて表面を削り取ってしまった。凄まじい飢餓の奔流を感じさせる、凶暴な姿だった。
夢魔に魅入られたように、俺と冴子はそれを見つめるしかなかった。
ミミズはゆっくりと頭をもたげて、血を落とした俺を見た。
俺とミミズは目を合わせた。ミミズには目がないはずなのに、俺は確かにそれを感じた。あいつは俺を見ている。
「血にあんなに興奮してた」
隣の冴子を見ると、彼女の目は裂けんばかりに見開かれている。
「肉を食べるんだわ」
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